第45話  俺のメイドとすれ違い

氷が懐の中にいる。


規則正しい寝息が聞こえて、女の子特有の香りが漂う。俺はよく眠れなくて、明け方からずっと氷を見つめていた。


氷は俺を離さなかった。


寝たらさすがに離れるんじゃないかと思って腕をほどこうとしたけど、その度に氷が俺に縋りついてきた。


こういう言い方はあれだけど、氷がペットのように思えてきて罪悪感が湧く。


俺は、苦笑しながら氷の髪を耳にかけた。



「んん……すぅ、すぅ……」

「…………」



欲望に流されて氷を傷つけたら、この平穏な日常が終わるから。


だから、俺はなるべく氷と距離を置こうとしてきた。いつしかキスやハグに、親愛とは別の意味がこもるようになったから。


そして、それはあまり氷に向けていい感情だとは思えなかった。


母親が死んで、居場所が無くなって、自殺寸前まで追い詰められていた女の子。


心から好きでもない男とキスをしてまで、温もりを貪ろうと足掻く少女。


そんな氷に、拒否権はない。俺が少し迫ったら、彼女は自分の立場を弁えて仕方なく、何もかも受け入れるはずだ。


そう、仕方なく。自分が望んだからじゃなくて仕方なく、氷はすべてを許すはずだ。


俺は、氷を人形にしたいわけじゃなかった。



「………ん、ぁ………」

「…………………」

「…………………え?」



氷の顔を何時間も見つめながら、そうやって考えをまとめていた時。


ふと氷の目が開かれて、綺麗な赤い瞳がはっきりと俺を捉えた。


氷は、驚愕したように俺を見つめた後―――一気に顔を赤らめる。



「あっ、こ、これ…………」

「…………おはよう」

「こ、これは……!!その……!!」

「…………」



俺が目の前にいてパニック状態になったのか、もしくは昨晩の記憶が蘇ったのか。


どうであれ、氷は珍しく口をパクパクさせながら、大いに慌てていた。


その姿がなんだか可愛くて、俺はついぷふっと笑ってしまう。



「とりあえず、ちょっとだけ離れてくれないかな」

「え……?は、はい……!」



優しく語り掛けると、氷はスプリングのように体を離してまたもや顔を赤くさせる。


すごい、氷も普通の女の子の反応をするんだ。


そう思いつつ、俺は上半身を起こした。


本当に、災難な夜だった。もう二度とこんな経験をしたくない…………わけではないけど。


俺は、少しの恨めしさを込めて氷を見つめる。



「昔から思ってたんだけど、氷はやっぱ無防備だよね」

「っ………!?」

「俺がどれだけ我慢したと思っ――――いや、今のなし……ごめん。ちょっと、あんまり寝られなくて、その………」



………氷が変な反応を見せたせいか、俺まで調子がバグってしまった。


相手を異性として意識するような言葉は、俺が言ってはいけない言葉だ。


主人の立場である以上、彼女がどんな風に受け止めるかが分からないから。


だけど、疲弊しきった精神と重い瞼のせいで、つい変なことを口走ってしまって。


ヤバい、幻滅されたらどうしよう……そう思ってた瞬間。



「……眠れなかったのですか?」



氷は、心配気な顔で俺に質問を投げてくる。



「……どっかの誰かさんのせいで」

「…………昨晩のことは、その」

「いいよ。俺も氷に酷いことしたし」



氷がなにを言いたいのかくらいは、手に取るように分かる。彼女はきっと、謝りたいのだろう。


甘えん坊な気質はあっても、彼女は元々優しい。


深夜にキスをしてきたその行為を、彼女がなんとも思わないはずがない。



「元はと言えば、俺が氷をあんな状況になるまで追い詰めたわけだし。責任はある程度、俺にもあるからね。ごめん」

「…………」

「もう二度と押し倒したりしないから、安心して。だから、今日の出来事はそのままなかったことにして――――」



なかったことにして欲しい、とまで言おうとした瞬間。


唇は簡単に塞がれてしまって、慣れた匂いを嗅いだ俺の心臓は、ドクンと重い音を鳴らす。


俺の目が見開かれるのに対して、氷の目はじっくり閉ざされていた。


頬を包む氷の両手も、唇の感触も、彼女の香りも柔らかすぎて、甘くて、顔に熱が上がってくる。


そのままベッドに押し倒され、氷は何度も俺の唇をついばんでからようやく、唇を離した。



「…………」

「…………」



互いの唇の間に、唾液でできた糸が切られた時。


氷は瞳を震わせながら、俺に言う。



「悪いのは全部、私です」

「…………」

「ご主人様はなにも悪くありません。ご主人様はいつだって優しくて、私を思ってくれたんですから………悪いのは全部、私でしたから」

「…………氷」

「……だから、いくらお仕置きをしてくれても、私は構いませんよ」

