第5話『人間、今治晃平のコップが溢れるまで』


 座り込んだ今治は大きくため息をついた。体育座りのように膝を立てて座り、項垂れて両肘を両膝にのせ、足の内側に手も垂らす。

 彼は一度も舞鶴透弥に関して話さなかった。反応すら基本しないように徹底していた。


「……隠しててすみません。でも、どうしても、話したくなかった——」


 声は下に向けて放たれた。全員が静かにしていないと聞こえないような声だった。こういう時に声をかけるのが上司というものだろうか。だが彼に今何かを言うのは難しすぎて、ただ見守ってやることしか出来なかった。

 しかし彼の友人はそうではなかったらしい。

 寄島が目の前に座り、パーカーの襟を掴んで、無理やり立たせた。


「ばりは、小生たちの敵になりますか?」

「……さあ」

「話しますか?」

「——そ、だな。話さないとみんな、もう納得できないでしょ」


 寄島の手を払って、自分でしっかり立つ。怒っているのは、友人である寄島も一緒だった。とんでもない大きな隠し事に納得がいかなかった。共に怒りを剥き出しにしていたが、怒りの矢印が相互に向いていない。

 今治の怒りは、どこに向いていたんだろうか。


 ここで話すのはみんな辛いでしょう、と全員で4階のリビングへと移動した。ここはビーズクッションやソファなんかが人数より多くあり、全員が着座して話が出来る場所だった。いをりはコノハと、唯華は千葉と、それぞれ大きなビーズクッションに腰掛けた。社長は今治の真正面に、その右側に寄島、左にはローレル。全員が今治に視点を集めるように半円を描いた。

 今治はビーズクッションではなくラグに直接胡座をかくと、覚悟を決めたような顔で話し始めた。


「俺は、透弥さんと、7年前から3年半前まで、一緒の部屋で暮らしてました」


 ぽつりと話し始めた。

 今治が隠した過去を。


***


 7年前、2014年の4月のこと。

 今治は適当に散歩をしていた。当時19歳、大学2年生になったばかりの昼下がりで、履修登録に教科書購入にと面倒事が多くて気が滅入っていた。何となくで歩く道を進むと、知らない道に出る。何だか誘われているような気がしてその道を進んでいく。

 次第に雨が降ってきた。

 元々今日は雨の予報だった。トートバッグに入れていた折りたたみ傘を差す。

 人混みに紛れて歩いていると、一人の男とすれ違う。細い黒縁のメガネをした、真っ黒の髪の男。両手で大きな紙袋を抱えて、傘を差さずに雨に濡れて、まるで幽霊のようにふわふわと歩いていて。何か糸で引っ張られるような感覚を覚えて、気がついた時には男の腕を掴んでいた。


「——あの、傘使いますか」

「……。いいです」


 男は怪訝そうな顔をした。勿論人の腕を掴んでおいてこの発言なら、気持ち悪がられて然るべきだろう。自分でも何をしているんだと焦ったが、言い出した手前引けなくなって、さらに男の腕を強く掴んだ。


「風邪引きますよ。俺暇なんで、入れてくくらいなら出来ますし」

「……いや、お前、何?」

「俺にもよくわかんねっす……。でもなんか、危ねぇなって気がして……。」


 困った様子で言う今治に、男は溜息をつきながら、もう分かった、とすぐそこの細い道に行くと言い出した。じゃあお供しますね。そう言って今治はこのずぶ濡れの男に傘を傾けて、細い路地に入った。この時の彼は気づいていなかった。ここが既にBSの範囲内だということに。

 慣れたように廃墟のビルの外階段に足をかけ、5階程の屋上へと向かう。ここが家だとはどこをどう見ても思えなかった。


「あの、ここって? ご用事でした?」


 今治が気になって聞くが、男は返事をしなかった。変わった人だなぁ、と深く考えずに、男に傘を差し続けて、ついに屋上にたどり着く。屋上に何かがある訳でもなく、フェンスすらもない、ただのコンクリートの床があるだけの空間だった。


