第46話  私のご主人様に伝える本気

冬風ふゆかぜ こおり



私は、私は怒っています。


……いえ、拗ねています。怒ってもいて、拗ねてもいます。どちらも正しいでしょう。


ご主人様が、私の気持ちをまるっきり否定しましたから。



『それに、氷はただ……寂しいだけだよ。誰かの温もりが欲しいから、たまに近くにいるのが俺だから、俺に縋りついているだけ。錯覚しているだけ』



それは呪いに近い言葉で、私のすべてを否定する発言でした。


確かに、そうかもしれません。


私がご主人様を求める理由は、ご主人様が私をどこまでも受け入れてくれるから。


都合のいい温もりをいとも容易く与えてくれるから、私が舞い上がって、想いが無駄に膨らんだのかもしれないでしょう。


だけど、根底に変わりはありません。


私がご主人様に縋りつく理由は、居場所を与えてもらったからじゃありませんから。


あの美空博美の一人息子だからでもなく、彼が天才作曲家だからでもありません。


お金がたくさんあるから、キスをしてくれるから、ハグをしてくれるから、都合のいい時に私を温めてくれるから。


全部合ってるけど、全部違います。あれはすべて破片でしかありません。私の想いの根底にはたどり着かない、脆くて弱々しい欠片でしかありません。


なら、強くて輝かしい欠片はなんなのか?


