第34話  私だけのご主人様です

<冬風 氷>



感情が漏れています。


つかの間の嬉しさ怒りに耐え切れず、私は今まで何度もご主人様の唇を奪ってきました。


いつからか体を密着させて、唇の熱だけじゃなくご主人様の体の体温まで貪って。


そのせいで、漏れてはいけない感情がどんどん漏れていく気がします。昨日の夜のキスは嬉しさから生まれるキスでした。


そう、嬉しかったのです。


ご主人様がモデルなんてやらなくていい、と間接的に伝えてくれたから、それが嬉しすぎてキスをしてしまいました。


そして、その時の私は間違いなく、女の子の顔になっていたと思います。


メイドが絶対にやってはいけない顔をして、メイドに絶対に許されないキスを何回も、ご主人様に送りました。純粋に最悪だと思います。


………でも。



「本当に美空博美の息子だったらヤバくない!?」

「美空君なんか違うよね。他の男子と違ってなんか芸術家?みたいな感じするし」

「ほら、どうするの?美空君のこと、好きなんでしょ?」

「だ、だからそんなんじゃないってば……!うぅぅ……」



感情のコントロールが驚くほど下手くそな私は、周りの話を聞きながら再び感じてしまいます。


ああ、自分はもうご主人様に囚われているんだと。自ら、それを望んでいると。


朝のHRの前、クラスの子たちが喋っている話し声は嫌でも耳に入って、その中では確かに美空君のことが好き、という言葉もちゃんと聞こえました。


もちろん声は抑えられていましたが、昔から敏感だった私の耳は嫌でもその声を拾ってしまいます。


ご主人様を好きになるのは、当たり前だと思います。


お母さんを除いたら、あの人ほど優しい人を私は知りませんから。音楽の天才ですし、お金もあるし、格好いいですし。


………………そして、そんな人と一緒に住んでいるからでしょうか。


私の中には、決して口には出していけないねちっこい感情が付きまといます。



「………………」



机に顔を伏せ、瞳を閉じたまま私はその感情を次々と言葉にしていきます。


あなたたちがそんなに気にしている美空君は、私と同じ家で住んでいると。


彼は私の主人で、私は彼と何十回もキスをしてきたと。


ただ唇を触れ合わせるだけじゃなく、舌と舌を絡めて、息が苦しくなるまでその感触を堪能していたと。


ご主人様も、私を拒むことなく抱きしめていたと。


私だけの、ご主人様だと。



「……………………………」



……無意識にこういうことを思ってしまう私なんか、死んだ方がいいと思います。


しかし、彼は私だけのご主人様です。


誰にも渡す気にはなりません。私だけの唇で、私にしか許されていない体温です。


相手が同じクラスの女の子だろうと、羽林紫亜だろうと、彼の従姉のお姉さんだろうと、関係ないです。


……私は、間違いなく。


昨日のキスと、昨日ご主人様からもらった言葉で、壊れてしまったと思います。


顔を上げ、私は一番後ろの席に座っている……いえ、もう机に突っ伏して眠っているご主人様を見ました。


あの人はいつも平気です。尖った感情を見せることがなくて、スポンジのように私の感情を吸い取って、時間が経てばまた元の形に戻ります。



「……………はぁ」



私の気も知らない、悪い人です。







『氷、今日は先に帰って』

『……はい?なんでですか?』

『いつも遅くまで学校にいさせるのも悪いじゃん』

『…………でも』

『俺は適当にくつろいでるから、今日は氷が先に帰って』



有無を言わさない口調を押し付けられたら、私に答えるすべはなくなります。


静寂が漂う家に入り、手と足を洗った後にラフな部屋着に着替えました。夕飯を作るまではまだまだ時間があって、家の中には尽くす相手もいません。


この家に来てから、身に余るほど与えられた自由時間。


私はベッドに横たわって、ご主人様が先日プレゼントしてくれた白いクマさんをぎゅっと抱きしめながら、顔を埋めました。



『……嫌だと言ったら?』

『…………………はい?』

『森住さんの連絡先あげるのが嫌だと言ったら、どうなるの?』



昨日の言葉は私の中にちゃんと生きていて、その言葉で私は静かに、爆発させられました。あの時の私は、欲望に支配されていたと思います。


ふと、抱きしめている白いクマさんの顔をじっと見つめた後。


私は自然と目を閉じて、クマさんの口に唇を押し付けました。



「…………………」



冷たくもないし、暑くもないです。ふわふわして、少しの柔らかさが添えられている感触。


しかし、足りません。気持ちがいいとは呼べない感触です。


唇に当たるものすべてをご主人様の唇に比較する自分なんて、気持ちの悪いバカで、変態だと思います。間違いなく私はバカになりました。


……いえ、バカにさせられました。あの人が、私をバカにしました。


一度は拒んでくれてもよかったじゃないですか。私を突き放して、汚いものに触れたかのように手で唇を拭ってもよかったじゃないですか。


あなたのせいです。


私のせいだと分かっていますが、これはあなたのせいです。あなたが悪いです。


私に都合のいい幻想だけを見せてくれて、どこまでも私を甘やかしてくれて。


……幸せという概念を信じたくなるように私を仕立て上げた、あなたが悪い。



「ただいま……あれ、氷?」

「………………」



ドアの向こう側で聞こえてくる主人の声に反応して、私はただちに立ち上がって、玄関に向かいます。


ちょうど靴を脱いでいた彼は、私を見た途端に笑いながら近づいてきました。



「ただいま。いや~~今日も先生にめっちゃ怒られたね。授業中に寝る方が悪いとは思っているけ……ど」

「………………」



そして、私の顔を見たご主人様は次第に言葉尻を濁して、やがて唇を引き結びました。


言葉を交わさないまま、私たちは見つめ合います。


心地のいい瞬間。


私が一番好きな時間が訪れ、気持ちのいい静寂が場を包みます。


まるで、今まで不幸だった私の人生は、この数秒間の沈黙のためだったと言われているみたいに。


たった一度も、私に不幸を送らなかった人は。


今日も苦笑を浮かべながら、私に一歩近づいてきました。



「どうするの?モデルやるかどうか、もう決めた?」

「……いえ」

「そっか」



この人は、きっと分かっていると思います。


私はこの人のメイド以外の何かになるつもりなどありません。これからもずっと、いつまでも。



「……屈んで、目をつぶってください」

「……もはや堂々としてるんだ」

「はい、私を拒まなかったのは……あなたですから」

「………………」



返事の代わりに、ご主人様は私がキスしやすいように身を屈めます。私はつま先立ちをせずに、彼の首に両腕を巻いて、当たり前のように唇を重ねました。


彼の匂いが染みこんでくるような、この感覚が好きです。


気持ちよくて、熱と唾液が溶けて、私は自分が知らない新たな形になっていきます。


こんな形をした心の名前がなんなのかを、私は嫌でも察してしまいます。



「…………ご主人様」



私は、とんでもなく愛情が足りない私は。


荒い息をこぼして、彼を見上げました。

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