「んん……? うっ!」


 首を傾げて疑問を体で表現していると、ガッ、と右手が首に掛かる。とんでもない握力だった。右手だけで頭をねじ切られる、と思うほどに強い力で、首を掴まれている。


「おめーマジでなんなんだ?」

「っあ、……ぅ」

「魔術警察かと思ったがちげーな。何の目的で俺に近づいた?」


 眼鏡の奥の瞳が、今治を睨みつける。光が入らない真っ黒で大きな瞳。右手を少しずつ上に上げる。あと少しで足が離れるくらい体を浮かされた。——成人も近いような男の体を、腕一本で首を掴んだだけで浮かしてくる。筋骨隆々な男なら可能かもしれないが、そんな見た目じゃない。どちらかと言えば細い方だ。……間違いなく、この力は人間の範疇を超えている。

 今治は心の底から察した。

 ——この男、魔術師だ——。

 気まぐれで接していい奴じゃなかった。反省したのは少し遅かった。


「ちあ、っ、が」

「……もう近寄んじゃねぇ、次絡んだら殺すぞ」


 不快感を露わにして、右腕を振り下ろす。床に叩きつけられた今治は、背中を雨の水たまりで濡らした。また男は溜息をつく。急に開いた気管が空気を取り込むために大きく吸って、咳をする。眼鏡の男は今治の傘を手に取って、踵を返して階段に近寄る。どうせ貰える傘なら貰っておこうという考えだ。だが、今治は男の思っていた数倍変人で、まだ声をかけてきた。


「魔術師なんですねぇ! いや、ホンモノ初めて見まし、ゲッホ……うぇっ」

「ぁんでまだ話しかける気になんだよ。なんの目的があって話しかけてんの?」


 男はいっそ興味が湧いてきたようで、今治が蹲りながらこちらを向く頭の傍に、膝を開いて座り込んだ。黒いコートが床について水を吸う。

 本当にただの興味だった、糸が引くような感覚があった、と今治は咳をしながら言う。冗談や冷やかしのようにしか聞こえない回答。しかしよく分からない執着からすると嘘ではない気がしてきて、何となく男の中で腑に落ちる音がした。


「ふはっ! いいなあ、お前、ここまで来ると嫌いじゃねーよ。」

「そりゃ光栄っす。俺は今治って言います」

「へえ、タオルの。俺は舞鶴。舞鶴透弥」


 名乗った頃、雨が止んで、雲の隙間から日差しが溢れる。日差しを背にした男は今治に手を差し伸べる。手を掴んで立ち上がると、男は楽しそうに笑っていた。


「どうぞよろしく、今治クン」


 これが舞鶴透弥と初めて出会った瞬間だった。


 折りたたみ傘が必要なくなったので、透弥は今治に傘を返そうとしたが、持っていてくれと受け取らない。面白そうな話が聞けそうだから、今度ご飯に行って、その時に返してもらいます。そう言って次の約束をこじつけるタネにした。ふたりはチャットのIDを交換して、透弥は暇な時の時間つぶしに、今治は異世界体験や刺激を求めてお互いの会話を楽しんだ。

 そして数日後彼らはBS外の、今治の大学そばにあるカフェで会った。折りたたみ傘はこの時に返してもらった。「短大行ってたけど、もう卒業したからな」と懐かしそうに大学の方を見ていて、今治は目を見開いた。見た目からして年齢は同じか下かと思っていた今治だが、相手は2つ歳上だった。

 彼は短大で心理学を専攻したらしい。国家資格の一部を持つほどには他人の心がわかるようだ。今治はビジネス科目を習得していて、今後の仕事人生でお金の計算や振る舞いで困らないように、量産される"一般人"を目指して勉強を進めていた。


「つまんなさそうだな」

「つまんないっすけど。でもやる事もありませんし」


 透弥の前にケーキが置かれる。シンプルだが美味しそうなショートケーキだった。今治はサンドイッチを頼んでいて、それが届くのを透弥は机に腕を置き頬杖をして待っていた。待ってくれていると分かると、何だかいい人なのかもしれないと思って嬉しくなった。

