下
というわけで、僕らは建築物も何もかもがない、未完成エリアに来た。
ここで理想を鮮明化、具体化し、空間に生み出すそうだ。
好きにやりなよ、の一言だけしか説明は受けていない。試しに人間でも作ってみるか。僕らには決して話しかけてこない、浮浪する人間だ。
生成されたのは人型のぬいぐるみだった。
「あれ、人間をつくったつもりだったんだけど」
「私が、ぬいぐるみしかつくれないように設定してるからね」
「じゃあ、ツバキは? あれをぬいぐるみと定義するのは、無理だろ」
ヒスイは僕の指摘に苦笑する。
「ああ、ツバキは人間だよ。失敗作。だから第二号からはぬいぐるみにしたのさ」
ツバキも、一応はヒスイの理想のもとで作られたのだろう。しかし、ツバキは人間であるが故に自我を持ってしまった。だからあいつだけは、他の理想像とは違うんだ。
「まあ気にしないで。失敗作だけど、悪い奴じゃないから」
ヒスイはそう言うと、その場にしゃがんだ。猫じゃらしを創造する。
「猫じゃらし……ああ、そうそう。これから学校を造るんだ」
僕がそう言うと、ヒスイは立ち上がって僕の手を取った。その輝く瞳は明らかに賛成の意を示していた。
僕は通っている高校をイメージし、創造した。目の前に立派な校舎がそびえたち、僕らを見下ろす。
続いて、猫。
グラウンド。
体育館。
桜の木。
どんどんと、理想を纏った青春が造られていく。
「こんなもんかな」
僕は一息ついた。
「スミレ、空は?」
ヒスイに言われて、思い出す。そういえばビル群エリアの空はまるで、色濃く塗られた漫画みたいだった。空はそれと同じで構わない。
一瞬で厚塗りの藍が頭上に出現した。
「学校に泊まるとか、やってみたいね」
ヒスイが言う。
「たしかに」
僕らはどちらからともなく、校舎のほうに踏み出していた。
玄関に入って、部屋履きに履き替える。廊下を歩く二人の音が、クリアに聞こえる。廊下の果てが、はっきりと見据えられる。視界を遮る生徒や先生はいない。
「こういう静かな感じが、私は好きだな」
「僕も」
さすがは小学校以来の親友なだけある。驚くほどに馬が合う。僕もヒスイも、騒がしいクラスメイトとは仲良くできないのだ。落ち着いたクラスメイトは、なんとなく話しかけづらい。僕らはその思考も何もかもが一緒だった。友達ができない原因について語り合った日を懐古する。
歩き着いたのは僕らの教室。鍵は開いていた。
広さの割に合わない、二つしかない机。それがどこかおかしくて、僕らは笑いあった。
閑散とした、というよりは静謐と言うべきこの静けさ。その中に生じる、男女の笑い。それが落ち着き、僕はまた、教室を一周見回す。自己顕示欲の強い掲示物も、見るだけで頭痛がしてくるような時間割表も、何もない。
僕らは、何もない場所で、静かに息をしていた。
*
保健室のベッドで横になっていたが中々寝付けなかった。
僕はヒスイを起こさないよう足音を立てずに保健室から出た。
向かった先は屋上。屋上のへりには猫と、その隣にそれを撫でる後ろ姿があった。ツバキだ。
「こんな時間に、何してるんだよ。僕のことは嫌いじゃなかったのか?」
僕は猫を挟んで、ツバキの隣に座る。下が見えるのはちょっとだけ怖い。上を見上げれば、星のない藍色が目に映る。箱庭に夜空はない。
「別に、この建物は嫌いじゃないし。新しいエリアができてるなあってふらっと立ち寄った場所が、たまたま君の創造物だったってだけ」
ツバキは猫を撫でながら言う。
それから十分間ほど、何もしゃべらなかった。
僕が口火を切る。
「君の理想を聞かせてほしいな。別に、嫌なら言わなくてもいいよ」
「いや、理想について話そうと言ったのはこの私。責任は最後まで負うよ」
ツバキは数拍置いて続ける。
「……理想は、強いんだ。理想は堅く、強く自分と結ばれてる。逆に、欲望は弱い。欲望として掲げた物事はすぐにへし折れるし、大体叶わない」
「そりゃあひどい言われようだ」
きっと僕とツバキは、一生わかりあえない。
「でもね、僕は理想と欲望は紙一重だと思ってるよ。そりゃあ、微妙な違いはあるけどね。欲望を理想に偽造するための口実を考えなきゃいけない程度には、違う」
「それは紙一重だとは言えない」
「なら、『紙一重にならせることはできる』と言ったほうが正しいかな」
ツバキは頷く。
「そうだね。でも、私は最初からでも後から変化したものでも、紙一重だとは思えないかな」
理想に対する揺るぎないそれぞれの想いは、きっと、どこにも向かわない。ただここに停滞するだけだ。それでも、ここでツバキと語り合った瞬間は忘れないだろう。
「ヒスイがここに僕を連れてきたのは、欲望だったのかもしれないね」
*
寝付くのが遅かったせいで、僕はヒスイに叩き起こされた。いや、そのせいではないか。彼女と宿泊旅行に行ったことがあるのだが、僕はどれだけ遅くても彼女に起こされたためしはない。
ということは、これは一大事が起きたか、何かのサプライズか。しかし、寝ぼけた頭だから、あまりこの二つはあてにしないでおこう。
「屋上に行こう! 大変なことになってしまった」
*
屋上に出ると、下から喧騒が聞こえた。ビル群のほうだ。ここから遠いが、それでも十分に見えた。
理想像同士が喧嘩していた。目も覚めるような血しぶきならぬ、綿しぶきと激しい雄たけび。見るに堪えない、無残な光景だった。
「全部君のせいだよ」
後ろから声が聞こえた。ツバキだ。その声は冷淡で、怒りを孕んでいるようにも思えた。僕はこれまでを振り返る。どこかに悪行があっただろうかと探してみるも、その欠片すら見つけられなかった。
「そしてヒスイ、君のせいでもある」
ツバキが近づいてくる。彼女は僕らのいるへりの傍に立った。
「現実人がきたせいで、箱庭の均衡が崩れた。私は自我を持ってるから大丈夫だけど」
ツバキは続ける。
「もうじき、この箱庭も終わるよ」
ヒスイは膝から崩れ落ちた。
「箱庭はぬいぐるみ通りから、現実に侵食されてる。ほら、あれ」
ツバキが指さした方向を見ると、たしかに、現実世界が箱庭を飲み込んでいる。押し寄せる壁のように現実は僕らのほうに向かってきている。
ふいに、ツバキの言葉を思い出した。『欲望はすぐにへし折れる——』
なるほど。彼女の言ったことを、今この瞬間に理解した。
僕は苦笑した。
この小さな箱庭は、現実逃避の欲望だったわけだ。現実逃避という欲望を叶えるために、ヒスイは理想郷をつくった。彼女は理想を叶えたんじゃなくて、欲望を叶えるための下地に理想を選んだのだ。理想は、欲望を叶えるための道具でしかなかったのだ。
それが卑怯で無意味なことだとヒスイはわかっていたのだろうか。僕には知る由もない。
迫ってきていた現実はやがて僕らを飲み込んだ。世界の輪郭がぼやけて、身体の存在が無いように感じた。ヒスイと繋いでいたはずの手の感覚も無くなる。僕の意識は不安とともに落ちてしまった。
また、目が覚めたとき——理想なんかを語り合う達観した僕はいなくなっていればいい。そう思った。
やがて枯れゆく花たちは 筆入優 @i_sunnyman
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