やがて枯れゆく花たちは
筆入優
上
「私の箱庭に、一緒に逃げない? スミレ」
と、ヒスイが言い出したのはつい昨日の放課後のこと。学校に不法侵入を試みた野良猫と戯れていた僕の横に、彼女はしゃがんできた。ヒスイが来ると猫は逃げてしまった。向かった先は体育館。バスケのボール役でも買って出るつもりだろうか。
そんなのんきなことを考えていた僕の耳に、もう一度ヒスイの声が飛んでくる。
「返事は?」
「ごめん、言ってる意味が分からなかったんだ」
猫との時間を邪魔されたことも彼女を無視した理由のうちの一つだった。しかしそれよりも、彼女の言葉が理解できなかったことが、最もな理由だ。
「逆にわかってたら怖いけど」
ヒスイは僕から猫じゃらしを奪い取った。地面を優しくなで始める。
「興味はあるね、箱庭とやらに。どこにあるの?」
猫が猫じゃらしに釣られて帰ってきた。さっきまでヒスイを怖がってのに、おもちゃには敵わなかったようだ。
僕が尋ねると、ヒスイは無言で手を差し出してきた。その意図を汲み取って、僕は優しく握った。
*
瞬きをした次の瞬間には、もう、僕とヒスイの体は淡い靄に包まれた空間に移動していた。
「もう離して大丈夫」
ヒスイはそう言って、緩慢に手を振りほどく。
「ここはまだ未創造だから何もないんだ。何か理想があれば好きに造りなよ」
歩きながら喋るヒスイ。彼女の言葉から推測するに、箱庭は自由に造ることができるのだろう。
そして引っかかる点。それもさっきの彼女の言葉に関することだ。
『理想があれば好きに造りなよ』の意味。何故想像力ではなく、理想なのか。
歩き始めてから数分。僕らの眼前には壮大な街が広がっていた。アーチ形の門が拵えられた、商店街をほうふつとさせる街並み。アーチの看板には『ぬいぐるみ通り』と書いてある。門の先に進むと、なるほど。たしかにあちらこちらでぬいぐるみが踊ったり、店を構えたりしている。これがヒスイの理想なのだとしたら、随分と可愛らしいこと。普段の彼女はどこかミステリアスで、こういったものを好んでいるようには到底思えないのだが。
ぬいぐるみ通りを抜けても、ぬいぐるみたちは住宅街や公園を闊歩していた。
「びっくりした? 人間がいないんだよ。私たちだけの、静かな世界」
薄々気づいていたことだ。僕は目を丸くすることもなく、かぶりを振る。
「なんだ、つまんない」
ヒスイは唇を尖らせる。彼女に質問することは無さそうだ。なんとなく、箱庭がどんな場所で何を目的として作られたのかを僕は理解し始めていた。
*
僕とヒスイには、友達が一人しかいない。僕の友達はヒスイで、ヒスイの友達は僕だ。正確には、彼女の友達は一人ではないのだが。
彼女はぬいぐるみが友達だと思ってしまうほど病んでいるのだ。それは箱庭の様相からひしひしと伝わってくる。自分が人付き合いが苦手なだけなのに、それを拗らせて人間を嫌悪し、ぬいぐるみだけの空間に閉じこもってしまっている。彼女が良いならそれでいいと思う。僕は止めはしない。
「ぬいぐるみたちは、理想像っていうんだよ。今はそう呼んでいるけれど、いずれは名前も付ける」
「こんだけ多かったら、名付けるのは大変そうだね」
僕は苦笑した。
「きっと楽しいよ」
ヒスイは微笑む。ここでぬいぐるみ好きとそうでない者の違いが浮き彫りになってしまった。
「あ、でもね、理想像第一号のあいつだけは名前があるんだよ。今日はあいつとスミレを会せようと思って連れてきたんだ」
ヒスイは天を見上げた。僕もそれに倣う。藍色が一面を染め上げていた。
「だれもいないじゃないか。まさか、空すらもぬいぐるみだとでもいうのかい」
「空のぬいぐるみなんか聞いたことないよ。そうじゃなくて、あれ。屋上に座ってる人」
言われて初めて気づく。立ち並ぶビルのあるひとつ——その屋上に人影が見えた。
ちなみにこれまでの経路は、商店街から公園のある住宅街。そして田舎道。で、ビル群だ。ヒスイの理想の街並みは、継ぎ接ぎだった。ある程度の一貫性を持ち合わせていない。まるでこの世に存在しうる街の全てを一通りつなげた風だった。
