第44話 私のご主人様と一週間もキスができなくなって
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あれから三日が経ちました。
ご主人様に物理的に距離を置こうと言われた時から、三日。ご主人様の願いは叶えられていて、私はご主人様の指一本触れられていません。
キスをしなくなってからは、ほとんど一週間が経っています。この家に来てからこんなにも長い間キスをしなかったのは初めてで、私は静かに狂っていきました。
「……………………」
深夜の3時。
喉が渇いて起き上がって、水を飲んで、ふとご主人様の部屋のドアをちらつくくらいには狂っていました。
「………………………」
距離を置こうと言われた時、私が反射的に出した答えは否定でした。
それはきっと理性ではなく本性が出している答えで、言ってはいけない言葉だと思います。メイドとしてあるまじき言動でした。
……でも、禁忌を破るのがもはや習慣になった私は、当たり前のようにありもしない権利を主張し。
そんな私の我儘を、ご主人様は平然と受け入れながらも言うのです。
『お願い、氷』
『…………え?』
『氷のことが嫌いになったんじゃないんだ。でも………本当に、しばらくは距離を置きたいから』
お願いなんて、主人が言っていい言葉ではないと思います。
簡単に命令すれば解決するというのに、あの人は一度も楽な選択をしてはくれません。
いつも私の立場を考えて、私の感情を優先して、私の都合のいいようにしか動いてくれない人。
考えれば考えるほど、イライラが溜まります。心の中に熱が集まります。衝動が湧きます。
どう考えても、悪いのはご主人様です。
「…………ふぅ」
私は短く息をついて、ご主人様の部屋に向かいました。
ノックをするべきか迷いましたが、私は覚悟を決めてそのまま、ドアのノブを回します。
音もなく開かれるドア。部屋は当然真っ暗で、遮光カーテンが閉められていて目の前がよく見えません。
それでも、匂いはちゃんと感じられて。静かで規則正しい息遣いは鮮明で。
私は引きつられるようにベッドの近くまで行って、膝をつきました。
「すぅ……すぅ………」
「……………」
暗闇に慣れた視界は、段々と主人の輪郭を浮き彫りにさせます。
どういう運命のいたずらなのか、ご主人様は横向きに寝ていました。
ちょうど私の前にご主人様の顔があって、完全には見えなくてもすごく平穏な顔をしているのが分かります。
最近のご主人様の目は、平穏ではなかったような気がします。
私を見る目には、いつしか親愛以外の複雑なものが混じっていました。
唇を重ねるたびに、私を抱きしめる腕の力も少し強くなっていました。近くで視線を合わせていた時は、微かに瞳を揺らしていました。
どの反応も、私が抱いている動揺の大きさに比べればちっぽけなものに過ぎません。
それでも、ご主人様に変化が生じたのは間違いなくて、私はそれが嬉しいです。
「…………」
私は静かに、震える手でご主人様の前髪を梳きます。
息遣いが止まることはなくて、柔らかい髪の毛に触れるたびにどんどん、鼓動が早くなっていきます。欲望が叫びます。
襲っちゃえ、と。
一週間もお預けをした悪い主人の上に乗っかって、仕返しをしろと。抱いている熱量を存分に解き放てと、最低最悪の心は叫びます。
もちろん、私はそれが悪い行動だと分かっています。しかし、それが理にかなっているように思える自分がいて、嫌になります。
それもこれも、キスをしてなかったせいです。
離れすぎた距離は、不安ともどかしさしか与えてくれませんでした。
私にはご主人様が必要で、体温が必要です。
溶けてなくなってしまったとしても、ぎちぎちに固まった心のまま生きることはできません。
「……………」
「すぅ………」
「……………」
私は最悪なメイドで、最悪な人間です。
主人の命令に背き、救ってくれた人の願いを裏切っていますから。
「………ちゅっ」
しかし、一週間も煮詰められていた私はキスしか考えられなくて、当たり前のように瞳を閉じて、顔を傾けて唇を押し付けます。
愛おしい息遣いを放っている唇を5秒くらい塞いで、弱く吸って、離れます。
圧倒的な物足りなさが、全身を支配しました。
「………ご主人様」
「…………」
「………眠っていますよね?」
「……すぅ、すぅ……」
「…………」
私は、ご主人様の前髪をもう一度梳いてから言います。
「そのまま、眠っていてください」
唇同士がまた触れて、心臓が溶けると錯覚するくらいの甘さが広がります。
私は、ご主人様のベッドのシーツを握りしめて、ずっと唇を塞いでいました。
