5.face to face (sent you)


 きっといつか、傷になる。

 あの時感じたものは確かに正しかった。

 失う痛みに引き裂かれそうになるくらいなら。

 最初から出会わなければよかったのに。

 


 ……なんて。

 簡単に割り切れればいいのにね。





 夏の朝の空気が子供の頃から苦手だった。

 濁った水面の上澄みを掬うような、街がまだ目を覚まさない日の出までの時間。それを無為に消費することへ強い抵抗感があった。

 だからカーテンの向こうが白く色づき始めると、家族が寝静まっている中そっと家を出て街の中を歩いた。

 街も近所の野良猫もまだ動き出さない時間帯。

 その空に夜と朝の境界がグラデーションとなって滲んでいた。朝の眩しさとも、夕方の寂寥とも違う色合いに包まれると、普段歩く道もどこか知らない街のものに見える。その中を歩くのが堪らなく好きだった。

 この世界を独り占めしているようで。

 こんな時間が永遠に続けば、と思った。

 ……けれど、そんな子供の無垢な願いを取り払うように。

 太陽が山の稜線から姿を見せる。

 最初は眩しくて、美しいと感じた。

 だけど徐々に姿を現すにつれ、その本性が牙を剥く。じりじりと炙るように陽射しが肌を焼き始める。どこか遠くで蝉が自分の時間を主張し始めた。世界が眩く発光し始める。

 ひとりぼっちだった世界にはいつしか人が溢れ始めて。

 感じていた特別さはもうどこかへ消えてしまっていた。

「…………帰ろ」

 家へ引き返す足取りは重い。辺りには見飽きた日常が転がっていて、一日の始まりを嫌でも教えてくる。

 自分の居場所が奪われたみたいで不愉快に思った。

 そして気づく。

 どれだけ特別を高望みしたところで、そんなものを簡単には得られないんだって。

 だから、いつしか。

 夏の朝が苦手になっていた。



「…………」

 目を開けて、閉じて、を何度か繰り返す。顔を横に向けると、カーテンの隙間から溢れる光が朝だと告げていた。昼を先取りしたように窓の向こうから蝉の鳴き声が聞こえ始めている。その騒々しさが寝不足の頭に重く響く。

