第2話 浮いていた李津子

 浮き輪をもらって足の着かないところまで出て行くことができるようになったころのことだ。

 茉莉まつりが泳いで行ったところに、同じ年頃の女の子が浮いていた。

 その子は浮き輪をつけていなかった。

 「浮き輪は?」

と茉莉はきいた。

 「あ。わたし、浮き輪なくても泳げるから」

 そうか、と、幼い茉莉は思った。

 浮き輪って、なくても泳げるんだ。

 そう思った茉莉は

「ふーん」

と、いきなり浮き輪から手を放した。

 そして。

 ぶくぶくぶく……。

 そんな音は立てなかったかも知れない。

 茉莉の体はすーっと沈んで行った。

 垂直に立ったまま、そのままの姿で。

 海水が目に入って、痛い、と思って、目を閉じた。そこまでしか覚えていない。

 気がついたときには、女の子にきゅっと抱かれていた。その女の子が、茉莉の頭越しに茉莉の右手を浮き輪にかけ、両腕で浮き輪につかまらせてくれていた。

 自分が激しく息をしているのに、茉莉はやっと気づいた。

 「だめだよぉ」

 それは、さっき、浮き輪もなしに浮いていた女の子だった。

 「浮き輪なしに泳げるようになるには、時間、かかるんだからぁ」

 押しつけがましい、お説教っぽい言いかただった。

 茉莉は言い返した。

 「でも、時間がかかったら、浮き輪なくても泳げるんだ?」

 「練習すればね」

と、そのお説教っぽい女の子が言う。

 「じゃあ、茉莉も練習する!」

 「じゃあ、砂浜に戻ろう」

 そう言って、その子は、茉莉を足の着くところまで連れて行ってくれた。

 お母さんはその一部始終を見ていたはずだけど、茉莉があまりに自然に浮き輪から手を放して、その女の子に助けられてまた浮いてきたので、最初からそういう練習をしたのだと思っていたらしい。

 「おぼれかけた」とは思わなかった。

 茉莉自身だって溺れかけたという実感はなかったと思う。

 海の下のほうに下りていって、息が苦しかった。それだけだ。

 茉莉のお母さんは、茉莉を連れてきた女の子に

「お名まえは?」

ときいた。

 その子は、元気に、はきはきと答えた。

 「西城さいじょう李津子りつこです」

 「お父さんかお母さんは?」

 李津子は、中途半端に斜めのほうを指さした。

 「そこの旅館です」

 お母さんは、しばらくわからなかったらしいけど、やがて、あ、と思いついた。

 「ホテル西城さんの子なんだ」

 「うん」

 その、首を突き出してうなずいた、お姉さんっぽい紺色の水着の子に、茉莉は思わず嫉妬しっとを感じた。

 そのときの気もちをいま知ってることばで言うなら、そうなるのだろう。

 もちろん、そのときの茉莉は、「旅館」とか「ホテル」とか言われてもわからなかった。

 ただ、この子ともっといっしょに遊びたい、そして、この子よりも上手に泳げるようになりたいと思った。

 親には、それまで着ていたピンクのふりふりのついた水着ではなくて、あの子と同じような紺色の水着を買ってもらった。

 そして、毎日、海水浴場に来て、その子と遊んだ。

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