第5話 結婚

 彼女の名前は、滝沢梨花と言った。

「かわいい名前だね」

 というと、はにかみながら、

「そう、嬉しいわ」

 と、本当に喜んでいるようだった。

 その時に見える口元の八重歯がかわいく、

「チャームポイントはどこだと思う?」

 と聞かれると、

「一も二もなく、八重歯だろう」

 と答えるだろう。

 そんな梨花は、看護婦だった。言われてみれば、そのあどけなさは、白衣からも分かるような気がして。

「こんな看護婦さんに点滴を打ってもらえたら、嬉しいよな」

 と思うほどだった。

 若い頃は結構風邪をひくことも多く、ちょくちょく、病院で点滴を打ってもらっていたりしたので、風邪を引いた時など、彼女の病院で点滴を打ってもらったりしたものだ。

 二人は関係を画しているつもりだったが、他の看護婦にはバレバレだったようで、

「だって、二人とも分かりやすいんですもの」

 と言われたと言っている。

「そうなんだ。俺には自分ではわからなかったけどな。やっぱり、女性って結構勘が鋭いんだな」

 というと、

「それはそうよ。でも、私は結構そういうところは鈍いので、結構分からなかったりするのよ」

 というではないか。

「そっか、梨花さんはよくわかる方だと思っていたんだけどね」

 と言ったが、それは本音だった。

「そんなことはないのよ。実際には、よくわかっているように見られがちなんだけど、それもちょっと嫌なところかな?」

 という。

 他の人も同じことを感じていると聞いた時、少しホッとしたが、彼女からすれば、それが嫌なところと言われてしまうと、少し気まずい気がした。だが、若い、そして好き合っている二人には、そんなことはどうでもいいことであるように、すぐに会話の波にのまれていくように、忘れ去ってくれるのはありがたいことだったのだ。

「僕たちって、結構いいカップルなんだろうか?」

 というと、

「私はそう思っているわよ」

 と梨花は言ったが、どうやら梨花は今まで男性と付き合ったことはなかったという。

 彼女の友達で、山沖君の知り合いと言っていた彼女は二人を祝福してくれていたのだが、梨花の同僚の看護婦連中は、

「あの人はやめた方がいいんじゃない?」

 と言っていたということを、だいぶ後になって聞かされたことがあった。

――後になって聞かされてもねぇ――

 と、その時は思ったが、その時敢えて梨花が触れなかったのは、梨花自身も、

「二人に対してそんな水を差すようなことは言わないでほしいわ」

 と感じたからなのかも知れない。

 洋二は梨花のことを、梨花は洋二のことを、

「将来の伴侶」

 だといつ頃から思い始めていたのだろう?

 洋二とすれば、いつの間にか、頭の中で、

「恭子の呪縛」

 が消えていった瞬間があったのだろうが、それを感じさせなかったのは、梨花の存在が一気に自分の中で大きくなった瞬間があったからではないかと感じた時ではないだろうか?

 それを思うと、二人は、

「いずれ結婚する」

 と、洋二が考えた瞬間だっただろう。

 梨花がいつからそう思い始めたのかは、自分でもわかっていないかも知れないが、そう思うようになった事実は間違いなく存在し、最初から結婚前提での付き合いだと思っていたのに、いつの間にか、交際期間が三年を越えていた。