 朝は苦手だ。それは子供の頃から変わらないけれど、ここ最近は特にひどい。

 理由を考えると気分が重く沈む。

「ねーちゃん朝だぞ!」

 そんな私を引っ張り上げるように、元気の塊が部屋に飛び込んでくる。とててと助走をつけて、五つ歳の離れた妹が軽快に宙を舞って。

「ばーん!!」

 見事なフライングボディプレスを決めてきた。

「へぶっ!?」

 痛みに悶絶して動けない私の上を妹がごろごろごろ、行ったり来たりする。

「ねーちゃん起きたー?」

「最悪の目覚めだよ……」

 でもそのおかげで、少しだけ頭の靄が晴れたような気がした。

 立ち上がると妹に手を引かれる。そのまま妹に連れられてリビングに向かう。

「ねーちゃんはいつもお寝坊だなー」

「あんたと違ってやることがいっぱいあんの」

 妹はいつも夜九時には寝る。それは夏休みに入っても変わらない。だから朝からこんなにも無駄に元気なのだった。

 私は日によってまちまちだ。日付が変わる前もあれば変わった後に寝ることもある。夏休みに入ってからは後者の割合が増えている。

 どちらかといえば。

 眠れない、の方が正解に近いのかもしれないけど。

 リビングに着いて用意されていた朝食を食べる。両親は共働きで既に家を出た後だった。

「おかーさんがねーちゃんに怒ってた」

「なんて」

「休みだからってふきそく?な生活してるとあとでたいへんなことになるぞー、って」

 身振り手振りで妹が元気いっぱいに表現する。

 ベクトルは違うのに、なぜだか城ヶ崎さんを思い出してしまう。

「…………そうだね」

 城ヶ崎さん。

 ……城ヶ崎さん。

 あの日、夏祭りの日以来、城ヶ崎さんとは会っていない。どころか、メールのやり取りだってほとんどしていない。

 最後に連絡を取り合ったのは夏祭りの翌日。

 文面はたった一言。


『迷惑かけてごめんなさい』


 迷惑、とか。

 ごめん、とか。

 なんでそんなこと言うんだよ、って苛立ちと悔しさが募る。でもその想いをぶつけたところで何かが解決するとは思えなくて。

 だからありきたりな言葉を返すことしか私にはできなかった。

「大丈夫ですか」

「また落ち着いたら連絡ください」

「待ってます」

 待って。

 いつでも返事が出来るように四六時中スマホを握りしめて。

 待ち続けて。

 画面に表示されるメッセージに城ヶ崎さんの名前が出てくることをずっと期待したりして。

 気がつけば。

 一週間が経っていた。

 食パンを齧る。味がしなくてスポンジでも噛んでいるみたいだった。

「ねーちゃんジャムは?」

「いらない」

 妹の提案を断ってもそもそと食事を続ける。

 別に、私と城ヶ崎さんは友達と呼べるような間柄ではない。

 奴隷……ではなくて、取引相手……でもなくて。

 主従関係、というのが一番近いかもしれない。

 城ヶ崎さんが私にお願いをして。

 そのお願いを私が叶える。

 ただ、それだけ。

 だからそれ以上のことを求めるのはきっと間違えてる。

 間違えているのに城ヶ崎さんを想うことをやめられない。

 どうかしている、絶対に。

「ねーちゃん」

「ん。なに?」

「最近、元気ない?」

 言い当てられて返事が遅れる。その原因を想うとずるずる、ずるずると思考が深みに嵌るようだった。

 向かい側に座っていた妹が駆けてくる。そしてそのまま「ぎゅーっ」抱きついてくる。

「元気、出た?」

 妹が心配そうに見上げてくる。

 いつかの城ヶ崎さんとその姿が重なる。

「……うん。めっちゃ元気出た」

 頭を撫でると妹が嬉しそうに相好を崩す。にへへ、と笑って満足したのか席に戻る。

 本当に。

 なにやってるんだろう、私。



「じゃー行ってきまーす!」

 元気に太陽の下へ向かう妹を見送って自室に戻る。まだカーテンを開けていないから部屋は海の中みたいに薄暗い。息をするのも億劫で、そのままベッドに倒れ込んだ。

 今日の予定はない。昨日だって無かったし、明日だってきっとそう。宿題は進めなくちゃいけないけど、そこまで焦るものでもなく。することがなくなって、ついスマホを眺めてしまう。

 真っ暗な画面に反射して私の顔が映る。

 ひどく瞼が重いのか目つきが異様に悪い女がそこにいた。

「……ひどいかお」

 こんな顔、誰にも見せられない。ましてや、と続きそうになったところで、頭を振って無理やり思考を中断する。

 関係ない。関係ないじゃん、城ヶ崎さんは。

 判断の基準が城ヶ崎さんになりつつあることに危機感を抱く。染みがじわりと広がるように、城ヶ崎さんが頭の片隅から侵食し始めていた。

 別に、私は。

 そういう、そういうあれじゃない。好きとか恋してるとかそういうやつでは決してない。だから花火も、潤んだ瞳も、しっとりとした唇の感触もまだ残ってるのは絶対に何かの間違いだ。そうに決まってる。

 女の子同士の関係性を描いた物語は好きだけれど、当事者になりたいわけではなくて。

 だけど、……だけど。

 否定したところで私の中の城ヶ崎さんは止まらない。

 止まってくれない。

「……城ヶ崎さん」

 私はどうしたらいい? 

 どうしたらこの身悶えしたくなる感情に名前を付けられるの?