「―――――え?」



氷はさらに顔を近づけながら、言ってくる。



「私はご主人様の信頼を裏切って、命令に背いて、願いを台無しにしましたから。私は、許されてはいけない存在だと思います」

「ちょっ、氷……」

「今も、ほら。私………メイドなのにこんなにも近く、顔を寄せているじゃないですか」

「氷……!!」

「悪いメイドには、罰が必要だと思いませんか?」



反射的にまたキスしそうになって、俺は彼女の手首をぎゅっと握る。氷の体がびくっ手跳ねて、そのまま停止する。


息遣いが届きそうな距離で、互いを見つめ合う。


もし、今少しでも顔を上げたら距離は簡単に縮まって、なにもかもが終わってしまうだろう。正直に言って、もう限界だった。


欲情という言葉が俺の中にあったなんて、知らなかった。


このまま、また氷を押し倒して貪って、彼女を傷物にして永遠に自分だけのものにしてしまいたくなる。


氷は魅力的で、優しくて、綺麗すぎる存在だから。


こんな氷を俺は、誰にも渡したくないと強く思っている。



「…………お仕置きなんて、しないから」

「…………………」

「それに、氷はただ……寂しいだけだよ。誰かの温もりが欲しいから、たまに近くにいるのが俺だから、俺に縋りついているだけ。錯覚しているだけ」

「……………………え?」

「たぶん、勘違いだよ。俺がたまたま、極限状態にあった氷に居場所を与えたから心が揺らいでいるだけ。氷はもっと、自分の気持ちを大事にすべきだと思う」



でも、氷を汚したくない俺はそう言うしかなくて。


そして、俺の言葉を聞いていた氷はみるみるうちに、険悪な表情をして俺を見下ろす。



「……前に言ってなかったんでしたっけ。女の子は、嫌いな人にはキスしないって」

「……氷は、つかの間の熱が欲しいだけだよ」

「誰の熱でもいいわけじゃありません」

「それが俺に限定される必要もない」

「じゃ、私が他の人にこんなことをしてもいいってことですか?」

「そんなこと言ってるんじゃないって、氷は分かってるじゃん」



甘くて湿っていた雰囲気はどこかに散って、ぎちぎちに固まった空気と視線だけがまじりあう。


俺は催眠をかけるように、何度も自分に言い聞かせる。氷は勘違いをしているだけだと。氷は、揺らいでいるだけだと。


しかし、氷は俺の頬を包む手を離して、拳を握って。


コン、と俺の胸板を叩きながら言った。



「…………嫌い」

「…………」

「ご主人様なんて、大嫌いです。大嫌い。本当に……大嫌い」

「…………」



何度も、何度も氷は俺の胸板を叩く。氷はもう目じりに涙まで浮かばせて、激しく唇を震わせながら言う。



「っ……くぅ………ふぅ………」

「……………」

「………ふぅ、ふぅ」



しばらく俯いていた彼女は、ようやく息を整えてから言う。



「なら、せいぜい耐えてみてください」

「……は?」

「私を否定するご主人様に、義理を守る必要はないのでは?」

「……ちょっ、氷」



慌てて俺が起き上がろうとした時。


氷は、俺の頬を再び両手で包みながら言う。



「もう、私の好き勝手に暴れさせて頂きますから」

「………」

「キス禁止とか、ハグ禁止とか、私にはもう通用しませんから。ご主人様が、私に命令しない限り」

「……言ってることがごっちゃになってるじゃん。氷、もう少し落ち着いて話を―――」

「落ち着けません。私、否定されましたから」

「……………」



俺は言葉を紡げなくて、ただただ氷を見つめる。


彼女だって分かっているはずだ。主人とメイドという俺たちの立場は変わらなくて、当然彼女に暴れる権利などない。


キスも、ハグも、俺に控えて欲しいと言われたら彼女は自ら身を引くべきだ。それはメイドとしてだけじゃなく、同じ人間として守るべきマナーでもある。


明らかに、理性が働いていない。こんな風に意地になった氷を見たいわけじゃなかった。



「考えてみてください、ご主人様」



俺がなにかを言いかけようとした時、彼女は恨めしさがたっぷり込められている口調で言う。



「相手にキスをするほどの気持ちが否定されたら、その気持ちをなにで証明すればいいのか。ご主人様は天才だから、すぐに答えを出せますよね?」



呪いでもかけるような勢いで言い終わった後、氷は再びキスをしてくる。


俺たちが前にしたような、柔らかくて心地の良いキスじゃなかった。暴力的で、雑で、ただの怒りをぶつけるような荒々しいキス。


いつしか氷の勢いに呑まれた俺が、ただ呆けていると。



「……………嫌い、です」



氷はさらに涙を膨らませて、もう一度俺の胸板を叩いてきた。

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