第52話 私のご主人様に見られてしまって
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ご主人様は勘違いをしています。
私を抱かないのがご主人様なりの優しさなのでしょうけど、違います。
ここまで露骨にアピールしているのに無視する方が、かえって失礼じゃないでしょうか。
……といっても、私にそれを指摘できる資格はないんですが。
「……ふぅ」
また羽林さんに呼ばれて、ご主人様は現在、家を空けています。夜の9時が過ぎてるのに連絡一つもないなんて、酷いと思います。
この家には私しかいなくて、そうなると私の行く先も決まってしまいます。主人の面影を、一番よく感じられる場所。
ご主人様の部屋です。
「……………」
ベッドに私の匂いが染み付いてしまう。
そんなくだらなくて面倒な考えが吹っ飛ぶくらいに、ここはご主人様の匂いが充満しています。
こまめに掃除をしているから、もちろん部屋は綺麗です。だけど、ベッドや枕についたご主人様の匂いは消えません。
布団の中に潜って息を吸うと、空っぽだった心も少しは満たされます。もう、どうにでもなれとやけになって、枕に鼻を埋めてみます。
私って魅力、ないのでしょうか。
「……バカね、本当に」
ないに決まってるんじゃないでしょうか。
ついこの前、ご主人様は私をイかせました。私は人生最高の快楽にもがくしかなくて、信じられないくらいに乱れていました。
普通、そうなったら襲うものではないでしょうか。
なのに、ご主人様は私にキスを送るだけで、なにもしてきませんでした。
私を意識するような反応は幾度も見せたくせに、大切な一線は超えないなんて。
ご主人様は臆病者で、ヘタレで、バカで、女の敵で、みっともない男だと思います。
その分、私に魅力がないのが悪いんでしょうけど。
「…………………」
驚くことに、私はご主人様に抱かれたいと思っているようです。
その上に、私はその行為をキスと同じレベルに引き下げたいらしいです。
日常的で、特に意識する必要もなくて、気持ちよさと退廃が共存しているものとして……あの行為を捉えようとしています。
しかし、私も知っています。キスとあの行為は重さが違うってことを。
抱かれてしまったら、後戻りはできないでしょう。
私はきっと何度も求めるでしょうし、その度に願うはずです。あの人の物になりたいと。
そうすれば、心にかかったこの空虚で分厚い霧も、少しは払えそうですから。
「…………」
一人でいるのは嫌いです。
一人でいたいのに、いざ一人になったら物足りなさを感じてしまう、理不尽で矛盾の塊みたいな女。
それが冬風氷という人間で、こんな私をメイドにしたご主人様はきっと大きなミスをしたのだと思います。
私は母を亡くして、叔母に虐げられ、叔父には襲われそうになっていました。
そんな風に歪んだ人間が求めるのは、何なのでしょうか?人生の意味?奇跡を願う希望?色とりどりの魂?
……違います。
求めるのは永遠と、感覚だけ。
「………っ」
実存は本質に先立つ。実存は本質に先立つ。実存は本質に先立つ。
どこかで聞きかじったその言葉は、私の歪んだ魂に活を入れて、どんどん私をどん底まで堕としていきます。
鮮明な快楽と熱は生きている証拠です。この人でしか感じられないもので、この人がなかったら一生知らなかったはずの刺激。
私はズボンを少しだけ降ろして、布団をかぶって、リモコンで照明を常夜灯に切り替えました。再び枕に顔を埋めます。
「ん………っ……」
あれから何度か、自分自身を慰めようとしたのですが……残るのはもどかしさだけでした。
快楽の深くまでは入れずに、表面をなぞっているだけの上っ面の刺激。ご主人様が贈ってくれた鮮烈な感覚に比較したら、100倍は足りない刺激。
指の長さも、太さも、熱さも、息遣いも、全部足りません。
そんなもどかしさの上に、羽林紫亜という存在をスプーン一杯加えたら、見事な負け犬の一人エッチになって。
嫉妬と劣等感は少しだけ快楽のダシになり、私はそんなモヤモヤもすべて、自分の体にぶつけました。
「みそ………直、君」
何度も、その名前を呼び続けます。
「直君……直君、直君………なお、くん………」
私みたいに歪んだ女に、彼との未来を求める資格なんてあるのでしょうか。
身の程知らずではないでしょうか。居場所を与えてくれただけでも感謝すべきなのに、欲張りな私は彼に貪られたいと思ってしまいます。
一人エッチは気持ちいいんですが、全く気持ちよくありません。なんで早く帰って来ないんですか。
羽林さんに目を向けないでください。私がいるじゃないですか。
いや……私が彼女より優れているとこなんて、なにもないんですけど。でも、でも……。
私は、あなたを想う気持ちだけなら、誰にも………。
そうやって自分の世界に入り込んでた瞬間、カチッと鍵がさされる音がしました。
「ただいま~」
「…………っ!?!?」
私はびっくりして、反射的にパンツを穿き直します。その後にすぐベッドから出ようとしましたけど、全身に上手く力が入らなくて。
そうやって戸惑っていた途中で、門が開かれました。
薄暗い照明をつけて、髪の毛を頬に貼りつかせたまま、顔を真っ赤にしている私を。
ご主人様はすべて確認した後に、目を見開きます。
「……………………………」
「……………………………」
何かを言わなきゃいけないのに、言葉が出てきません。死にたいくらいの羞恥心が喉を詰まらせます。
「…………氷」
だいぶ時間を置いた後、ご主人様は無理やり引き出した声で言います。
「なに……してるの?」
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