第5話 止まらない涙

 レーンは離れているけれど、李津子りつこが先にターンしたのはわかった。

 でもここからだ。

 瑞城ずいじょう女子高校の屋内プール。

 茉莉まつりたち瑞城の中学生はこの記録会のときぐらいしか使わせてもらえない五十メートルのプールだ。

 得意種目のクロールで泳ぐ最後の五十メートルで勝負する。

 自由形の記録会では先に李津子より前に出て、最後の二十五メートルくらいで追い上げられて逆転された。だから、個人メドレーでは、先に李津子に行かせて、最後に追い上げて逆転する作戦だ。

 モーターのように効率的に水をかく両足と、体の下の水を力強く後ろに押しやる手の動きでリズムに乗る。

 自分の体が水を押しのける。

 いや。

 茉莉が体を正しく動かすと、水のほうが道をけてくれる。その水が退いたところへ吸い込まれるように、茉莉の体は進んで行く。

 茉莉の体の動きが水全体を支配する。同時に、水の意志が茉莉の体を押し、前へと進めてくれる。

 茉莉の感覚がえわたる。

 あと三十メートル。

 もう少しペースを上げられる。

 上げて行こう。

 このペースにシドニーの中学生たちはついてくることができなかった。まして、瑞城の子たちは……。

 ゴールはあっという間に近づいて来る。

 茉莉の体は、リズムで押されるように、ぐん、ぐん、ぐんとそこに向かって伸びていく。

 水を蹴る、手を伸ばす、最後まで加速を止めない。

 タッチ。

 同時に鳴る笛の音!

 いや。

 笛がフライングした。

 鳴るべき時間より早く、笛が鳴った。

 水の中で音が伝わる時間の問題か?

 ぼこん、と、水の中から頭を上げる。

 でも、振り向く前に、茉莉の体から力が抜けた。

 わかったから。

 最初にゴールに達したのは茉莉ではない。

 四レーンをあいだにはさんだ向こう側の李津子だ。

 李津子はゴールの下のプールサイドに手をかけると、立ち泳ぎしながらクールにまわりを見回している。

 茉莉のほうには顔を向けなかった。わざとかどうか知らない。

 茉莉は力いっぱい泳いで激しく息をしているのに、李津子は普通に息をしている。ふだんよりは息が深いのだろうけど、それでも、普通に、吸って、吐いてしている。

 あのときといっしょだ。

 茉莉が、自分も浮き輪なしで泳げると思って浮き輪から手を放して沈んだ。

 それを李津子が助けてくれた、あのときと。

 涙があふれてくる。

 その茉莉と李津子とのあいだに、ようやく三着の子が滑り込んできて自分の順位を確認し、ガッツポーズをして笑顔でまわりを見回した。

 この子の三着は三着ではない。

 「茉莉と李津子を除いた一着」だ。

 いや。

 「李津子と茉莉を除いた一着」。

 力の抜けた茉莉の体から、涙だけは止まらずに湧き出してきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る