 教えて。

 教えてよ。


 その願いが通じたのか。


 不意にスマホが震える。

「───っ!?」

 誰か、知らない番号からの着信。城ヶ崎さんに番号を教えていたかどうかを思い出す前に電話に出る。

「っぁ、はい! 天城、です」

「あ、もしもし天城さん? えーっと、三島……って言って誰かわかる?」

「えぁ、」

 聞き覚えのない声に返事が空振る。勢いが破裂した風船みたいに無くなる。

「…………あの、その……ごめんなさいわからないです」

「あはは。だよね、話したことほとんど無いもんね。一応、この前のお祭りの日に会ったんだけど……覚えてる?」

「あっ…………ああ、あの時の」

 顔と声が一致する。そこに名前が加わって人物像が完全な形になる。

 忘れられるわけがなかった。

 私と城ヶ崎の……き、キスを見ていた、かも、しれない人。花火と城ヶ崎さんと夜の街並みが走馬燈のように駆け巡る。ぐるぐる暗いものが胸の真ん中で渦を巻く。胃が痛くて吐きそうだった。

「うん、そう。あの時の。……でさ、天城さん、今、時間あったりするかな?」

「……あります、けど」

「よかった。じゃあ今から会えない? 場所は駅とかどう?」

「今からだと……」

 時計を見る。着替えて、支度をして、と脳内でこれからの予定をシミュレートする。

「一時間くらい掛かりますけど」

 少しだけ時間を盛る。本当はもう少し早く着けるけど。

「全然おっけ。じゃあ一時間後に駅に集合で」

 じゃね、と軽快に電話が切れる。暗い画面にまた私の顔が映る。苦いコーヒーでも飲んだように口元が歪んでいた。

 なんで、あんたなんかと会わないといけないんだ。

 一つ不満が浮かぶと、それに連鎖して次々に文句が出てくる。なんで、なんで、がゲシュタルト崩壊しそうだった。

 それでも、本当に嫌だけど、のそのそと着替え始める。少しでも遅く着替えて、少しでも三島さんを待たせようと考える。今日も昨日に負けず劣らずの暑い日だ。炎天下の中、誘ったことを後悔してしまえばいい。

 ……嫌なやつだ、私は。三島さんは何も悪くないのに、勝手に嫌だって思って当たるなんて。

 そしてなにより一番嫌なのは。

 三島さんの誘いを断らなかった私自身だった。



 約束通り一時間後に駅に着いた。

 陽射しの勢いは止まることを忘れたらしく、今日も容赦なく世界を照らしている。その光から逃れるように駅前の日陰に避難した。

「…………あっつい」

 熱を吸い込んだ空気は澱んで、重い。サウナの中にでもいるみたいで、動いてないのに暑かった。蝉の鳴き声も心なしか弱々しく聞こえた。

「お、天城さんだ」

 やっほー、と手を振りながら三島さんが駆け寄ってくる。白のトップスに合わせたデニムのサロペットがショートボブの髪と相まって子供っぽい印象を与える。駆けるたびに髪がぴょこぴょこ揺れるから余計にそう見える。

「やー、今日もあっついね!」

「あっ、そうですね」

 距離感が近くて戸惑う。城ヶ崎さんとは異なる意味で緊張した。

「じゃあ天城さんとも合流できたことだし行こっか!」

 行くって、どこへ?

 尋ねると、三島さんが不思議そうな顔をする。

「そんなの決まってるじゃん」

 満面の笑みを作って三島さんが言う。

「あやめの家だよ?」

 あやめ。あやめ? ……あっ、城ヶ崎さんのことか。

 理解して、頭の中が真っ白になる。点と点が繋がらない。どうしてここで城ヶ崎さんの名前が出てくるの?

「さー行こうすぐ行こうゴーゴー!」

 三島さんが私の腕を引っ張って歩き出す。その遠慮の無さに抗議したくなった。

「ちょっ、待っ! 城ヶ崎さんの家に行くとか! 聞いてない!」

「だって言ってないもん」

 さぷらーいず、と三島さんが楽しそうに笑う。

 ……これだから陽だまりの中にいる人間は!