「三年の交際期間というのは、結構長いんだろうか?」

 と考えたりしたが、

「お互いに結婚するつもりなんだから、長さは関係ない」

 と感じているのは、なかなか結婚に踏み切ろうとしない洋二に、よく梨花もキレずにいてくれたものだ。

 やはり、結婚の意思は固かったのだろう。

 それでも、いずれ結婚の意思が固まる時はやってくる。

「ねえ、私たちこれから、どうなるの?」

 と、ホテルのベッドで、

「一戦交えた後」

 に、梨花に言われた。

 まだ身体の奥にけだるさが残っていたので、一瞬、夢でも見ているのかと感じたが、すぐに我に返ると、

「結婚しようと思っている。もちろん、君もそのつもりだと思っているんだけどね」

 というと、梨花は、洋二の胸に顔をうずめて、

「嬉しい」

 と言った。

 梨花とすれば、一世一代の決心があったのだろう。完全に、

「逆プロポーズ」

 と言ってもいい。

 ある程度まで覚悟は固めていた洋二の背中を絶妙のタイミングで、梨花は押してくれたのだった。

「すまないね。君に言わせるなんて、男の風上にもおけないね」

 というと、

「そんなことはないわ。そんなあなただから好きになったのかも知れない。背中を押すのはどっちからでもよかったのよ」

 と、梨花がいった。

「ありがとう、そういってくれると、嬉しいよ。でもここからは俺が先頭に立って、結婚に邁進するから、安心してね」

 という言葉がウソではないとばかりに、洋二の反応は早かった。

 結婚式まで半年の期間もなく、いろいろと決めてきた。

 別に急いで結婚にこぎつける理由はなかったが、お互いに結婚を派手にしたくない両親を持っていることで、話が決まれば後は早かったのだ。

 披露宴も別に開くこともなく、親族の食事会だけにした。バブルも弾けてしまったことで、そういう風潮が全国に浸透していったのだったからである。

「ところで、よかったら、僕のどこを好きになったのか、言ってくれると嬉しいな」

 というと、彼女は、

「それはね、付き合い始めた頃のことだったんだけど、あなたが、会社の社員旅行から帰ってくる時があったでしょう? あの時待ち合わせしたよね?」

 と言われ、

「ああ、そうだったね」

 と口では言ったが、ハッキリと覚えている。

――ああ、あの時のことを気にしてくれていたんだ――

 と思うと嬉しくなってきた。

「あの時、あなたは、待ち合わせに遅れると思ったんだよね? でも、連絡のつけようがないので、あなたは、途中の駅から新幹線を使ってくれた」

「うん、あの時は、皆が車を持ち寄っての相乗りだったので、高速道路が混んでいたこともあって、急ぐ人は電車で帰るということで、途中の駅でおろしてくれたんだよ。だから、僕は新幹線を使ったんだ。おかげで待ち合わせに遅れずに済んだんだけどね」

 というと、

「それが私には嬉しかったのよ。だって、私の知っている人で、そこまでして待ち合わせに遅れないようにしようなんて人いなかったですもん。私はその時に感動して、それであなたと付き合おうって思ったんですよ」

 と言ってくれた。

「えっ? あの時だったのかい? 僕はもっと前から付き合っているつもりだったんだよ」

 というと、

「そうなのよね。あの時の感覚の違いが、私にあなたを選ばせてくれることになったのだから、私にはキューピットのようなものだったのよね」

 と、彼女は言った。

「あれから、だいぶ待たせちゃったけど、申し訳なかったね。でも、僕は最初から結婚するなら、君しかいないと思っていたんだ」

 この言葉は、洋二にとっての本音だった。

 別れた女のことを引きずってはいたが、それは、どうしようもないということは分かっていてのことだった。

 引きずっている気持ちがあったので、このまま梨花と結婚することはできないとも思った。

 まずが、恭子を振り切って、そして真正面から梨花を見つめることで、自分の気持ちをハッキリさせる。そこからだったので、結婚を決意するまでには時間がかかった。

 しかし、結婚相手は、梨花しかいないということは分かっていて、そして梨花も同じ気持ちだということが分かっていたので、梨花に甘える形になってしまった。

 本当に梨花の方から言ってくればければ、プロポーズのタイミングを逸するところでもあった。

「こういうのは、タイミングが大切だ」

 ということなのであろう。

 二人の結婚にまず障害があったのは、それぞれの親に対しての説得であった。相手の親の説得はもちろんのこと、恭子の時のことでは、

「前科」

 がある自分の父親を説得するのは、至難の業だと思っていたのだった。

 まずは、梨花の両親への説得だった。

 かなり緊張したが、思ったよりも、うまくいった。

 もっとも、面識がないわけでもなく、毎回デートの後には家の前まで送ってくる自分のことに好感を持ってくれているということは、梨花の口からきいていて、分かっていることであった。

 おかげで、気さくなイメージで説得することができ、一安心だったが、今度は自分の親への説得だった。

 梨花を伴って、

「俺、この人と結婚したいんだ」

 というと、あっけなく、賛成してくれたことに対して、拍子抜けしたほどだった。

 以前、梨花が洋二のお弁当を、朝早く起きて作ってくれて、そっと家の前に置いておいてくれたということを、父親は一度、出張でうちに泊まった時、知っていたのだ。その時の印章がよほどよかったようで、

「あのお弁当のお嬢さんか?」

 と聞かれたので、

「ああ、そうだよ」

 というと、

「じゃあ、お会いするのが楽しみだって、彼女に伝えておいてくれ」

 と言われたことで、かなりの自信はあったのだ。

 実際に会わせてみると、結婚のことというよりも世間話の方が多かった。初めて会ったとは思えないような口調に、

――なぜ、恭子の時、あんなに頑なな態度を取ったんだ?