ヒスイに手を引かれてそのビルに入った。急ぐ必要もないだろうに、階段を駆け上がっていく。息が上がったころ、目の前には屋上扉があった。予想よりも遥かに早い到着に内心驚く。
扉を開いて屋上に出た。開けたときの音で僕らに気づいたのだろう。屋上のへりに腰掛けていた人影がこちらを振り向く。
「ツバキ、やっぱりそこにいた。いっつも、そこは危ないって言ってるじゃん」
「彼は理想像じゃない。雰囲気が気持ち悪い」
ツバキと呼ばれたショートヘアの女の子は、僕を指差す。ヒスイとの会話が成立していない。
「彼を帰してくれたら、そっちに行かなくもない」
初っ端から僕を批判するツバキ。
それにしても、ぬいぐるみにしては随分と精巧な見た目だ。もはや人間と見間違えるほど。僕はまじまじとツバキを眺めた。彼女は僕の視線に気付き、何かを呟いた。小さな声だったので何を言ったのかわからなかった。まあ、良いことは言われていないだろう。
「おい、歓迎されると予想してたんだけど」
僕は横のヒスイに囁く。まさか彼女に連れられてやってきた場所で嫌われる未来を、誰が予想し得ただろう。僕は眉を顰める。それとは対照的に、ヒスイは苦笑を浮かべて申し訳無さそうに言う。
「理想像だからね。現実から来た君を受け入れないのは当然だよ」
「なにか大事なことを言わずにやり過ごそうとしていないか?」
僕は情報不足だと咎めた。ヒスイは二度三度と表情をコロコロ変え、その場を乗り切ろうとした。新手の誤魔化し方だな、とちょっと感心したりしなかったり。別に感心したからといって許すつもりもないので、詰問を続ける。
「言わないなら、ここから出る方法だけでも教えてくれ」
僕は深いため息を吐く。
これにはさすがのヒスイもうろたえ、渋々と言った様子で言葉を紡ぎ始めた。
「現実も、そこに住む人も嫌うように理想像を設定したのは私だよ。既に生成された理想像の設定は変えられない。新しい奴なら、できるけどね」
「で、ヒスイはそれをすっかり忘れていたと。僕の勘が冴えてなけりゃ、隠されっぱなしだったわけか。そりゃあひどいってもんだよ」
「……」
理想と言うのは、実に繊細だ。現実の干渉が入った途端に瓦解してしまう。だから目の前の理想像は、僕を見て吐き気とか、そういうチープな言葉では言い表せられないような不快感に苛まれていることだろう。僕はもう一度ツバキを見つめる。彼女は僕の視線に気づいた素振りを見せながらも、目を合わせてくることは決してなかった。
しかし、彼女は突然僕のほうを向いた。彼女はおもむろに口を開く。
「よし、そこの君。勝負しよう」
言ってる意味が分からない。僕は口を開けて放心状態だ。
「君の理想が、ここで生きるにふさわしかったら、私は君を歓迎する」
「面白い」
僕は言った。
「僕の理想はまさしく、君と仲良くすることだ」
僕は皮肉めいた口調で言う。というか、それは実際に皮肉だった。
「君は理想と欲望の区別もつかないのかい」
「君は皮肉と事実の区別もつかないのかい」
口調もまねて返してみる。ツバキは相当鶏冠にきたようで、情けない声を上げながら、頭を掻きむしった。
「くっそ!」
かわいらしさの欠片もないこの言動。
「ここで皮肉を言うほうが悪いんだ」
「いや、区別できなかった君が悪いね」
両者にらみ合う! 実況は選手兼実況者のスミレがお送りします。
「二人とも、ストップ!」
と、ヒスイが声を上げた。
「せめていがみ合いだけはやめようよ。それに、ここは私の箱庭。ツバキがあれこれ言う筋合いはないよ」
ツバキは肩を落とす。彼女は緩慢に立ち上がり、屋上扉の手前まで移動する。扉を開いた彼女はヒスイに尋ねた。
「そいつと居て疲れないの?」
「スミレは箱庭を拒絶しなかった。こんな現実人、滅多にいないよ」
「そう」
ツバキはそれだけを呟き、行ってしまった。
「この先は何もないのか」
僕は言った。
「唐突だね。ところでそれは、どういう意味?」
「道の話だよ」
「それなら、ないよ。箱庭は狭い。これから発展させていくつもりだけどね。スミレも造ってみる?」
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