三十四話

 永正元年十二月、細川澄之ほそかわすみゆきは正式に世継ぎとして指名された。

 紆余曲折うよきょくせつを経たが、細川政元ほそかわまさもとは澄之が世継ぎとなったことを素直に喜び、政元の喜んだ顔に澄之も素直に感謝した。

 だが心の中は晴れない。


 (せっかく家督となるのであれば、澄元にも祝って欲しかった。)


 澄之のぽっかり空いた穴は暫くは埋まりそうになかったのである。

 

 永正二年一月、政元は赤沢朝経あかざわともつねの武勇を惜しんで赦免しゃめんすることとした。

 二度も謀反した男が二度もゆるされると言うのは薬師寺元一やくしじもとかずへの措置と比べても大甘な対応だが、個人の武勇が合戦の行方を左右する時代では弓矢に優れた武士は重宝されるのだ。

 その上政元は謀反した赤沢朝経を再び山城上三郡やましろかみさんぐんの守護代としたのである。

 以前守護代だった管轄と同じ区域に復職させた訳だ。

 政元のこの措置には流石の朝経も驚き感謝した。

 そしてこれ以降は政元に逆らわず忠実な武将として手足となって働くのである。

 これにて薬師寺の謀反は完全に終息することとなった。


 薬師寺の謀反のカタがつくと政元は眼を阿波に向けようとしていた。

 ところが赤沢朝経の件がカタが付いたのとほとんど同時に今まで家督を巡っていがみ合っていた両畠山が遂に和睦したのである。

 両畠山とは畠山尾州家はたけやまびしゅうけ政長系畠山氏まさながりゅうはたけやまし)と畠山総州家はたけやまそうしゅうけ義就流畠山氏よしひろりゅうはたけやまし)の事で、この二つの家は応仁の頃より家督を巡って争っていたが、畠山家のこの家督争いが応仁の大戦の主原因となり、それが同時に畠山家の没落にも繋って、その争いは政長、義就の没後も続き、今や世代を継いでの家督争いとなっていったのである。

 その両畠山の争いが和睦を持って収束したことで、今度は専権を振るう細川への対抗意識へと移っていったのだ。

 争いによって今までは互いに足を引っ張り合っていたが、それが収束すると今度は再び管領となる栄誉を得たいと言う欲求に切り替わり、失った力を取り戻すべく急速に勢力を拡大していた。

 政元はその様な状況でも阿波の征伐を諦めることが出来ずにいた。

 畠山への対策に朝経を派遣すると今までの失点を取り返すべく活躍し、畠山を勢と一進一退の攻防を行ったのである。

  

 永正二年三月、淡路守護あわじしゅご細川尚春ほそかわひさはる摂津守護代薬師寺長忠せっつしゅごだいやくしじながただに船団を用意するように命令すると、各地にの守護や守護代に号令して兵を募ったのである。

 続々と兵船が摂津の浜に並ぶようになると、摂津の各村では政元が阿波と大戦をしようとしていると噂になり、それは堺で住むの三好一族にも伝わってくる。

 長秀の妻、よしは居ても立ってもいられなくなり急ぎ書状をしたためた。


 『昨今京より淡路へ阿波征討をお命じになられたという噂が舞い込み、堺でも各国の守護代が具足の準備のために様々な商家が慌ただしく動いております。殿の身が心配でならず、少しでもお役に立てるよう、いち早く書状に認めました。先年の乱と比べても多くの軍兵を用意しているとの噂があります。努々ゆめゆめ油断なさらぬようお気をつけください。ただ私はお前様と一日でも早く共に暮らせるようにお祈り申し上げます。』


 阿波の衆は、すぐにでも政元の遠征が行われると思っていたため肩透かしを食らった形となっていたが、戦いの空気が少しずつ醸成されると再び槍を研ぎ、具足の準備を始めたのである。

 京兆家と阿波家はとうとう一触即発となったのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る