[第一章:それぞれの日々/軋む心]その4

「…はぅ」

 凪の修復処置が完了した時間自体が、既に夕刻の手前であった。それゆえ、龍太郎のところへと歩く渚の頭上には、夕焼けの映像が表示されている。都市の天井の一部は、エンジェルの攻撃の余波でえぐれており、その部分は画面奥の機器が覗いて黒ずんで見えた。

「…私に、初めて」

 彼女は自身の左薬指を握りしめる。そこには、この時代における情報通信端末、バンドフォン、通称[フービ]がついていた。

 リストバンドのようにも見えるそれは、画面を空中投影するのとデータ保存のための四角い中央部に、指に巻くようのバンド部分で構成される。

 中央部側面に並ぶ三つあるボタンの右端のものを押すことで電源をオンにできるという代物であった。

 彼女はそのボタンを押し、画面を空中に表示。凪に貰った連絡番号を見つめる。

「初めて、ありがとうをくれた…」

 肯定と言う感謝を。そのことが、渚にはたまらなくうれしかった。そんなことをしてくれる彼と、繋がりたいと衝動的に、瞬間的に思ったからこそ、こうして連絡番号を交換したのである。

「いいAD(ひと)だなぁ……」

 彼女は凪のことを思い出しながら言う。未だ、あの時の熱は冷めぬまま。目覚めてこの方、初めての、そして至上の体験の熱さは、そう簡単に消えはしない。

「また会いたいなぁ…」

 浮ついた様子で彼女は帰り道を進んでいく。いつもは一歩踏み出すごとに辛さを倍増させるその道も、今はただの道でしかない。

 彼女は体験を脳内で何度もトレースしながら歩みを進めていく。

 そして気づかぬうちに、

「…あ」

 目的地に着いていた。

「…マス、ター…」

 急激に心が沈む彼女の視線が向かう先には、一軒の家がある。

 山の端に建築されたそれは、純白の壁と灰色の屋根と複数の立体図形によって形作られる、見るからに高級そうな家、だった。

 …過去形、である。

「また、投げ捨てて………」

 高名なデザイナーに依頼して作られた、洗練された形の住宅は、既にその見る影もない。形こそある程度保たれているが、光を反射する純白の壁はゴミがこびりつき、ところどころ塗装が剥げている。

さらに、その周囲の庭には袋にも入れられていないゴミが多数散乱しており、汚物の泥沼と化している。

庭を囲う淡い白の壁も、黄ばんで汚いという印象しか周囲に与えていない。…まぁ、その周囲にある家と言う家は、全て疎開によって無人になっているが。

そんな中、周囲一帯で唯一この場所にとどまり続けるものが、この汚れきった家の中にいる。

「………」

 屋根の上から垂れ下がる山の植物の存在もあいまって、家はまるで廃墟のようだ。エンジェルの攻撃を受けていなくても、そんな様子であることが、この家がいかにひどい状態かがわかる。

 そこに渚は入っていく。今までの嫌で嫌で仕方のない日常を思い出しつつ。

「マスター…無事、だよね?」

 渚は、汚いが機能は十分する扉をゆっくりと開ける。中は照明がついておらず、真っ暗だ。

 玄関から進んだ先には短めの廊下があり、途中で四つに分岐している。これらがそれぞれお一つの部屋に繋がっており、うち一つから、弱い明りと人の息が聞こえる。

「マスター」

 渚は入り口から向かって左奥の部屋に向かい、扉の開いた入り口から顔を覗かせる。

 瞬間。

「!」

 酒瓶が飛んでくる。それも半分ほど中身が入ったものが。

 咄嗟に避けようと首をひっこめた渚であるが、酒瓶は入り口の壁にぶつかり、鈍い音を立てて割れ、その破片が彼女の服や髪へと酒と共に飛ぶ。

「う……」

 体に纏わりつくそれらを嫌に思いながら、渚は部屋に入り口から中に入る。

「マスター」

「…お前」

 入った部屋は広い。リビングであろうそこには、大きなソファーとモニターの大きなテレビ。その他古めかしい音響機器が備わっていた。

 だが、それよりも目を引くのは、床一杯に散らばり、割れているものもある酒瓶だ。瓶の沼は庭へ出るためのガラス戸まで続いており、その戸も割れ、その先には放り棄てられたごみが山とある。誰が見ても分かるごみ屋敷の内部の様子だ。

「何をしに来た」

「…………」

渚言いうのは、酒瓶や食べ物の袋に囲まれ、ソファーの前に座る四十代の一人の男だ。多量の酒のせいか腹がややでており、Tシャツにブリーフ姿の彼の頭は、長い間手入れの一つもしていないのかぼさぼさになっている。