 ——初日の初対面で首締められてるけど。

 今治のサンドイッチが来ると、ふたりで手を合わせて「いただきます」と言い、口に運んだ。美味しい料理に舌鼓を打つと、このあとも暇だし遊んでいこうという話になる。何となくゲームセンターに行って、何となくカラオケに行って(あんまり透弥さんは上手くなかった)、最後は何となく入ったバッセンでホームラン率を競って。普通に遊び尽くした一日が楽しくて仕方がなかった。それはお互いに一緒だ。


「もう夜も遅いし、今日は帰るか」

「そっすね! ありがとうございました」

「世辞抜きで、暇な時誘えよ」


 透弥は清々しく遊び切った顔で笑う。友人に見せる緩んだ表情が新鮮で良かった。

 それから今治は何度か透弥と遊んだし、逆に向こうから映画に誘われたりと、たった一ヶ月でほかの友人より仲が良くなった気がした。


「あ〜! 今日も遊び尽くした!」

「俺毎日お前と会ってても飽きなさそうだな」


 透弥に言われて今治は考えたが、本当に飽きないかもしれない。話していて気楽だし、自分の知らないことを知っているし、よく分からない安心感で羽も伸ばせる。本当に楽しかった時にだけある、まだもうちょっと遊んでいたい、という衝動。

 今治は考えるより先に口に出した。「泊まりますか、ウチに」と。透弥は腕時計を見る。


「んー、ま、1日くらい邪魔しよっかな」

「やった〜」


 その晩は、ふたりで家呑みをした。——今治は当時19歳で、誕生月も2月なので、正直違法なのだが。ひとまず今回は見逃すものとしよう。

 酒が入ってもふたりはずっと話し続けたし、帰り道で借りた適当な洋画を見たりした。18になっていない人が見てはいけなさそうなシーンがたまに映ったりしたが、飲酒していることもあってハイになって、ただ箸が転んでも、というように笑い声が絶えなかった。


 そして気がつけば朝になった。眠気から日が昇ってから泥のように眠り、昼過ぎに目を覚ました。段々と透弥は家に帰るのが面倒になったようだった。今治としてはひとりで色のない生活をするより、透弥さえ良いなら何連泊でもしてもらいたかった。今治が「ずっと居ていいですよ」と零すと、透弥は笑った。一回泊めた奴とずっとだなんて、おかしなことを思っているのも今治は分かっている。だけど、何だかこれも糸を感じて、一緒にいたらいいと思った。

 そして透弥も何故か快諾した。一度自宅に帰り、荷物と車を取ってきてからは今治のアパートにやってきた。その日から突然、魔術師と人間が共同生活を始めることになった。目まぐるしくて楽しい日々の幕が開いた。5月の初めの事だった。

 流石にタダで住むのは悪いからと透弥は毎月決まって家賃と光熱費分を今治に渡した。しかし今治が大学で家を離れている間、仕事などで外出する様子はなかった。序盤は遠慮しつつ受け取っていたが、数ヶ月経って疑問が浮かんだ。

 ——その金の出処はどこだろう。

 仕事をしているように見えないのに、毎月決まって月末になると同じ額を握っている。本当に不思議な人だと思った。次第に自宅に帰ることも無くなり、完全に今治の家に住み始めて半年、彼はついに透弥に勇気を出して聞いた。「いつ稼いでるの?」と。透弥は言っていなかったか?と聞き返し、今治は深く一度だけ頷いた。


「俺、前WWGのエージェントだったんだわ」


 透弥はスマートフォンに視線を落とした。ゲームをしているようだった。


「……え? WWGってあの?」

「そー。俺つえーから雇われてた」

「辞めたんですか?」


 透弥は首を傾げて、スマートフォンからゆっくり視線を外して今治を見た。


「いや、辞めさせられた」


 要するにクビということだった。「そんな事って」と今治がひとつ漏らすと、透弥は意地悪そうに笑った。


「むしろ好都合だわ。俺そんなWWG好きじゃなくてね。お前と始めて会った日が辞めさせられた日。あの紙袋にゃ退職金的なアレで1000万入ってた」


 何故そんなことを今になって言うのか、今治には分からなかった。口よりも表情が物語ったようで、透弥は膝を立ててその上で頬杖をついて、ニヤニヤと笑う。お前なら盗らないだろうし。と言う。

