第51話  俺のメイドに抱き枕になって欲しいと言われた

美空みそら なお



俺は羽林に呼ばれて明日、向こうの会社に行くことになっている。


氷と一緒に寝る事件が起きてから、ちょうど三日が経った。



「……」



氷の感触とか、体温とか、水音とか、表情とか、絶頂する姿とか。


そんなものは初心うぶな俺が容易く忘れられるようなことじゃなくて、ずっと俺の頭に住み着いて離れないでいる。


学校にいる時も、休み時間も、作業をする時も、寝る前も。


俺の頭の中では、あの日の氷が生きている。



「…………ふぅ」



これを音で表現したら、こんな風になるだろう。


エナドリを飲みながらそんなことを思う。洋楽ではよく愛を歌いながら、女性の体を褒め称える露骨な歌詞とメロディーが多い。


ぶっちゃけ、俺は今までその音が理解できなかった。


俺は音を感じながらも無意識に音を計算する癖があるから、感性と知識としては洋楽のサウンドを知っている。


だけど、それを心から理解できる日が来るとは思わなかった。



「…………」



メランコリックで、湿っていて、熱くて、脳の細胞が端から焼かれて行くような音楽。


今まで作ったことのない、オルタナティブR&Bのサウンド。


サンプリングと夢幻的な音を積んで出来上がった曲は、俺の心を映している。音楽はいつだって作り手の心証を反映する。


何日もかけて作った曲を聞いて、俺はようやく痛感する。思い知る。


俺は、氷を徹底的に自分だけのものにしたいと思っていて。


彼女と一緒に、どん底まで堕ちたいと願っている。誰も見付けられない、二人だけのモラトリアムに閉じこもりたいと。



「ヤバいな、俺」



否定したいけど、本心を注いだ音がウソをつくはずはない。こんな醜くて身勝手な俺が本当の俺だ。


目を背けることすら許されない。


俺の中で、氷がいささか大きくなり過ぎてしまった。俺はもうどこでなにをしようとも氷しか浮かべられなくて、それは音にまで影響を及ぼしている。


………羽林は、こんな曲も消化できるだろうか。後でちょっと試してみよう。



「……きっしょ」



自嘲するように笑って、できた曲をドライブに保存する。


そのままパソコンの電源を落として、そろそろ寝よと思った瞬間。



「……ご主人様、入ってもいいですか?」



ひどくたどたどしい声が聞こえて、俺は目を丸くした。反射的に時計を見る。


深夜の3時だ。彼女が起きているはずがない時間なのに。



「ああ、いいよ」



返事をすると同時に門を開けると、枕を抱えたまま眠そうにしている氷が見える。


俺はぷふっと笑って、軽い口調で聞いた。



「どうしたの?夜這い?」

「……いきなり変なこと言わないでください」

「いい子は早めに寝なきゃダメだよ」

「じゃ、ご主人様は史上最強の悪い子ってことになりますね」

「別にいい子でいる必要もないから」

「悪い主人には、悪いメイドが付き添うものです」



しれっと答えた後、氷は俺を見上げながら言う。



「私と一緒に寝てください」

「……さては、怖い映画でも見たとか?」

「いえ。ただ、一緒に寝たくて」

「……言ってる意味分かってる?」

「……そんな意味じゃないです。ご主人様の、エッチ」



頭を抱えそうになる。


ついさっきまで、性欲と独占欲にまみれたサウンドを作り上げたのに、急に当人が表れて一緒に寝てくださいだなんて。


俺のことを試しているようにしか聞こえない。そして、氷を一度でも抱いてしまったら、俺はもう終わりだ。


氷を永遠に諦められなくて、意地汚い手を使ってまで、彼女をこの場に押しとどめようとするだろう。


俺はそれが、氷にとっていいことだとは思わない。



「今日はダメ、帰って」

「……………」

「そもそも、この時間に起きてるのもおかしいじゃん……今日の朝ごはんはスキップして、遅刻ギリギリまで寝てもいいよ」

「……私、眠れないです」

「どうして?」

「ご主人様のせいで」



………………………………え?



「なんで、そこで俺?」

「私、母親が入院してからは、ずっと一人で寝てました」

「………」

「寒い部屋でずっと、一人で寝てたんです。温もりもなく、抱きかかえられるなにかもないまま、ずっと一人で」

「……要するに?」

「私、抱き枕が欲しいです」



もはやメイドを通り越して、女の子としてあるまじきセリフを聞いて、俺はため息をつく。



「抱き枕が勝手に動いて、襲っちゃうかもしれないけど」

「そうなれば、大人しく襲われるしかありませんね」

「……氷、ダメ」



俺はつくづく実感する。


本当に、信じられないくらい、この子には警戒心がない。自分の体を大事にするという観念すらない。


そんな彼女の純粋さに付け込んで、ドロドロな欲望で染め上げたら、きっと気持ちいいだろう。想像もできないくらい気持ちいいはずだ。


だから、ダメだ。



「次一緒に寝たらさ、本気で襲っちゃうよ?」

「………………………」

「氷が嫌がろうがなんだろうが、力づくて無理やり汚すから。だから、そんな危険なことは言わないで。マジで……我慢できなくなるから」

「……………一つだけ聞いていいですか?」

「危険な質問じゃないなら」

「どうして、我慢するんですか?」



あからさまに危険な質問なのに、氷は平然と言葉を投げてくる。


俺は片手で自分の目元を押さえて、深いため息を零した後に言う。



「正直に言っていい?」

「はい、どうぞ」

「氷を抱いたら、氷を人間じゃなくて自分の所有物とかに思っちゃいそうで、怖い」

「………」

「氷って綺麗だし性格もいいから、きっと日差しの下で生きられる人間だよ。だけど、俺がもし暴走したら、俺はきっと氷の未来を奪ってしまう」

「そうなったら、私は閉じ込められるんですか?」

「たぶん。氷がいくら嫌がっても関係ないくらいに、徹底的に縛り付けると思う」

「…………………」



深夜テンションだからか、かなり恥ずかしいことを言ってしまった。


といっても、これくらい言わないとダメな気もした。近すぎる距離はかえって危ない。


俺は絆の耐久性を信じない。父親が息子を捨てることだってあり得るのに、赤の他人同士だったら?もっとおぼつかないに決まっている。


どんな関係にも終わりがある。俺と氷も、いつかは別れるだろう。


その最後の瞬間に、後悔を残したくはない。



「じゃ、おやすみ」

「……………ご主人様」

「だから、ダメって言って―――」

「キスしてください」



唐突な申し出に、背を向けようとした体がピタッと止まる。


氷を見つめ直すと、彼女は枕を抱えたまま目を閉じていた。信じられないほど綺麗だった。



「………」



……キスは、俺たちの間では一番べたなコミュニケーションだから。


おやすみのキスくらいは、いいだろう。俺は身をかがめて、軽くキスをする。


温もりも感じられないくらいに短くキスをして、体を離した。氷は不安そうに俺を見つめる。



「おやすみ」



でも、またキスをしたら今回は押し倒しそうだから。


俺は必死に欲望を押し込んで、部屋のドアを閉じた。

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