第39話  俺のメイドを通じて気づいたこと

美空みそら なお



愛とはなんなのか。


それについて深く考えたことはない。そもそも、俺の人生は昔から音楽だったのだ。


学校ではずっと浮いていたから友達もなかったし、誰かと恋愛をしてみたいという気持ちもなかった。


というか、恋愛なんかしなくてもいいとさえ思っていた。俺には音楽があるし、音符の世界に流されていれば面倒なことは全部忘れられるから。


でも、今の俺は違う。


今の俺は、人に恋をするという感情がなんなのかをちゃんと痛感したいと思っている。



「………こういうことでドキドキするんだ、へぇ」



だからか、俺は全く俺らしくないことをしている。


少女漫画の電子書籍を読むのはその一環で、なんとなく、恋愛はこういう類の書籍で学んだ方がいいんじゃないかと思ったわけだが。


でも、いざ見てみたら内容がかなり気恥ずかしくて、手足が縮こまりそうになる。


壁ドン、言い合い、傘、料理……色々なシチュエーションがあって、キャラの心理も丁寧に描かれてはいるけど、これは……



「やっぱ違うな……俺たちとは」



自然とそんな声が漏れてしまう。そう、俺と氷とはちょっと雰囲気が違うのだ。


主従関係という特徴のせいか、単にキスをし過ぎたせいか。


分からないけど、こういったじれったい感覚は俺と氷の間ではないものだった。


羽林が求めているものは繊細でじれったい雰囲気。そこに俺のサウンドをかぶせて欲しいということだけど……うん。



「……聞いてみるか」



……やっぱり、一人でどれだけ悩んでもらちが明かないだろう、俺は立ち上がって、さっそくリビングに向かった。


ソファーに座って映画を見ていた氷は、そのくりくりとした赤い目をすぐ俺に向けてくる。



「どうかされましたか?ご主人様」

「えっとね、氷にちょっと見てもらいたいものがあるけど」

「……私に?」

「うん、それを見て感想を言って欲しいんだ」

「………………………………」



……なんでそんな疑うような目をするんだろう。怪しげな表情をしつつも、氷は軽いメイド服の姿のまま立ち上がった。



「……分かりました。拝見します」



氷は俺の部屋に入ってモニターを見るなり、眉根をひそめて俺を見上げる。俺は肩をすくめて見せた。



「どうしたの?」

「……それはこっちのセリフです。少女漫画じゃありませんか、これ」

「ああ、そうだね。氷はこういうの読む派?」

「いえ、あまり読んだことはありませんが……ていうか、どうして急に少女漫画を?」

「恋が何なのかをもっと詳しく知りたくて」

「………………はぁ」



そこでため息をつかないで欲しい。さすがに傷つくから。



「まあ、ご主人様がおかしいのは今日始まったことではありませんから、よしとしましょう」

「おい」

「ふふっ、では読んでいきましょうか」



俺の隣にある丸椅子に座って、氷は茶目っ気が含まれた笑顔を見せる。


……昨日のキスの後、氷はずいぶんと態度が変わった気がする。もちろん、悪い方向で変わったわけではない。


目つきと口調がだいぶ緩く、楽になった感じがした。寒々しい冬の日差しのように、少しは俺に気を許してくれるようになった。



「………」

「………」



氷は、瞬きもせずに集中しながら漫画を読んで行く。マウスを持っているせいで自然と互いの顔の距離が近く、氷の香りが鼻孔をくすぐる。自然と目が行った。


綺麗な横顔。香りの種類までは分からないけど、うっすらと漂う花の匂い。


彼女によく似合う香りだなと思っていると、氷はふとこちらを見てくる。



「……どうかしましたか?」

「うん?なんで?」

「こちらをジッと見つめていましたから」

「……ああ」



心なしか、氷の顔には少し赤みが差しているように見える。俺は首を振りながら答える。



「ううん、なんでもないよ。ただ……」

「ただ?」

「近いなと、思っただけ」



その言葉に肩をびくっとさせた後、氷は沈んだ顔になる。わけが分からなくて目を丸くしていると、氷は段々と体を離していった。


えっ、なんで離れるんだと思った瞬間、俺は自分がさっき何を言ったのかを察する。


だから、反射的に余計な言葉を付け加えてしまった。



「その、嫌じゃないから。近いの」

「………え?」

「あ、その……」



次に浮かぶ驚いた顔を見て、俺はどう返事すればいいか分からなくなる。ていうか、なにを焦ってるんだ。