 勿論今治にはお金を貰おうなんて考えは一切なかった。

 ただ、この目の前にいる男が、WWGとやり取りをしてお金を貰っていたということに驚いていた。人間の世界でもWWGのことは知っている。その機関に属する魔術師が誰なのか分からない事も、当然周知の事実だった。それだけ特別な存在が、この六畳間に暮らしていた。


「ま。カネの話はもういいだろ? 今日の晩飯オムライスがいい」

「……あ、えっ、はい。オム……オムライス」


 透弥は立ち上がると、卵買いに行こうと言って今治の横をすり抜けて玄関へ向かった。今日は肌寒いというのにTシャツ1枚で外に行こうとする彼を何とか引き止め、上着を着せてからふたりで外に出た。もうなんだか、WWGがどうとかはどうでも良くなった。

 

 その晩、オムライスを食べて代わりばんこに風呂に入った。後に入ったのは今治だった。身体を拭きながら部屋に戻ると、透弥はベランダのフェンスに腕を乗せて、外を見ながら、煙草をふかしていた。もう秋だと言うのに、上半身半裸の上に前開きのパーカーを羽織っただけの格好で、風に髪を乾かさせている。今治とて同じ格好をしていたが、同じようにベランダに出て隣に並んだ。メビウスのオプション、紫の5ミリが香った。


「お前よく人殺し追い出さねぇなあ」


 何となく今治も察していた。魔術師なんて当たり前みたいに人を殺している。透弥は白い煙を真っ直ぐに吐いた。だけど透弥を追い出すという思考はなかった。


 だって透弥は、今治を殺す気なんか絶対にない。

 もし敵対したとしても、殺されることはない。


 今までの透弥の態度から確信していた。絶対に間違いない。どうあっても彼は今治を殺さない。だからこそそんな透弥を見放さない。出会った日の危なげな雰囲気は、きっとWWGから見放された孤独から来ていたんだと、今なら分かる。

 今治が彼を追い出す?とんでもない。

 お互いの信頼の上、共生する道を選んだ。

 大きく違う生き方を交える事にした。


「大丈夫だよ」


 今治は透弥の方に向けて頬杖をつく。

 透弥はメガネをしていなかった。裸眼の大きな黒目がちらりとこちらを向いた。


「だって透弥さんなら大丈夫でしょ」


 彼はいつものように、「ふはっ」と笑った。この笑い方が今治は好きだった。いつも力が満ちる身体から息を抜いたような声が、安心しているように聞こえるから。


「そうだな。俺もお前なら大丈夫だよ」


 ふんわり香る、ウッディでシャープな、ホテルラウンジのような香り。タバコの香りとそれに紛れるブルーベリー。本人からの甘い香りもひとつまみ混ぜてある。


 今治はこの時の透弥の匂いを忘れられなかった。

 これこそが、舞鶴透弥の、魔力の香りだった。


 一緒に暮らして3年目に入った。もう5月だった。あれから何事もなく日々は重なる。

 部屋が少し手狭になって違うところに引っ越した。お互いの両親に共に暮らす友人として紹介した。何となく亀を飼った。理人と今治が仲良くなった。

 細かいことが沢山続いた。

 ふたりで生きていくのが当たり前になってきて、他の人やひとりだけで生きていくのなんか、一切考えもしなくなるくらいだった。

 こんな日がずっと続くと思っていた。


 今治はこの日の夜のこともよく覚えていた。夜も更けきった真夜中で、今治は突然喉が渇いて目を覚ます。なんでだか身体の違和感が酷くて、全身が起動まで時間がかかった。そして目をぱっちりと開くと、自分に覆い被さるように透弥が居た。この時のふたりは寝室を分けていたので、ここにいること自体がおかしかった。