 と思わせるほどであった。

 わざと結婚について触れないことが却って気持ち悪く感じられ、席がお開きになってから、父親に聞いてみた。

「どうして、前の時はあんなに反対したんだい?」

 と聞くと、

「別に相手に不足があったわけじゃない。お前が焦っているように見えて、それがきっと相手の感情を揺さぶったせいで、お前がプレッシャーとなって、余計に焦りとなっているんじゃないかと思うと、簡単に賛成することはできないと思ったのさ。お前は、自分の判断力のなさを相手に気を遣っているからだって思っているのかも知れないが、それは違う。あくまでも、それは逃げなんだ。逃げようとするから焦るのであって、まるでじてしゃ操業で首がまわらなくなる会社のようだって思わないか?」

 と言われた。

 なるほど、いいたとえだと思った。

 ただ、あの時の感情は、今でも覚えているが、理屈で解釈できないくらいにテンパっていた。それが、洋二の性格であり、いい面、悪い面の両方を持った部分であった。

 もし、人から、

「お前は二重人格だ」

 と言われたとすれば、裏表に似た感覚を見ているのかも知れない。

 それを思うと、恭子の時、自分がどれだけ視野が狭かったのかということを思い知らされた気がしたが、だがあの時の自分は、まわりが皆敵だらけに見えていたのだということも分かっていて。そんな状態であれば、何を言われても、言った相手に恨みを抱くのは当然のことのように思うのだった。

 だが、梨花に対しては違った。すでに仕事の面でも、毎日が充実している姿を見ている父親は、一緒に住んでいなくても分かっているようだった。

 そんな父親が忌々しいと思うのは、やはり、恭子の時の、

「恨み」

 があるからだろうか。

 逆恨みなのかも知れないが、恨まなければ、自分が立ち直ることができなかったのも事実で、あの時の仕返しくらいに思っていた。

 親であろうと、あの場合は仕方のないことだったのかも知れないが、息子が決意したことを、しっかり話もせずに勝手に態度を硬化させて、反対に転じるというやり方は、ひどいとしか思えなかった。

 だから、恨みはひどいもので、

「一生、許さない」

 と思い、

「自分が親になったら、あんな親にだけは絶対にならない」

 と思ったものだ。

 思い出すのが、中学の時だったか、友達の家に正月、友達が数人集まった時のことだった。

「皆、遅いから泊まっていきなさいよ」

 と、友達のお母さんから言われ、皆電話で親の許可をもらっていた。

 洋二もさっそく家に電話を入れ、

「今日、友達の家に泊まってくる。友達の親が、泊まっていきなさいって言ってくれたんだよ」

 と説明したが、

「帰ってきないさ」

 と言われた。

「何でだよ。皆泊まるって言ってるんだよ?」

 というと、

「よそはよそ、うちはうち」

 と言われて、強制的に帰らされることになった。

 今でも、この言葉は嫌味な言葉の代表のように頭の中に残っているが、その時は、本当に自分が情けなくてたまらなかった。

――以前にも似たような経験があったような気がする――

 というのを、その時に思い出していた。

 あれは小学生の頃だった。

 あの頃の母親は厳しく、学校から帰ってきてから、カバンの中のチェックが入ったのだ。ノートや筆箱、教科書に至るまで、時間割に沿って、ちゃんと揃っているかというチェックだった。

 ある日、筆箱の中にあるはずの、赤いボールペンが入っていなかった。

「どうしたの? 赤いボールペンがないけど?」

 と言われて、

「あっ、学校に忘れてきたのかも知れない。明日持って帰る」

 というと、

「何言ってるの。もし今から必要になったらどうするの? 今から学校まで取りに行ってきなさい」

 と言われた。

 学校まで、子供の足で歩いて三十分はかかる。しかも途中は坂道になっていて、帰宅するだけで、結構疲れているのに、今からとんぼ返りで学校にいくなんて。しかも、今度はまた家まで帰ってこなければいけないので、倍の距離を歩くことになる。行って帰るだけで一時間を要してしまうのだった。