離れても別にいいじゃないか。俺と氷は常時くっついている必要なんてないし、近すぎる距離はかえって不快に思われるかもしれないのに。


なのに、氷の……悲しむような顔を見た途端に、俺はある衝動に駆られてしまった。氷と近くにいたいという、衝動が。



「………」

「………氷?」



氷は未だに目を見開いて、俺を見つめている。


ルビーの輝きを埋め込んだような瞳は、真っすぐ俺に注がれて離れる気配がしない。


整頓された沈黙が横たわり、俺たちは互いを見つめ合う。


これは、キスをする前の静けさに似ている。


経験則によって心構えをしていると、氷は顔を綻ばせながら言う。



「左様ですか。なら、お隣失礼いたします」

「あ……うん」



丸椅子を俺の椅子にもっとくっつけて、さっきより体の距離をもっと縮めたまま、氷は再びマウスを手に取る。


黒と白しかない画面でも、キャラたちが持っている感情にはちゃんとした色がある。


温もりとときめきに似た色を少しずつ辿っていくと、主人公とヒロインが手を繋ぐシーンが出てくる。


帰り道、橙色に染まった空と似たような温度の感情を持って、作中の二人は手を繋ぐ。


少女漫画を読んだことはないけど、思ってた以上に描写も繊細だなと感じた、その瞬間。


ちゅっ、と。


視界がなにかに遮られ、唇には柔らかな感触が生まれる。



「…………」

「…………ちゅっ」



ほんの触れ合うだけのキス。


それをもう一回続けてから、氷は顔を離して平然とした表情のまま、再び丸椅子に腰かけた。


突然襲ってきた感覚に俺は固まるしかなくて、目の前には手を繋いで恥ずかしがっているキャラたちがいる。


横を振り向くと、さっきより赤くなった氷の顔が目に映った。



「氷、今―――」



なにかを言おうとしたところで、氷は急に人差し指を上げて、俺の唇にくっつけてくる。


無駄な言葉を遮断するような仕草に、俺は自然と言葉を押し殺す。静かになったのを確認した後、氷は指を離して再びキスをしてきた。


立ち上がって、俺の頬を両手で包んで、大切なものに触れるかのような繊細なキス。


それを感じて、目をつぶっている氷を見て、俺は悟る。



「…………」

「…………」



再び唇が離れると、俺は頬に添えられている氷の手に自分の手を重ねながら言う。



「見つけたかも」

「なにをですか?」

「ラブソングに必要な要素」

「それは、なんだったんですか?」

「……………」



これだ。


これがたぶん、人々が言うじれじれで、俺が今まで抱いたことのない感情の総体そうたいだ。俺と言う人間に欠けていた部分だ。


震える唇を無理やり動かしながら、俺は言葉を紡ぐ。



「ごめん。それは……言えないかな」

「……どうしてですか?」

「……嫌われたくないから」

「ふうん」



氷は目を細めながら、若干恨むような目でじっと俺を見据えてくる。答えを聞きたかったという気持ちがありありと伝わってきた。


でも、やっぱり言えなかった。


俺に欠けていた部分はたぶん、氷でしか埋められないところだ。氷がなかったら俺は間違いなく枯れて、人間に戻れず音楽人形になってしまうだろう。


こんな思いを本人に伝えるなんて、重すぎて引かれるに違いない。


だから、本人に言うつもりはなかった。これはきっと、心の奥に収めなければいけない類のものだから。



「ご主人様」

「うん」

「私は嫌いな相手にキスなどしません」

「…………そっか」

「……嫌いになる予定の相手にも、キスなんかしませんから」

「…………」



どうしてここまで信頼されているんだろう。


俺は歪な人間なのに。俺と氷を繋ぐ糸なんて、母親たちの病室で交わした数少ない会話がすべてだ。


どうして?単に、俺が氷にお金と居場所を与えているから?


その説も合っているような気がする。というか、そんな現実的な理由じゃなきゃ氷の行動に説明がつかない。


でも、正直、どうでもよかった。



「…………」

「…………」



キスの感触は、無駄な考えから抜け出せる逃げ道となる。氷の香りと長いまつげと、指先が少し震えている反応と唇の温もりは、気持ちよさを生み出す。


氷の言った通りだ。俺だって、嫌いな相手にキスなんかしない。


そして、俺はきっと氷を嫌いになれないだろう。そんな不躾な感情を人生に突き込みたくはない。


俺は、たぶん。


氷とずっと一緒にいたいと、願っているのかもしれない。

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