 何度か目をぱちくりさせて、ちょっと覚醒してきた頭と渇いた喉で声を絞り出した。


「なんかあったっすか」


 透弥は覆っていた腕を外した。ベッドのふちにすとんと座ると、笑って、「なにも」と言う。

 嘘だった。

 明確に嘘をついた時の顔をしていた。これで透弥は取り繕ったつもりだったらしい。透弥は結構な嘘つきだった。今までも何度か嘘をつかれている。だけど、今回のは洒落にならないような気がした。

 たっぷり悩んだ挙句、今治は問い詰めないことにした。


「喉乾いたんで水飲みに行くんすけど、透弥さんも飲んでから寝ます?」

「そうしようかな。行くぞ」

「うん」


 違和感がずっと張り付いたままだった。どっと重いような、足枷に首枷まで付けられたような、要らないものを背負っている感覚でキッチンに向かった。

 水を飲んで寝る時も、透弥の嘘つき顔は取れなかった。だけどもう何も言わないと決めたから、聞かないまま眠った。

 翌朝になってもだるさのようなものと違和感が抜けなかった。なんだったら、この晩からずっと、——この話をしている2021年まで、ずっと、違和感は続いていた。きっと何かされたんだろう。だけど今となっては聞く手段もなかった。


 そしてそこからもう少し時間が進んで、2018年の9月17日になった。この日は普通にご飯を食べて、今治は4年生だったので大学には行かずにアルバイトをして、またご飯を食べた。

 その夜。

 眠ろうと部屋に入ったはいいものの、何となく横になるのが嫌で、透弥が部屋に置いていった気に入りの本を手に取って、内容を理解することなくページを捲った。たまに文字が目に入るけれど、あんまり話を読む気にはならなかった。

 最後のページをめくった所で、透弥の部屋の扉が開く音がした。時計は2時を過ぎたところ。もう18日になっていた。眠れないのかと思って、透弥の方に行って、軽く話してから眠ろうと思った。今治が扉を開く。透弥はキッチンやダイニングにはいなかった。トイレかと思い廊下に出ると、突き当たりの玄関に腰かけて靴を履いていた。大きなリュックを背負って。

 明らかに家出の格好だった。


「何してんの」

「……あぁ、起きたんだな」


 透弥は珍しく自分から謝罪の言葉を出す。悪い、と。そんな言葉が欲しいわけじゃなかった。

 いつそんなものを買ったんだと聞きたくなるような漆黒で全身が隠れるコートに、頭がすっぽり入るフード、黒い靴、黒い手袋。何をする気なのかも分からなかったけど、今何が起こるかは今治でも分かった。


「え、何。どこに行くの」


 この問い掛けには答えなかった。

 立ち上がって爪先をとんとんと鳴らして足の位置を整えると、玄関のドアノブに手をかける。


「お前じゃ絶対に来られないところに行く。迎えはいらない。足手まといだよ」


 背中を向けて喋っていた彼は振り向いて、フードの隙間から今治の顔を見た。眼鏡をかけていたので、きっと、表情は見えていただろう。

 今治がこの時にどんな顔をしていたか、自分では何一つわからなかった。


「元気でな。」


 嘘つきの顔をして、透弥は出ていった。

 何もかもを置いて。


 あの言い方だと二度とかえってこない気がした。分かっていた。だけど今治は1ヶ月くらいは毎日待った。理人や透弥に連絡しようにも、連絡先が消えていた。消したんだろう。いつの間にか。携帯電話番号位は覚えていたから掛けてみたが、使われていないらしい。こうも異常に周到なのが、彼らしくて、何だか笑えた。

 ご飯は余るし電気代は安いし貯金が減るしで楽しいことが一気に消えた。友人がいないわけじゃなかったが、こういう時に穴埋めになるほど深い仲の奴なんかいない。


 刺激のなくなったソーダがここまで不味かったとは。


 今治は耐えられなかった。家のどこにいても透弥と過ごした形跡が残っている。持っていったのは服の最低限。この家にあるものの八割は透弥のものだった。無心で箱に詰めて、レンタルスペースに荷物を全部突っ込んだ。自分のものですら突っ込んだ。一週間分の服を持って、家を飛び出した。