 口から飛び出そうになる罵倒を駅前という環境で飲み込む。嚥下してなお苛立ちに似たものが収まらない。

 大体、なんで城ヶ崎さんの家に。

 困惑と混乱と……ひと匙の不安が私を満たす。

 まさか、って思いが加速して私を飛び越えようとする。

「あのっ、」

「あやめがさ」

 仲良しでもないのに声が被って気まずい。お互い譲り合って、結局三島さんに話してもらうことにした。

「最近、なんだか元気無さそうなんだよね」

「そう……なんですか」

「そ。だからさ、お見舞い……じゃないんだけど会って、直接元気をこう、ね」

 ぎゅーっ、と三島さんが空気を抱くようなポーズをする。実際にやりそうで、まさか私も巻き込まれないよね、って不安になった。

「……なんか、すごく大胆かも」

 なんでぇ、と三島さんが不思議がる。

「友達だから心配になるじゃん。天城さんもそうだよね?」

 当然のように聞いてくる。友達。ともだち。

 私と城ヶ崎さんは、友達なんかじゃない。少なくとも私は、そう思っている。

 それよりはもう少し複雑で、不可解で、不可思議で。簡単には言い表せないし、そもそも人に吹聴するような関係でもない。

 特別と、ある意味では言えるのかもしれないけど。それは誰もが想像して憧れるような華やかさとは程遠い。

 だから。……だから、私が城ヶ崎さんを心配する理由なんて無いはずなんだ。決して。

「……私は」

 だけど。

 本当にそうなのか、って踏みとどまる。

 誤魔化してないか、って自問する。

「私も、」

 夏祭りの日の城ヶ崎さんを忘れられない。

 笑顔も、浴衣も、お日様みたいな手の熱も、一緒に見上げた花火の綺麗さも、泣きそうに潤んだ瞳も。

 そして。

 …………キスをしたことも。

 理由なんて、それだけで十分な気がした。

「心配、です」

 言うと、背負っていた荷物を下ろしたように心が軽くなる。

 そっか、と満足そうに三島さんが頷いた。

「うへへ。天城さんってさあ」

「……なんですか」

「素直じゃないねえ」

 うっさい。

 駅前の商店街を抜け川に出る。水面が光の粒を散らしたように眩しい。遮るものが無くなって、陽射しの強さを殊更に感じた。

 川沿いの道を三島さんと連れ立って歩く。溢れんばかりの熱気に当てられて、互いに口数が少なくなる。

 小さな神社の前を通り、橋を一つ越えたところで三島さんが立ち止まった。

「着いた」

 見上げるマンションは発光でもしているみたいに全体が滲んで見えた。ここに城ヶ崎さんが住んでいると思うと、瞼にかかる熱の重さが増す。

 正面玄関に回ってエレベーターに乗り込む。階数表示が変わっていくのをぼんやり眺めていると、三島さんが思い出したように口を開く。

「いると思う?」

「誰が?」

「あやめ」

 いると思う、って。

「まさか、連絡してないの……?」

「さぷらーいず」

 楽しそうな三島さんに、割と本気で、呆れてしまった。

 これで居なかったら。……いや、むしろ、居ない方が良いのかもしれない。心配は心配だけど、でも顔を合わせてまで確認したいかって聞かれると気まずさの方が勝る。

 城ヶ崎さんの顔を見て話せる自信がない。

 意識するとあの夜のことを思い出して背中がじんわりと熱くなった。

 7階に着いて外に出ると、眼下に駅前の街並みが広がる。蝉の鳴き声が聞こえなくなる。遠く向こうに視線を向ければ、ぼんやりとだけど富士山が見えた。通路を吹き抜ける風が思いの外心地良くて汗が引いていくのを感じる。