 歩くことがつらいというよりも、

「どうして、ボールペンごときで、こんな目に遭わなければいけないんだ? 明日でいいじゃん」

 と思い、母親にそういうと、

「何が、ごときよ。あんたのその考え方が気に食わないの。四の五の言わずに行ってきなさい」

 と言われた。

 洋二少年は、理不尽でありながら、母親に逆らうことができず、結局取りに行かなければならない自分の立場に腹が立った。

 そして、情けなく思い、泣く泣く学校までの道のりを往復したのだった。

 それ以降も何度も同じ目に遭っていて、それまでは、そんなにポカはしなかったのに、それから定期的にするようになったのだ。

「親に対しての反発心から、忘れてしまうということになってしまうんだろうか?」

 と、洋二少年は感じたのだった。

 子供相手に、何をムキになっているというのか、洋二は、苛立ちしかなかった。

 その時の思いが、中学のその時、父親に感じた。

「皆が泊まるというのだから、俺一人くらい増えたって別に問題ないだろう」

 という意識を持っていた。

 またしても情けなくなり、涙が止まらなかったのを覚えている。

 今度は自分が大人になって、友達などが、自分に対して何か言い訳をする時、あからさまに言い訳だって分かるような言い方をしている人に対し、怒りがこみあげてくる。

「何だって、そんな子供のような分かり切った言いわけをするんだ?」

 と思い、これほどの怒り、これまでになかったよなと感じると、またしても、昔の父親と母親の理不尽さがこみあげてくる。

 だが、今度は立場が逆で、言い訳をしている連中に憤りを感じると、この怒りはさらに深まってくる。

「あの時の父や母の気持ちは、今の俺の気持ちだったのだろうか?」

 と感じると、

「まさにその通り」

 としか思えないのだった。

 だからと言って、両親を恨まないわけにはいかない。ただ、このことを感じるようになってから、

「ひょっとすると、父親も母親も、親から同じような教育を受けてきたのではないだろうか?」

 と感じた。

 その時に、どれほどの怒りがこみあげていたのか分からないが、この気持ちは間違いなく遺伝であることが分かった気がした。

 逆恨みとも思えるが、これを自分の子供にも受け継ぐことが指名だという気持ちもあるのだった。

「父親と母親のどちらからの仕打ちがつらかったのか?」

 と聞かれると、比較するには、酷似すぎることから、比較にならなかった。

 しかし、時間的に近いという意味で、父親からの仕打ちの方が印象に深く残っている。しかも、理由が理由になっていないからだった。

 理由を聞いても、

「うちはうち」

 としか言わない。

 恭子の時のように、理不尽ではあるが、理屈の通った理由ではないからだった。

「子供には何を言っても無駄だとでも思ったのか、それとも、自分も父親から同じように、問答無用で受けた仕打ちだったのか、それによって。父親に対しての思いも、結構変わってくる」

 というものである。

 父親の仕打ちを思い出していると、今回の恭子との時のことの対応は、まだ理屈的には分かるというものだ。

 しかし、もうすでに子供ではないと思っている洋二には、納得できるものではなかった。ただ、会社ではまだ新人であり、まだまだ甘いところがあると思っているが、それは相手が他人だからである。

 ずっと子供の頃から成長を見てきた父親に分からないはずもないだろう。それでも、このような仕打ちは、

「自分のことを、まだまだ子供だと思っているからではないか?」

 と感じたのだ。

 しかも、子供としては結婚を考えている一生の問題である。それを、親が理屈も説明せず、反対するというのが、これほど理不尽だとは思わなかった。

 まるで、封建制度のようではないか。

 戦前までは、まだまだ封建的な風習は残っていて、許嫁なるものが存在し、親が勝手に結婚相手を見つけてきたりして、

「政略結婚」

 というのも、頻繁に行われていた。

 もちろん、由緒正しき家でしかないことなのだろうが、勝手に結婚相手を自分でみつけてもいいという時代ではなかったのだ。

 江戸時代に存在した、

「士農工商」

 なる身分制度は、あくまでも、政治的な意味があった。

 農民が、生活が苦しいと言って、勝手に土地を捨てて、他の土地に行ったり、商人になったりすると、計画している年貢が取れなくなる。

 年貢という言い方をすると、いかにも悪代官が農民を苦しめているかのように思えるが、一口で言えば、

「税金」

 である。

 今の日本国憲法でも、国民の三大義務として、

「勤労、納税、教育」

 の三つの中に入っているのが税金ではないか。

 しかも、今は直接税として、誰にでも絶対にものを買ったらついてくる

「消費税」

 というものがある。

 税金がなければ、国家が成立しないのである。

 当時だって、

「そもそも、幕府がなければ、自分たちだって何もできない」

 ということになる。そういう意味では、税金を納めることは絶対なのだが、その方法がかなり間違っていたり、強引だったりするのが、問題なのだ。

 それを言えば、確かに家族を守るために、結婚相手を選別するのは当然だろう。しかし、時代は民主主義の時代。恋愛も結婚も自由なのだ、ただ、法律的能力者でなければ、自分勝手に決められないというのは存在するが、それは本人やまわりの人の利益を守るためである。

 守らなければいけないものを守るのは当然のことであり。そこに少々の理不尽さがあっても、誰かが犠牲になることは分かっているとすれば、それが自分だったということである。

 ただ、そんな理屈が、結婚で頭の凝り固まった若者に分かるはずもない。

 強行する方は、しょうがかいと思ってしていることなのであろう。

 そんなことを考えていると、結婚というものがどういうものなのか、考えないわけにもいかなかった。

「結婚は、人生の墓場だ」

 とよく言われるが、結婚した人を見る限り、幸せと自信に満ち溢れている。

 どのあたりから、足を踏み外すのであろうか?

 実際に結婚してみると、楽しいことが多かった。それは、二人の交際期間が中途半端に長かったことが大きかったのかも知れない。

 三年、いや、四年が経っていた。

「五年もつきあっていると、長い春だと言われかねない」

 と言われたことがあった。

 だから自分でも、五年以内に結婚は考えないといけないと感じていた。

 そんなプレッシャーがある中、どうしてお、恭子の呪縛がぬぐいされない。付き合い始めた時は、恭子の呪縛は、彼女自身だったが、彼女の影が次第に消えていくと、まるで光視症のようにまとわりついてくるのは、彼女の存在ではなく、結婚できなかったことへの呪縛だった。

 だが、その呪縛は時間が経つにつれて、問題が自分にあったことを示しているようだった。

「結婚という言葉が呪縛になって襲い掛かる。しかも、相手には、以前結婚を考えたが、あきらめた。しかも、今はもうこの世にはいないという存在の人間がいる。俺にはとても太刀打ちできない」

 という思いが強く、何をどうしていいのかが思いつかないのだ。

 見えない敵とでもいえばいいのか、その人の呪縛を考えていると、次第に、別れが近いことを悟ったような気がする。自分の中で、

「このまま、苦しまずに別れられることができれば、それが一番いいのかもしれないな」

 とも感じていたが、それはすぐに打ち消した。

 なぜなら、

「このまま別れてしまうと、絶対に後悔するに決まっている」

 という思いが頭をもたげたからだった。

 どんなことがあっても、別れると分かっていても、

「自分が抗わなければ、自分が自分ではなくなるんだ」

 という思いである。

 そのために、ダメだと分かっていることに突進していった。まるで、玉砕か、特攻隊のようではないか?

 それを思うと、玉砕も特攻隊も、あまりいいイメージで語られていないが、それをしなかったら? と考えると怖い気もする。

「生きて虜囚の辱めを受けず」

 という言葉を、戦陣訓として聞くことがあるだろう。

 これは、

「生き残って捕虜になり、辱めを受けるくらいなら、潔く自決を選ぶべし」

 ということの教えであるが、それは、戦時中だけのことではなく、昔は戦国時代であったり、日露戦争などの時期にも言われていたことである。

 近代戦争においては、捕虜というものに対して、

「ハーグ陸戦協定」

 において、

「捕虜の人権」

 を保証し、虐待を許さないという条約があるが、実際に戦争に突入するとそうも言っていられない。

 諜報を用いた特務機関のようなものがあり、スパイが横行していた李する可能性があれば、捕虜が、そのスパイであれば、手厚く保護していては、自分たちの身が危ないということもあり、捕虜であっても、緊張して当たらないといけない場合もある。

 もし変な噂でも流れていれば、捕虜を虐殺することもあっただろう。そんな話が日本政府にも流れていて、

「捕虜になると、相手は鬼畜同様となり、容赦はしない」

 と言われていた。

 そういう意味で、敵国を、

「鬼畜米英」

 などと言って、

「敵国は、鬼畜生と同じだ」

 ということを国民に信じ込ませるのは、捕虜になった時、死をためらわなくするためだったと言っても過言ではないだろう。

 玉砕というのも、同じ解釈だ。下手に集団で投降すれば、集団虐殺もされかねないということで、

「皆で死ねば怖くない」

 という観点が、頭の中に満ち溢れていたのだろう。

 それが戦争であり、洗脳なのだ。

 洋二は自分の中の呪縛が取れたことを感じたのが、梨花が背中を押してくれた時だったというのも皮肉なことだ。

 梨花にはある程度分かっていたのかも知れない。

 二人は、それから程なくして結婚し、披露宴なしでの結婚であったが、それは家族すべても、望んでくれていたということもあり、そのあたりはよかったのかも知れない。

 そもそも、自分の父親は、他人に気を遣うことの多い人で、それが自分にも遺伝したように思えた。子供の頃、皆が泊まるのに、

「帰ってこい」

 と言ったのは、相手の家庭の事情を思い図ってのことだということが、やっと分かったのだ。

 だからと言って、許すというわけではないが……。

 しかし、もうあの呪縛からは消してしまいたいと思っているので、いい方に考えようと思ったのだった。

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