答えは、簡単です。笑顔です。



「………………氷?」

「………………」



ふとした瞬間に見せてくれる笑顔。白いクマさんを買ってくれた時に見せてくれた優しい笑顔。


キスをされたのに、仕方ないとばかりに苦笑いする笑顔。顔を寄せ合ったまま視線を交える時、ほんの少し口角を上げながら見つめてくれる笑顔。


それらが私の中の氷を溶かして、温もりを与えて、生きようとする意志に還元させてくれました。


その笑顔があったからこそ、私は自分より他人を大切にするという感覚を知りました。


怒っている今でも、拗ねている今でも、私はご主人様の代わりに死ねるでしょう。


ご主人様は私よりずっと大切な存在で、私より大きな存在です。これはバブルが膨れ上がるような空っぽの想いではありません。


ちゃんと密度があって、濃度があって、誰にも砕けなくて傷つけない、自分の中でしっかり固まった気持ちです。


これを否定されたら、私はかつてないくらいに激怒するでしょう。ちょうど、今のように。


私は、このイライラをどう解消すればいいか分かりません。



「…………………氷」

「………………」



週末だから、私たちは必然的に同じ空間にいることになります。洗い物をしている私の後ろで、ご主人様はずっと立っていました。


ずっと、私に何かを言おうとしていました。


私を尊重することしか頭のないこのお馬鹿さんは、きっと私の気持ちなんか理解していないのでしょう。


当たり前です。伝えたことがありませんから。ちゃんとした言葉で伝えた気持ちでもありませんから。


ご主人様は私の勝手な考えに気づけないのは当然であり、私にもある程度の非はあると思います。


だけど、許せません。


こんなにも強く、誰かに怒ったのは初めてかもしれません。



「ご主人様」

「うん?」

「私が、錯覚していると思いますか?」



私は振り返り、手についた水気を拭きながら淡々と聞きます。洗い物を終えたにも関わらず、ご主人様は動こうとしません。


その代わりに、ご主人様は乾いた唇を舐めながら言います。



「正直に言ってもいい?」

「はい、どうぞ」

「よく、分からない」



ご主人様は少しだけ俯いて、言葉を続けます。



「一晩中悩んだけど、分からない」

「…………」



私は、視線をそらしているご主人様に近寄りながら、手を上げて。


その胸倉を掴んで、引っ張ります。



「ちょっ―――ん!?」



一瞬だけ唇を重ねて、言って。



「女の子は」



重ねて、言って。



「嫌いな人に」



重ねて、言います。



「キスなんか、しない」



瞬く間に3回もキスをされたご主人様は、ただただ呆然と私を見つめていて。


私は、この状況になってもなおドキドキする心臓を抑えながら、強がります。



「何回言えば、分かるんですか?」

「…………」

「まあ、確かに他の女の人なら、嫌いな人にキスするかもしれないですね。世の中には色んな人がいますから。でも」



私は、もう一度ご主人様を引っ張りながら言います。



「冬風氷は、嫌いな人にキスしたりなんかしません」

「……………」

「……なにか?」



ご主人様はあわあわしながらも、かろうじて言葉を紡ぎました。



「……氷、こんな性格だっけ」

「私も驚いています。私ってこんな人間だったんですね」

「……氷、怖い」

「私を怖くさせたのは、ご主人様なのでは?」



仕返しにもう一度キスをすると、ご主人様はびくっとしながらも私を受け入れてくれました。


しかし、いつもみたいに抱きしめてくれないのが癪で、私はもっともっと強く唇を押し付けます。


そうやって荒々しいキスを終えると、熱と共に少しの不快感と物足りなさが残ります。



「………………」

「………………」



ご主人様は私から目を離して、私は穴が空くくらいご主人様を強く見つめます。


錯覚だなんて。勘違いだなんて。反吐が出そうなほど嫌いな言葉です。


そんなにも不愉快な響きを持った言葉は、消えてしまえばいいと思います。



「もう一度言いましょうか?もう耳にタコができたかと思いますが、ご主人様は耳が遠いらしいのでもう一度言ってもいいでしょう」

「………」

「冬風氷は、嫌いな人にキスなんか――――」

「もういい!」



そこで、ご主人様はようやく私と目を合わせてくれました。



「もう、いいよ。氷が俺のこと嫌いじゃないってこと、ちゃんと分かったから」

「……いえ、分かってません。バカなご主人様は少しも分かってません」

「え?」

「私が、ご主人様をどれだけ思っているのか」



私は、未だに胸倉を掴んでいる手をぶるぶる震わせながら言いました。



「その思いの丈を、あなたは少しも分かっていません。その一端すら見えていません。だから、平然と勘違いとか錯覚とか言えるのでしょう」

「…………それは、俺だって」

「ふうん、ご主人様は私のために死ねるんですか?」



その瞬間、なにかを言おうとしたご主人様の言葉がぴたりと止まり。


私は、変わらず鋭い目つきを放ちながら言います。



「私は、死ねます。あなたのためなら、潔く死ねます」

「…………」

「勘違いだと言いたいんですか?年頃の女の子ですから、こんな激情に流されるのは当たり前だと言いたいですか?バカなあなたなら、そう考えるのかもしれないでしょうね。確かに、私はちょっと極端なところがありますから、なおさらそう映るかもしれませんが」

「ちょっ、氷……」

「だけど、それが私です」



有無を言わさない勢いで、私はご主人様の言葉を遮ります。



「極端なのが、私です。極端だから自殺しようとしましたし、極端だからあなたのためなら死ねると言っています。それが冬風氷ですから」

「…………………………………」

「嫌になりましたか?こんなにも重くて厄介でめんどくさいメイド、家に引き入れるんじゃなかったと後悔していますか?それじゃ、命令すればいいです。今すぐこの家に出て行けと命令すれば、何もかも綺麗に解決します」

「俺にそんなことできないって、分かってるよね?」

「分かりませんね。だって、私が勘違いしているって言った人間ですから」



いつしか声には涙が含まれていて、ご主人様は沈んだ顔で私を見つめています。


最近の私は泣き虫で、めんどくさくて、情緒不安定な子供でしかありません。こんな私なんか大嫌いです。


そんな私を見ながら、ご主人様はなにを思っているのでしょうか。私のことが嫌いになったのでしょうか。


分かりません。頭がごっちゃになって、なにも考えられません。言ってはいけない言葉を口にしたという実感と悔しさだけが、強く残りました。


そして、ご主人様は言います。



「俺も、死ねるよ」

「………は?」

「死ぬ間際まで追い込まれたことはないけど、氷のためならたぶん、死ねるよ。なんとなく、死ねそうな気がする」



私の頭をさらにかき混ぜる、訳の分からない言葉を。



「氷も、俺が氷をどれだけ思っているのか知らないんでしょ?」

「…………………………」

「俺も知らないんだよ?氷を失ったことがないから、その喪失感を俺は知らない。だけど、氷が傍からいなくなったら俺は……廃人になりそうな予感はあるかな」

「…………廃人って」

「まともな人間としては生きられないってこと。これも思い込みかもしれないけど、俺は元がニヒルで空っぽな人間だから」



未だに目をそらしたまま、ご主人様は語り続けます。



「正直に言ってもいい?」

「………どうぞ」

「俺はさ、氷を独り占めしたいんだ」

「………………………………」

「どこにも行けなくなるようにして、永遠に………………俺の隣に、縛り付けたいと思っている」

「……左様ですか」

「でも、そんなの許されないじゃん?」

「………」



なんで許されないのでしょうか。


そうしてくれと一回だけでも言ってくれたら、私は進んであなたの物になるのに。



「氷にとってこの家と俺は、鳥かごのようなものだと思うんだ。氷はいくらでも羽ばたいて行けるのに、俺がその羽をもぎ取ったらいけないじゃん?いや、既にもう一度……もぎ取ったし」

「……モデルの話ですか?」

「………………」



色々と心当たりがあるのか、ご主人様は俯くだけでなにも話してはくれませんでした。


しかし、なるほど。そうですか。ご主人様はそんな風に私を思ってくれてたんですか。


だから、わざと勘違いというワードまで使って私を傷つけたんでしょうか。なるほど、理解はできます。


もちろん、納得は行きませんが。



「私の人生の正しさは、私が決めます」

「………え?」

「羽を伸ばして世の中を羽ばたくより、鳥かごの中で誰かと一緒にいる方が、私は幸せです」

「…………………」

「これも錯覚だとおっしゃるのなら、私は本気でこの家を出て知らない男の家に行きます。ご主人様が一番嫌うような行為、いっぱいしちゃいますから」

「………っ」

「そうならないように、私をきつく縛っておかなきゃいけませんね?」



私は、ご主人様に一歩近づきます。たった一歩なのですが、その一歩は互いの距離を完全になくす歩幅でした。


そんな状態で、私はご主人様を見上げます。


バカみたいに純粋な気持ちで私を見ていた、クソボケで鈍感で意気地なしで大嫌いなご主人様を。



「私を傷物にして、傍に縛り付けて、その独占欲を満たしてください。これは道具としての、メイドとしての言葉じゃありません。冬風氷の言葉です」

「……………」

「もちろん、いつかは私も世の中に出たいと思う時が来るでしょう。だけど、私がご主人様の物だという烙印は、永遠に消えません」



私の初めてのハグも、初めてのキスも、初めての異性も、全部全部…………全部、あなたで。


これから生まれるすべての初めても、あなたにあげたいと思っているから。



「ご主人様、私の目を見てください」

「………」

「私が、本当に、あなたの物になりたくないように見えますか?」

「…………………………氷」

「見えないでしょうね、当たり前です」



私はクスリと笑いながら、言葉を付け加えました。



「本気ですから」

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