第36話  私のご主人様のベッドの上で

<冬風 氷>



週末はいつだって退屈です。


嫌な視線に晒されずに済む、といういいとこもありますが、私は週末があまり好きじゃありません。特にやることがないからです。


掃除と洗濯は毎日のようにこまめにやっていますし、ご主人様のために弁当を作る必要もないので、自由時間がとても長くなるのです。


そして今日、私の気持ちは灰色の雲がかかったように沈んでいます。


理由は簡単です。この家に、ご主人様がいないからです。



『羽林と直接会って作業することになったから、週末は一人で楽にしてていいよ』

『…………………はい?』

『うん?どうしたの?』



昨日の夕飯の時にしれっと、本当に当たり前のようにその事実を告げたご主人様。


彼は、私の反応に目を丸くさせていました。



『……なら、いつ帰られるんですか?』

『うん~~そうだね。約束時間が午後の2時だし、たぶん夜まではずっとそこにいるんじゃないかな。進捗がなかったら泊まり込みで作業するかもしれないし。あ、その時はちゃんと連絡するから、安心して?』

『………………』



どうやって安心しろというのでしょうか、この人は。


分かっております。私にはご主人様の行動を縛る権利などありません。でも、平気に泊まり込みという言葉を口にするあの人を、恨めずにはいられません。


私は、嫉妬しているんだと思います。


私とは何もかもが違う、明るくて可愛くて、才能あふれるアーティストとご主人様が一緒にいるのが、私はきっと嫌なのでしょう。



「…………………………」



そして、ご主人様が羽林さんを会いに行った今、私はこの広い家で一人取り残されています。


テレビで流れるドラマをいくら見ても集中はできず、私はふうとため息をつきました。



「………ウソつき」



前に私は言いました。私をこの家で、一人にしないでくださいと。あの時のご主人様は私をより強く抱きしめることで、身勝手な願望を肯定してくれました。


でも、今の私は一人です。長すぎる自由時間はどんよりとした気持ちしか与えてくれなくて、私はどんどん沼に堕ちていく気がしました。


乾いた心が、醜い色で段々と湿って行きます。ネガティブな思いが次々と浮かんで、そういう自分自身が大嫌いになります。



「……ウソつき、ウソつき」



懐にある白いクマさんをぎゅっと抱きしめてみても、寂しさは埋められません。


私は……私は、テレビの電源を消して深い息をついた後に、ご主人様の部屋に向かいました。


いつもご主人様が引きこもっている作業室に入って、椅子に座ります。いつもご主人様が使っている椅子に、もたれかかります。


換気のためか珍しく窓は開けられていて、グレーの遮光カーテンが肌寒い風で揺られていました。


窓を閉じてカーテンを閉めると、暗闇が訪れます。ご主人様をより濃く感じられる静寂が横たわります。



「………………………」



今の私は、主人の帰りを待つ飼い猫に近いと思います。


そして、他の飼い猫たちと同じように、ご主人様がいないと私は何もできずに、死んでしまうでしょう。



「…………………………バカ」



徐々に、私の部屋の匂いとは違う独特な香りが、部屋中を満たしていきます。


これはディフューザーの香りで、この香りとご主人様の体臭が混ざっているこの空間は、私にあるイメージを連想させます。


暗い部屋、間接照明だけを付けながら作業に没頭しているご主人様の後姿。


机に何本も並べられているエナジードリンクと、スピーカーから流れ出てくる複雑な音。


そして……朝になったら必ずあくびをして眠気にさいなまれながらも、私に微笑みかけてくれる表情。



「…………」



私は、クマさんを椅子に置いてご主人様のベッドに上がります。ふかふかな白い布団を被って、枕に頭を置いて、大きく息を吸ってみます。



「すぅ………はぁ……」



……ご主人様の匂いです。


こんなの、おかしいと思います。私はなにをしているのでしょう。なんでこんなバカげたことをしているのでしょうか。


自分にそう問い詰めるも、体は思い通りに動いてはくれません。心に空いた穴は新しい刺激を欲して、どんどん自分を理不尽な人間にさせます。


私は、バカだと思います。



「すぅ……ふぅ、すぅ………はぁ………」



体は熱くなっていき、何度も交わしたキスの感覚が蘇ってきます。


少し湿っていて、エナドリの味がして、それでも暖かくて、包むような優しさを伝えてくれるあの唇が。


少し蕩けながらも私を真っすぐ見つめてくれる瞳や、長いまつ毛や、キスを終えた後に見せてくれる笑顔……笑顔、笑顔。



「……………っ」



……本当に、ダメ。


私は今すぐ、自分の部屋に戻るべきだと思います。布団や枕に私の匂いが付いたらバレちゃいますから。ご主人様のベッドに自分の体臭をなすりつける浅ましいメイドだと、知られちいますから。


でも、ご主人様ならきっと許してくれるのでは……ああ、何を思ってるの、私。



「ふぅ……ふぅ………」



布団を頭までかぶせて、ご主人様の匂いに包まれたまま、私は少しだけ自分の腕と指を動かしてみます。


疼きがあるところに、人差し指を当ててみます。



「ん、っ………………」



なんでこんなケダモノになったのか、自分ですらも見当が付きません。


こんな衝動に流されたことは、今まで一度もありませんでした。私はこんなにも愛に飢えていたのでしょうか。


こんなにも……動物だったのでしょうか。



「ん、んっ……なに……これ………」



息遣いは段々と荒くなっていきます。バカ、痴女、最低、最悪、ケダモノ、動物、負け犬、変態。


あらゆるネガティブな単語が頭を駆け巡っているのに、私はベッドに染み付いたご主人様の名残に支配されてしまいます。


このベッドの上で見せてくれた寝ぼけている顔。優しさしか込められていない声色と、首筋と、体臭と、唇の感触と、笑顔と………ああ、もうダメ。



「ごしゅじんさまぁ……ごしゅじん、さ……………なお、くん」



ダメ……私、本当に。本当にダメなのに。


もう、ダメという言葉も、スパイスにしか感じられなくて……。



「直君……直君、直君…………」



罪悪感と惨めな気持ちで涙を滲ませながらも、ご主人様を浮かべてよがり狂う私なんて。


本当に大嫌いで、死んでしまう方がいいと思えるほどに、脆い女でした。

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