 ……そうやって意識を散らさないと、城ヶ崎さんの家に辿り着ける気がしない。気分はテストの答案が返却されるのを待っているのに近かった。

 一歩一歩、足が通路から離れる感覚を意識しながら歩く。歩幅を可能な限り小さく保つ。けれど、そんな努力の甲斐なく城ヶ崎さんの家にあっさりと辿り着く。

 着いてしまう。

 三島さんがベルを鳴らすと、ぎー、と錆びた扉を開けるような音がした。

 鼓動が早鐘を打つように早くなる。

「わくわく」

 期待に満ちた眼差しで三島さんが扉を見つめる。見つめて、数秒が経過する。

「……出ないねえ」

「そうですね」

「もっかい押してみよう」

 また音が鳴って、沈黙がその後に続く。家の中からは物音ひとつ聞こえてこない。

「……お留守かな?」

「だから、ちゃんと連絡取ればよかったのに……」

「おーぅ、さぷらーいずしっぱーい」

 胡散臭い外国人みたいに三島さんが手を広げて残念がる。

 三島さんにバレないようにそっと息を吐いた。

「うーむむ。どうしようかねえ、困ったねえ」

「……あんまり困ってるようには聞こえないけど」

「あらら、バレてた?」

 悪戯が見つかったときみたいに三島さんが照れ笑いをする。

「まー連絡が取れない、って時点でなんとなく予想はついてたんだけどね」

 してたのかよ。

 じゃあ私は無駄に城ヶ崎さんの家まで足を延ばしたってことに……いや、城ヶ崎さんの家が知れたから……いやいや。

 頭を振って余計な考えを追い出す。

「……どっちかって言うと天城さんと会うのが本命だったり」

「なに?」

「なんでもないでーす」

 軽薄なやり取りと態度に、改めてこの人は苦手だ、と意識する。噛み合わない歯車を無理矢理嵌め込もうとするような違和感が会話をするたびに付き纏う。

 どうしてこうも城ヶ崎さんと違うのか。同じ陽だまりにいるはずなのに。

 マンションを出ると蝉の鳴き声が盛大に出迎える。遠ざかっていた暑さが呼応するように戻ってくる。

「これからどうするの」

 言外に「予定が無いなら帰りたい」を込める。

 もちろん、三島さんにそんなものは伝わらない。

「もうちょっとお話しようよ天城さん」

 いいでしょ、と言わんばかりの笑顔だった。

 反論を考えようと時計を見て、空を見上げて、夏の眩しさに目を細めて。こんなんばっかだな、と諦めてため息をつく。

「……少しだけなら」

「やったね! ……これは、アレだね。親しみを込めて天城っちって呼んでも?」

「絶対やめて」

「はーい」

 全く反省していない声色で三島さんが歩き出す。その後ろを影が重ならないくらい離れて着いていく。

「っちはさあ」

「誰?」

「いや、『天城っち』がダメなら、そこから天城さん要素抜けばいけるかもと思ってですね」

「原形留めてないんだけど」

「失敗だね!」

 陽射しの強さをものともせず、三島さんは朗らかに笑う。私は二重に参っているというのに。どこにその元気の源泉があるのか、少しだけ気になった。

「ときに天城さんや」

 古めかしい口調で三島さんが問いかけてくる。

 反応するのが面倒で、だから無視をしようと決め込む。


「天城さんはあやめと仲が良いの?」


 ………。

 不意を、突かれた。

 予想していなかった質問に心臓を掴まれる。

 仲が良い。仲良し。

 どこからその発想が出てくるのかわからなくて、寒くもないのに背筋が冷えた。

「……なんでそんなこと聞くの」

「だって、この前のお祭りのとき一緒にいたじゃん」

 あれ違ったっけ、と三島さんが振り返る。無邪気な瞳がまぶしい。受け止めることができなくて目を逸らした。

「もしかして、聞いたらまずいやつだった?」

「まずい、ってどういう」

「うーん、そうだね。例えば、」

 一拍置いて。

「天城さんと城ヶ崎さんが付き合ってる、とか。どうかな?」

「……違うに決まってんでしょ」

 さすがに。さすがに、否定する。それだけは決してありえない。

「なんだ違うんだ」

「当たり前でしょ」

 ふーん、と三島さんが訳知り顔で頷く。私の言ったことをまるで信じていないみたいだった。

「あっやしーぃ」

「……どこが」

「あやめと一緒に遊んでるってとこが」

「別に……普通じゃない?」

「普通じゃないよ」

 信号が赤に変わって三島さんが立ち止まる。雲が太陽を覆い隠すように、三島さんの表情に影が差す。

「だってあやめ、あんまりわたしたちと遊んでくれないんだもん」

「…………そうなの?」

 そうだよ、と三島さんが頬を膨らませる。人当たりの良い城ヶ崎さんのイメージとその事実とが繋がらない。

 ずるい、と三島さんの口が尖る。

「いつも誘っても用事があるとか、勉強しなきゃとかで忙しそうにしてるのにさ」

 友達の、三島さんたちとの時間を城ヶ崎さんは断っている。

 断って、おそらく、きっと、私との時間に充てている。

 なぜ、と思うより先に背中が熱くなる。

「だから、ちょっと羨ましかったりするんだ。天城さんが」

 笑顔とともに言葉が締め括られる。胸中を吐き出せてすっきりしたのか晴々とした笑顔だった。

 ……そんなの。

 そんなこと言われても、困る。

 だって、それじゃあ、まるで。

 私が。

 私だけが。

 城ヶ崎さんにとって。

 首筋を伝って熱が一気に頭の中心へ駆け上がる。頬と耳が火傷しそうなくらいに熱い。放っておくと口から変な声が漏れそうで、だから慌てて口元を両手で覆った。

 自惚れだ。

 勘違いだ。

 そんなことない、のに、だけど、でも。

 キスと「好き」が頭を中をぐるぐる駆け回る。否定したくてもその材料が見つからない。嵐でも吹き荒れているかのように、ざわざわと心が揺らいでいた。

「ねえ、天城さん」

 独り言みたいに三島さんの口から言葉が漏れる。

「あやめのこと、好き?」

 ……好きかどうかなんて、わからない。わかりたくもない。

 あぁ、でも。

 もう、見て見ぬふりはできない。

 わからなくちゃいけない時が来たって遅まきながら理解する。

 朝も昼も夜も隣に城ヶ崎さんが居ても居なくても膝枕をしたり雨の中二人で帰ったり授業をサボって保健室で添い寝したり海に行って遊んだり夏祭りに行って花火を見たりキスをしてしまったりずっと連絡が取れなくて落ち込んだり城ヶ崎さんの家まで来てどきどきしたりこうして今もずっと城ヶ崎さんのことを考えて体温を上げているのは、もう、誰が、どう見ても、わからないなんて言って誤魔化せない。

 私は。

 私は……!

「んむぐっ」

 喋ろうとした口を三島さんの手が塞ぐ。

「うん、わかった。天城さんの気持ちはよーくわかったから」

 だから。

「それはわたしじゃなくて、あやめに言ってあげて。だって、その方が絶対あやめ喜ぶもん」

「三島さん……」

 ぐっ、と三島さんが親指を立てる。ふれんしーっぷ、って言葉がいまは心強く聞こえた。

「ありがとう、三島さん。……あとごめんなさい。今まで、その、言葉を選んで言うと、ちょっとお馬鹿な人だと思ってた」

「選んでなくない?」

「あと、行き倒れればいいと思ってた」

「ひどくない?」

 頭を下げると後頭部をぱしーんと風を切る調子で三島さんの手が撫でた。そうして顔を見合わせて、二人して笑う。少しだけ距離が縮まったような気がした。

「ありがとう三島さん」

「わかったわかった。……じゃあ、あやめのことよろしくね」

「……うん!」

 三島さんと別れて歩き出す。スマホを取り出して城ヶ崎さんにメッセージを送る。

「城ヶ崎さん」

「いまから、」

 会えないですか、と送ろうとしてすぐに消した。

 確認じゃなくて、意志を。

 待つのではなく、歩み寄ることを選びたい。

 それが、いまの私にできる最良の選択だと信じて。

「会いたいです」

「どこに居ますか」

 送信して、興奮と後悔と高揚が身体を包む。

 届いて。

 届け。

 お願い。

 恋焦がれるようにスマホの画面を見つめる。

 蝉の鳴き声が遠くに聞こえ出す。

 意識が尖って、血液が全身を駆け巡るのを明瞭に感じ取る。

 居ても立っても居られなくなっていますぐ走り出したい。感情が身体の内側から飛び出しそうだった。

 そして。

 永遠にも似た数十秒の空白の後。

「───、ぁ」

 既読の文字がメッセージの横に並ぶ。

 ややあって、一枚の写真が送られてくる。

 夏の砂浜。奥には小さな港が見える。暑さのせいか人の数は少なくて、晴れているのにどこか寂しさというか静けさを感じた。

 これといって特徴のない、だけど、確かに見覚えのある風景の写真だった。

『待ってる』

 たったそれだけの言葉に、不意に涙が出そうになる。感情の塊が目元から溢れそうになって、それを乱雑に拭いながら駆け出した。

「待ってて」

 すぐ行くから。

 流れる汗も、照りつける陽射しも、周囲の視線も、後悔も、何もかも全部振り切って駅に向かって駆ける。

 足の指先を意識した。振る腕の動きを意識した。早く早く、って心と身体と心臓の動きが合致して、より一層加速する。

「あ、はは、は」

 楽しい。楽しくなんかない。息が続かない、苦しい。だけど視界はどこまでも澄み切って。いまが一番満たされている、と心が歓喜する。

 駅前に停まっているオレンジ色のバスを見つけて、倒れ込むようにして乗り込んだ。何人かの乗客が怪訝そうな顔をしていたけど、適当に笑って誤魔化した。

 バスに揺られながらぼーっとする。心が身体から飛び出して宙を彷徨っていた。落ち着かなくてバスの振動に合わせて足を揺する。

 城ヶ崎さんは、この炎天下の中、暑くないだろうか。熱中症になってないか。喉は乾いてないか。確かバス停を降りてすぐにコンビニがあったらから飲み物でも買っていった方がいいんじゃないか。

 そんな益体もないことを考えているのすら楽しくて、だから時間があっという間に過ぎていく。

 バスが目的地に着く。着いたと同時に外へ飛び出した。

 時刻は正午を回って、陽射しはなお強まる一方だ。その下を城ヶ崎さんに会いたいというただ一心で駆ける。

 漁港の側を抜けると岬の付け根、砂浜の入口が見える。砂の白さが陽射しを浴びて眩しい。その光の中へ脇目も振らずに飛び込んだ。

 息も絶え絶えになりながら砂浜を見渡す。さして広くもない渚には人の姿は見当たらない。

 誰も居ない。

 城ヶ崎さんが居ない。

 居ない。どうして。

 待ってる、って言ったのに。それとも来る場所を間違えた? でも海で、城ヶ崎さんで、私といえばこの場所しか考えられない。

 もう一度、砂浜を見渡して。

 砂に紛れるようにして、ぽつんと靴が置かれているのに気づく。

 そして。


 足跡が海に続いている、のを見つけてしまった。


「…………………………………うそ」

 ひゅっ、と喉の奥から声にならない息が漏れる。呼吸が震える。陽射しを浴びているはずなのに背筋が凍りそうになる。

「うそ。嘘、嘘うそうそウソ、だって……!」

 たまらず駆け出した。

 靴を越えて、海と砂浜の境界線を越えて。

 濡れることも厭わずに、海の中へ分け入る。

 あっという間に服に水が染み込んで重くなる。だけど止まらない。止まれない。

「やだよ。嫌だ嫌だ、だって、そんな、」

 腰まで海に浸かる。それでも止まりたくない。

「待ってる、って言ってたじゃん……!」

 急に深さが増したのか首元まで海が迫る。動くたびに口に海水が入って息がしづらい。それでも関係ない、と腕を動かして海を搔く。

「そえに、私は、ごぶっ、まだ……」

 まだ、答えていない。

 あの日の「好き」の返事をしていない。

 やっと認めたこの気持ちを城ヶ崎さんに伝えたいのに。

 それなのに、もう会えないなんて、なんで、そんな。

 足が海の底から離れる。何もない場所を爪先が蹴って、身体が水に掴まる。

 沈んでいく。

 ああ、と感傷に浸る間もなく、暗い水底に引っ張られる。

 その刹那。

 波の音に紛れて。

 城ヶ崎さんの声が聞こえた気がした。











「────!!」

 身体が海の中を引き摺られる。誰かが私の腕を掴んで泳いでいた。

「ぁ、ぇ」

 頭が重い。意識が遠い。寝起きの時みたいに身体に力が入らない。

 海底に足がついて、やや絡れながらも海の中から這うようにして出る。

 陸地に戻って安心したのか、そのまま砂浜の上に倒れ込んでしまった。

「───!? ───?」

 陽射しが眩しくて目が開かない。誰かが何かを言ってるみたいだけど、耳がきーん、となってその声が届かない。

 生きてる? 死んでる? どっちにしろ助けてもらったから何か言わなくちゃ。

 そう思って声を出そうにもあぇあぇ、と言葉の代わりに水が出る。

 あ、やばい、死ぬかも。

 思考が回らない。へるぷみー、と三島さんみたいな軽口すら叩けない。

 走馬燈は、駆け巡らなかった。

 だって。

「──ぅえ、ぁぇ、」

 お腹が誰かに押さえられる。ぎゅっと手に力が入るたびに口から壊れた蛇口みたいに水が漏れる。それを何度か繰り返している内に水が止まる。

「───よかった」

 安心したような声がする。薄目でその誰かを見上げると髪が向日葵を背負ったみたいに眩しかった。

「あっ、でも一応人工呼吸もした方がいいのかな」

 声の主が誰にともなく呟く。少し悩む素振りをした後「……いいよね。誰も見てないし」と決断する。

 良くはない、と言いたかったのだけど。

 その言葉が出てくる前に口が塞がる。

 熱を含んだぬるい空気が口を通って肺へ向かう。まとまった空気を得て、全身がゆっくりと目覚めに向かい始める。

 目を開く。

 開いて、ああ、と納得する。

 城ヶ崎さんがすぐ目の前にいた。鼻と鼻がぶつかりそうなほどに近い。驚いたのか、城ヶ崎さんが目を丸くする。

「い、いづこちゃん……!?」

「………………おはよ」

「おはよ、じゃなくて……じゃなくて!」

 もう、と城ヶ崎さんが今にも泣き出しそうな勢いで目を潤ませる。

「心配したんだよ! 急に海に入ったと思ったら溺れ出して……!」

「えっと、その……ごめんなさい」

「いくら暑くてもちゃんと体操して、それに服着たまま水に入らない! 常識でしょ!」

 怒るとこそこなの?

 いや全面的に私が悪いから何も言い返せないのだけど。

 ああ、でも。

 城ヶ崎さんには本当に悪いんだけど。

 声も、髪も、顔も、話す言葉も、雰囲気も。

 私が会いたかった城ヶ崎さんそのままで、心が帰ってくる場所を見つけたみたいに落ち着く。

「……ねぇ、城ヶ崎さん」

「なに?」

「私、ちゃんと生きてるよね」

 聞くと、ばか、とお腹を叩かれる。

「心配。したんだからね……!」

「うっ、ごめん」

 ちゃんと痛みを感じることが出来る。私はいまも、この世界に生きている。

 だから、そう。

 本当に良かったと思う。

 私自身の言葉で、しっかりと伝えられそうで。

「城ヶ崎さん」

 腕を伸ばして、城ヶ崎さんを抱きしめる。

 こんなことされるなんて予想していなかったのか、抵抗なく私の胸の中に城ヶ崎さんが収まる。

「な、なな、なになにどうしたの急に!?」

 本当にね。どうしたんだろうね。

 その反応が嬉しくて笑みが溢れる。期待以上の可愛さだった。

 城ヶ崎さんの体温が濡れた服越しに伝わる。じわじわと、侵略でもするようにその熱が私を包む。お日様みたいであったかくて落ち着く。……あと意外とあるな、とも思った。

「城ヶ崎さん」

「は、ひゃい」

 視界を城ヶ崎さんが埋める。

 その顔を見つめて、あの日、あの時、まだ育ち切っていなかった、言えなかった言葉を伝える。

 私の特別を、あなたに捧ぐ。

「好きです」

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