 幸い大学の単位は取り切ったし、卒論も終わっている。なんだったら会社も決まっている。


 ——行けるわけねぇだろ。

 今治の心は太陽より熱く煮えた。

 ——会社なんか行くか。どうせあの黒い背中はバックストリートに向かったんだ。足手まとい?知るか。どうせそれは俺を敬遠する為の嘘だ。……嘘だよ。


 今治は心の底から怒りに震えた。

 彼は内定を突然蹴った。両親からは何をやっているんだと何度も電話をよこした。どうでもよかった。もう少しだけソーダの続きが欲しかった。


 家をなくした今治の行先はネットカフェだった。何十泊しているとだいぶ慣れてきて、ここでものんびり眠れるようになった。

 あの時の紙袋は、透弥のベッドの上に残されていた。100万円が入っていた。汚ったない透弥の字で、「好きに使え」と書かれていた。使う気にならないままカバンの中に押し込んだ。

 八王子のネットカフェが安いらしい。今治は慣れた町田のネットカフェを出て、横浜線で八王子に行く。ここは見ないうちに随分栄えたな、と思っていると、腕をグッと引かれる。


「あーんたややこい匂いがするね」


 ニヤッと笑ったオフィスカジュアルは今治の腕を離さなかった。


「バックストリートに来ない?」


 願ってもないチャンスだった。

 今治は何かを考える前に頷いた。今からでも行きますと。オフィスカジュアルは満足そうに笑う。今治の腕をぱっと手放して、自分の胸ポケットから名刺をひとつ取りだした。


「……バックストリートの私立探偵社長、メチャ強魔術師の荒野美里です」

「人間の今治晃平です」


***


 時計はとても遅い時間を指していた。


「……さっきはごめんね、いをりちゃん。……アンタから、透弥さんの匂いがしたんだよね。……攻撃されたのに、追い討ちみたいなことして、ほんとうに申し訳ない」


 今治は先程の気迫を完全に消していをりに謝罪する。勿論、その横に座っているコノハにも頭を下げた。主が一番大事な存在の前であんな行為、許せるものじゃないだろうに。撃たないでくれただけで十分嬉しかった。


「今治」


 正面でビーズクッションに深く身体を預けて足を組んだ女は、正面で話終えて居所悪そうな男の名前を呼ぶ。

 男は恩人のような女の方を向いた。


「よく話した。ありがとう」


 今治は何を言っているのか理解するために何度も咀嚼した。ちゃんと呑み込めていくと、心が張りつめて表面張力になっていた水に、ぽろぽろと水滴が落ちてきた。

 目を擦った。

 何年ぶりか、濡れていた。


 今治が蹲った所を、社長は雑に頭を掴んで、わしゃわしゃと撫でた。彼が落ち着くまで何分もかかった。だけど誰も待ち遠しくなかった。


 数分してタオルに顔を埋める彼に、ローレルが声をかける。重苦しく、大切なことを伝えるように。


「ねえ。話があるから今治くんだけ残ってくれる?」

「ん、はい。分かりました」

「皆はもう寝ていいよ。結構な時間じゃないか」


 遠回しなようで直接的な人払いの言葉に、全員が従った。ぞろぞろと下に降りていく彼らを見送ると、ローレルは本題をいきなり話す。それを聞いた今治は顔を顰めた。彼らは長く話した。


「ここまでの話は全部俺の想像。だけど、今治くんの言う舞鶴透弥ならやりかねない事だ」


 今治は頷く。彼も同じように受け取った。


「違ったら死ぬかもしれないけど、試してくれるかい」

「当然っすよ。お願いします」

「こちらこそ。よろしく頼むよ」


 ひとつ、男同士の、協力を。

 彼らは互いの顔を見て、頷いた。今治の赤い目と、ローレルが珍しく見せるしっかり通る視線が、何よりの判子だった。

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