第38話 私はご主人様に利用されたいです
<
「…………ふぅ」
……最悪な気分です。
死んだ方がいいかもしれません。いえ、はっきり言って死にたいです。何をしていたのでしょう、私は。
シーツと布団と枕のカバーを洗濯機に放り込んで、マットレスに自分の髪の毛が落ちていないかまで確認した私は、深いため息を零します。
洗濯機が回っている音だけが聞こえる家で、私は一人ぼっちです。
自分がしでかしたことのせいで、ご主人様に会いたいと言う気持ちが少しは薄れた、と喜んだ方がいいのでしょうか。
「……………まずいですね、これは」
ご主人様を思いながら、あのようなことをするなんて。
これは線を越えていると思います。キスとは次元が違うものです。
あの行為は、私がご主人様を異性として見ていることを意味して、確かな好意がないと絶対にできないことです。
私は……そう。もう染め上げられたのです。
段々と、自分が知っている自分ではなくなっていきます。なんで私はこうなったのでしょう。
「……夕飯は、簡単なものにしましょうか」
どうせ私一人で食べる食事ですし、そこまで手間をかける必要もないでしょう。
そう思ってソファーから立ち上がったところで、私は。
耳に聞こえてくる電子音を聞いて、その場で立ち止まりました。
「………え?」
目を見開いて振り向くと、ご主人様が家に入ってくる姿が目に映りました。
ご主人様は私を見るなり顔を綻ばせて、その優しい声を伝えてきます。
「ただいま」
「…………」
あらゆる感情が波のように打ち寄せてきて、とっさにそれらしい言葉が出てきません。
それでも、私はかろうじて口を開きました。
「……おかえりなさいませ」
「うん」
ご主人様はさっそくトイレで手と足を洗ってから、ご自分の部屋に戻りました。
そして、持っていたカバンを下ろしてすぐ私を見つめてきます。
「あれ、もしかして布団洗濯してる?」
「あっ……そ、そうですね。はい……」
「うん?先週に洗濯してなかったっけ」
「よ、汚れが!汚れがついていたので。それで、仕方なく……」
「シーツも取り換えられてるし、枕のカバーまで……あ、もしかして何か零したの?それなら気安く言ってくれればいいのに」
「そ、そうではなくて……いえ、そうです。間違って、ドリンクを、零してしまって……」
「ふうん、そっか」
………心臓が抜け落ちるかと思いました。
私は自分が思っていた以上に白を切るのが下手ならしく、声は震えるばかりで平静を取り戻すことができません。
それでも、ご主人様は特に気にせずに私に近づいてきます。
立ったままじっとしていると、ご主人様はちょっと言いにくそうに目を逸らしました。
「……どうか、なさいましたか?」
「あ……えっとさ」
そして、少しばかり顔を赤らませて私と目を合わせます。
「キス、してもいい?」
「………………はい?」
「なんか、えっと……理由があってね。キスをしなきゃいけない理由があって……氷が嫌ならもちろんできないけど、予め許可はもらっておきたくて」
「…………キスをしなきゃいけない理由なんて、なんでしょうか」
「それがちょっと言いづらいというか……とにかく、どうかな?」
私はただポカンと口を開いていて、ご主人様は困ったような顔を浮かべるだけでした。
なんで、私はご主人様からキスを頼まれているのでしょう。理由が全く分かりません。状況に頭が追い付きません。
分からないけど、嫌な気分はしなくて。むしろ心が勝手に弾けて。
こんな唐突な願いでメロメロになっちゃう私も、大概チョロいと思います。
「…………」
「あれ、氷?」
「…………」
「…………」
私は両手を自分の背中に回して、瞳を閉じました。
初めては戸惑っていたご主人様もすぐにその行動の意味を察して、私の肩に片手を置いてくれます。
ビクン、と跳ねるその反応が可愛いと言わんばかりに笑ってから、ご主人様は私の唇を優しく包みます。その愛らしい唇で。
「……ちゅっ」
自分から出した鮮明なキスの声に、逃げてしまいたくなります。
ご主人様からキスをされたことがあんまりないからか、普段より鼓動が早い気がしました。
「……………」
「……………」
でも、その緊張をほぐすようにご主人様に優しく抱きしめてもらえると、緊張は一気に喜び書き換えられます。
背筋がぞくぞくして、体の奥から暖かいものがじわっと広がるような感覚。心地よさと快楽が同時に打ち寄せてくる感覚。
私はご主人様の背中に両手を回して、抱きしめ合ったまま、優しいキスを繰り返しました。
おかしいと思います。
自分の異常なくらい敏感な反応も、ご主人様が急にキスしてくる理由も、自然と抱き合っている行動も、説明ができません。
それはただの流れで、人為的な何かで止めなきゃずっと続きそうな甘い猛毒でした。
段々と理性は蕩け、私は衝動だけの動物になっていきます。
午後にあんなことがあったというのに凝りもせず、私はご主人様に強く抱きつきました。
自然とご主人様の体は柔らかいソファーに倒され、私は覆いかぶさるようにしてずっと唇を貪り続けます。
「……こお、り……」
「ぁ………………っ!?」
息ができなくて苦しかったのでしょうか。