起きないでください。夢から覚めないでください。心の中で何度も願いながら、貪欲に唇を堪能していきました。
頭は真っ白で、時間の感覚が曖昧です。理由の分からない涙も出てきて、私は一人で勝手に暴走していました。
気持ち悪くて恩知らずの女。はしたなくて、快楽に簡単に振り回されるもろい人間。
それでも、許して欲しいと思いました。だって、ご主人様はこんな私を何回も、何十回も受け入れて来ましたから。
――――でも、今回はそう簡単には行きませんでした。
「ちゅっ、ちゅ…………ん、んん!?きゃあっ!?」
唇を吸うのに夢中になっていたその時。
私は突然腕を引っ張られて、強制的にベッドの上に上がらせられました。そんな状態で押し倒され、あっという間に制圧されてしまいます。
ご主人様の手は私の手首を固定していて、動くことができません。瞬く間に変化した状況に、頭が追い付かず身震いをしていた時。
「氷」
「………」
「言ったよね。しばらくは距離を置いて欲しいって」
ご主人様は、普段の何倍も冷たい口調で言いました。
「なのに、なんで襲ってきたの?」
「…………………………」
「それも、人が寝ている夜中に。なんで?」
返す言葉なんて、あるはずもありません。
悪いのは当然私で、私はご主人様の信頼と期待をすべて裏切りました。瞬時の快楽に負けたのは他ならぬ自分で、口が百個あっても返事ができるわけがありません。
従って沈黙していると、ご主人様は顔を近づけながら言いました。
「氷。なんでなにも言わないの?」
「…………」
「……無理やり押し倒されているんだよ?悲鳴でも上げるべきじゃない?」
息が詰まります。
ご主人様の匂いが濃くなって、狂ってしまいそうになります。私は身じろぎをしてもご主人様は私を離してはくれなくて、涙はどんどん滲んで唇は激しく震えます。
嫌でなければいけないのに、少しも嫌にはなりません。私はどうにかなってしまったようです。
こんな状況でもなお、この人は私の立場を考えてくれています。私を先に……心配しています。
嫌なキスをされて怒っていたはずなのに。なのに……。
この人は、本当に…………。
「………………っ」
「……え?」
「あ、ぅっ………ぐすっ、あ、いや、ちがっ……!」
「……っ!!」
「あ、いやっ!!」
感情がぐちゃぐちゃになって、鳴き声を上げたその瞬間。
ご主人様はただちに手首を離して、身を引いてベッドから降りようとしました。
しかし、それよりも早く私はご主人様に抱き着いて、懐に顔を埋めます。
「いや、離れないで……お願い。お願いします。離れないで………!!」
「………こお、り?」
「後で謝りますから!いくらでも、謝罪しますから……お仕置きされますから。だから、今は、離れないで…………離れちゃ、いやっ………」
「…………」
張りつめていたご主人様の体からは力が抜け、雰囲気も少しずつ和んでいきます。
私は何が何だか分からなくなって、確かに存在する温もりにだけ縋りつきます。
今抱き着いているこの熱だけが私のすべてで、それを感じるたびに涙が出てきます。
厄介で、めんどくさくて、醜い女だと思います。
なんで涙が出てくるのかも分かりません。嬉しさなのか、怖さなのか、はたまたどっちもなのか。
それでも確かなのは、私はご主人様が嫌いじゃないってことであり。
そして、ご主人様は――――
「…………ぁ」
暖かく、私を抱き返しながら背中をさすってくれました。
「………氷」
「………」
「氷」
「……はい」
「ここにいるよ」
それを聞いたとたん、また涙が溢れてきて。
私は更にぎゅっと、ご主人様を抱きしめながら言います。
「……ご主人様」
「うん」
「ご主人、様」
「うん」
「………ご主人さまぁ」
こんな自分なんて、好きになりません。
子供っぽくて、愛情に飢えていて、我儘ばかり言う醜い私など消えた方がいいと思います。
私は、私の中にこんな身勝手な自分がいることが許せません。この状況は相手がご主人様だからこそ許されることであり、私自身が正しい人間だとは思えないです。
「氷」
「はい」
「……今日は、一緒に寝る?なにもしないから」
「………………………………」
それでも、私を甘やかすことに天才的な私の主人は。
いつだって、私のすべてを受け入れて、私にいいものだけを与えてくれます。
「……ずっと」
「うん?」
「抱きしめて、欲しい……です」
私の願いに、ご主人様は困ったような声色で言いました。
「………頑張ってみる」
「………」
そして、その夜。
私は、今までにないくらい深く眠りにつくことができました。
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