 顔はストレスでもあるのか、どこかやつれた感じのある彼は、渚を睨むように視線を寄こしている。

 彼女の購入者であり、主、奈田龍太郎その人である。

「また酒ばっかり飲んで……こんなに、散らかして…」

「…なんだ、また掃除でもしようってのか?俺のために…」

 激しい苛立ちのこもった声が、渚に突き刺さる。

「だ、だって危ないし……マスターのためには」

 渚は息が詰まるような感覚を覚えながら言う。

 そして近くに落ちていた生ごみ付きのビニール袋をゆっくりと拾い、酒瓶やその残骸を回収しようとする。いつものように。

 だが、そこにいつものように怒声がかかった。

「やめろ!何度言ったらわかる!このゴミくずが!俺のためになんて御託を並べてんなことすんじゃない!」

「で、でも!」

「邪魔なんだよ!不快なんだよ!目障りなんだよ!お前は!やめろぉぉ!」

 叫びと共に酒瓶が飛んでくる。狙いの定まっていないそれは、渚の手に持った袋に命中。彼女は衝撃で袋を取り落としてしまう。

「俺は、俺はなぁ!俺はなぁ………」

 龍太郎は小声になって何かを呟いたのち、さらなる酒瓶を放る。

「…!」

 今度は直撃はしないが渚の近くの床に落下し、鋭い音を立てる。まるで、龍太郎の渚への攻撃の意思を示すかのように。

「何もするな!このくそ野郎が!掃除も、家の修理も、なにかもするんじゃねぇ!俺にかかわる一切をするな!」

「で、でも…だけど…………!」

 弱弱しく反論しようとする渚に対し、龍太郎は言葉をかぶせるように叫ぶ。

「お前の行為はくだらないんだよ、気色悪いんだよ!やめやがれ!やめないなら、ぶっ壊れちまぇぇぇ!!」

「………」

 渚はその声に委縮し、後ろに下がってしまう。

「失せろ!失せろ!失せろ!失せろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」

「…………」

 そしていつものように、彼女はその場から立ち去る。向かうのは玄関から見て手前の右の部屋であった。

「…うぅ」

 中は先ほどの部屋と比べると狭い。子供部屋ぐらいの大きさがもっとも合っているだろうか。

 五角形の内部には奥から小さなクローゼットと、作業用の机、機体充電用の座椅子のようなものが置いてある。

 どれも掃除がなされているのか、比較的きれいだ。

 渚はとぼとぼと歩いてその中に入り、扉を閉める。

そこで彼女の足は止まった。

「…どうして」

 いましがたの主の言葉が頭をよぎり、辛そうに顔をやや歪ませ、うつむく渚。

 そんな彼女の中には、ある気持ちが湧いていた。

(マスターが好き、マスターに尽くしたい…今、とてもそうしたい……。なんて)

 不気味だ。あまりに不気味だ。マゾヒストというわけでもないのに、そんな気持ちが勝手に生じるのは。

 胸の中に不快感と、本物なのか怪しい気持ちを抱え、渚は部屋の中で縮こまる。腕にかけていた買い物が床に落下し、鈍い音を立てる。

「…うう…」

 彼女は思う。こんな主は嫌だと。なのに彼がいいという気持ちが湧く。好意プログラムに基づいた、つくられた気持ちが。

「…………」

 もはや、今の彼女には自分が何をしたいのか、本当は何を思っているのかもわからない。

ただ相反する気持ちの存在による、嫌な感覚が心を支配するばかり。

「………」

 彼女はその状態で、苦しい時間を忘れようとするかのように、衝動的に首を何度も横に振った。

 それを続け、いつしか止め、彼女は沈黙する。

 体を投げ出すように座椅子へとしなだれかかり、隣接する窓からぼんやりと外を見た。

「…暗くなってく」

 彼女の心のように。

彼女を照らすことはない夕日の映像は、地平線の彼方(年の天井の端)へ消えていく。

「…うぅ…」

 時期、月の映像が現れ、夜の時間の到来を告げることになる。

「…あ?」

 そんな時だった。壊れた天井の一角の隙間から、一筋の光が現れたのは。

「………これは」

 都市の天井に空いた穴。どうやらそこは外壁を貫通していたようで、僅かながら本物の外の光が入り込んでいる。そして、その光源は外の世界の本物の月であった。

 光は伸びていき、偶然にも渚の手を照らす。

 そしてそこには、薬指に巻かれた、[フービ]があった。

「……あの人………凪という、人…」

 渚は連絡先交換の際に知った彼の名前を呟く。

 差し込んだ本物の月光は既に遮断されている。ちょうど、敵侵入防止のための修復が完了したのかもしれない。被害を受けた個所の確認、修復は最優先事項である故、その可能性が高いだろう。

 しかし、そんなことは気に留めず、渚は[フービ]を見つめ、凪を思い出す。

「………私の行為…初めて…」

 あの時の嬉しさが蘇る。

 初めての、鮮やかな体験が頭の中で再生される。

 苦痛の時間を忘れさせてくれるように、勢いよく。

「…あの人と…………」

 それらに後押しされ、彼女は指を動かし、

「…あの、凪さん?」

 自分に初めての喜びをくれた彼と話を始めた。

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