ご主人様は私の肩を少しだけ力を入れて、私はハッと理性を取り戻してすぐに顔を離しました。
ご主人様は、少しだけ目を震わせながら私を見上げます。
「…………………………そっか」
「………はい?」
「あはっ、やっぱりそっか………ははっ」
………どういう、ことでしょう。
私が戸惑っていると、ご主人様は私の髪を耳にかけてから申し訳なさそうな顔を浮かべました。
「さっき、キスをした理由だけどさ」
「はい」
「あれ、音楽のためだったんだ」
「………………………え?」
甘くてしっとりとした雰囲気は散ってしまい、私は反射的に眉根をひそめてしまいます。
何を言っているのでしょう、この人は。
「前に、羽林に曲の依頼を受けたじゃん?ちょっと繊細なラブソングを頼まれて、それでけっこう難航してたんだ。俺のスタイルからけっこう離れてるし、俺にはそろそろ誰かに恋をした経験もないからさ」
「…………………………」
経験、ないんだ。そっか、ご主人様は誰とも付き合ったことがないのですか。
…………ふうん。
「それで、結局私にキスをした理由って、恋をするためだったんですか?」
「いや、俺みたいな人間に恋ができそうにはないかな」
「…………………………なら、なんで私にキスしたのですか?」
私の質問に、ご主人様はやや悩んでから言いました。
「疑似的には、できると思ったから」
「……………え?」
「ラブソングを書くための経験というか。感覚みたいなものを、氷からは感じられると思って」
「…………………………………」
「……だから、ごめんね。氷のこと、勝手に利用してしまって」
私からはなにかを感じられる。
その言葉が頭の中で響いて、思考がそのまま止まってしまいます。なにも考えられなくて、目は大きく見開かれて、唇が激しく震えました。
今までたった一度も感じたことのない高揚感が、じみじみと体中に広がります。
「……羽林さん、からは?」
「うん?」
「私に何かを感じられるってことは……羽林さんからも感じられるのでは?」
自分が何を言っているのかもよく理解できずに、ただただ衝動だけで口走った言葉。私がどれだけ彼女を意識しているのかを表す言葉。
それに対して、ご主人様は目を丸くするだけでした。
「うん?なんでここで羽林?」
「…………………」
「………えっと、こういうこと言うのちょっとくさいし、柄でもないし、氷に気色悪いと思われるかもしれないけど。純粋な意味でね?異性的な好意とかそんなものじゃなくて、あくまで純粋な意味で……氷にしか感じられない何かが、ちゃんとあるというか。自分でも、それがなんなのかよく分からないけど」
「………それって、私のことが特別ということですか?」
「…………………………」
ご主人様はしばらく間を置いてから、私の髪をもう一度耳にかけました。
そして、言います。私を救ってくれたあの時のような、温もりしかない声色で。
「そうだね。氷が……特別かもしれない。俺にとって」
「……………………………………………」
「………ごめん、俺もちょっとなに言ってんのかよく分かんないや。ただ、これは感覚で――――」
「いいじゃないですか」
とても言葉では表現できない複雑な感情を精いっぱい押し殺して、私は平静を装いました。
「こんな時代に主従関係なんて、特別と言えば特別でしょう。ご主人様がそのような気持ちを抱くことは、当たり前だと思います」
「……氷?」
「だから、存分に利用してください」
………………ああ、ダメ。
ダメ、ダメなのに。本当に、ちゃんとしなきゃなのに、心が勝手に蕩けてしまいます。
彼の顔が目の前にいて、特別と言われて、キスをされて、妬いている相手よりも自分を意識してくれていて。
もう、なにがなんだか分からなくなります。死んでも、そう。このまま死んでもいい気分。本当に、今まで一度も感じたことのない幸せ。
……この人は、そういう類のものしか私に与えてくれません。
「私は、あなたの所有物ですから。音楽のためでもなんでも、私をいいように使えばいいじゃないですか。それがメイドの仕事ですし………私はあなただけの、メイドですから」
「……………………」
「罪悪感を抱く必要などありません。好きなようにお使いください。それが……私の義務、ですから」
……ウソつき。
義務だなんて、思ってもいないくせに。これからもご主人様に利用されたいという気持ちでいっぱいなくせに。
なのに、その気持ちを義務と名付けてしまうなんて。
本当に臆病で、チョロくて、最悪で、惨めな女。
でも、いいの。どれだけ悪い女でもいいの、私。
この人が私を見てくれてるなら、いくらでも。
「……………」
「……………」
また、いつものようにお互いを見つめ合う時間が過ぎて。
また、私たちは当たり前のように唇を重ねます。ご主人様の頬に手を添えて、私は優しくご主人様の唇を奪って、包んで、段々と貪っていきます。
当たり前のようにご主人様の腕は私の背中に回されて、体は密着されます。
どうやら私は、彼の前ではどうしようもなく、女の子になってしまうみたいです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます