第33話 俺のメイドに対する資格
<美空 直>
やって欲しくない、という思いが最初に浮かんだ俺も大概だと思う。
『……氷の人生に干渉できる資格、俺にはないよ』
辛うじて言葉を飲み込んで正しい返事に置き換えたけど、自分のどす黒い思いにびっくりしてしまった。
好きにしていいと言ったはずなのに、心と口が同じ方向を向かなかった。俺は、氷にモデルの仕事を断って欲しいと思っている。そういう資格もないのに。
「…………」
「…………」
俺のこんな浅ましい思いを見抜いたのか、氷はあれから一言も言わずに沈黙を保っていた。食事をする時も、お風呂に入ってからも、そして深夜になった今も。
リビングで、氷は自分の部屋に入る前に、冷蔵庫の中でエナドリを取り出している俺を見つめている。
その無表情から何かを読み取ることはできなくて、俺はとりあえず羽林に頼まれた作業に集中すべく、キンキンに冷えた缶を片手に自分の部屋に戻ろうとした。
そして、その時。
「ご主人様」
氷は素早くこちらに近寄ってきて、俺が手に持っている空き缶を握ってくる。
「夜中にこのようなものを飲んでしまったら、眠れなくなりますが」
「……すごく今更だな。ごめん、俺作業に集中しなきゃいけないからさ」
氷は時々とんでもない形で線を越えるけど、こんな風に真顔で言われたら純粋に引き下がることが多い。
今もまさにそうで、氷は俯いてから大人しく引き下がり、小さく息を吐いた。
「森住さんには、連絡が取れましたか?」
「……いや、電話してみたけど出なかったよ」
嘘だ。そもそも、俺は森住さんに何の連絡もしていない。
モデルの話が出て6時間も経ったのに、通話ボタンを押す余裕もたっぷりあったのに、俺は見て見ぬふりをした。
「そうですか……なるべく、早めに返事をいただけたら幸いですが」
「……一つ質問があるんだけどさ、氷」
「はい、なんでしょう」
「モデルの仕事、やりたいの?」
自分なりに核心を突いたと思ったその質問に、氷は視線を避ける。
氷は、可愛い。たぶん今まで俺が見て来たどんな人よりも綺麗で可愛くて、恐ろしいくらいに顔立ちが整っている。
物語の中に出てくる妖精があるならこんな感じだろうなと思うほどで、どんなモデルにも劣らないくらい魅力があるとも思う。
なにより、この色だ。真っ白な髪に真っ赤な瞳。神秘的で異質的で、儚い雰囲気を持ちつつも印象に残る鮮烈な色をしている目。
氷はその気になればきっとモデルになれるだろうし、俺はその行く先を阻む権利などない。
でも、氷の素性をよく知っている俺としては、やっぱり疑問に思ってしまう。
氷はそもそも自分の見た目に嫌悪感を抱いていて、その上に誰かから見られるのも嫌がっていたから。
「……まあ、そうですね」
しかし、氷の口から出たのは予想に反する言葉だった。
「本当に?」
「ご主人様に恩返しをするため……と言った方がいいでしょうか。もちろん家事は全部こなせますし、不便を感じないようこれからも尽くしていくつもりです。ですが、二人暮らしだと基本的に家事の量も多くありませんからね」
「………………」
それも確かに、彼女の言う通りだった。家は広くても二人で住んでいるから、どうしても手が空いてしまう。
「妥当な選択だと思いますが、ご主人様はどう思いますか?」
「……なんで、それを俺に聞くの?」
「私はメイドで、主人であるあなたに尽くすことを第一にしなければいけませんから。私に、選択権などありませんので」
………いつも、これだ。
氷は主人に平気にキスしてくるくせに、都合のいい時だけメイドであろうとする。
選択権を俺に押し付けて、自分は全く関係ないと平然な顔をする。そうすることで、彼女は心の平和を保っている。
いつもはその態度が気にならなかったけど、何故か今回だけは少しだけ引っ掛かって、俺はまた同じ言葉を繰り返す。
「氷の好きなように……望むままにしていいと、言ってなかったっけ」
「……ご主人様には私の人生に干渉する資格があると、申し上げた気がしますが」
「それはあくまで資格であって、義務ではないんでしょ?」
ぐつぐつと煮え始める感情に任せて言い放つと、氷の瞳が一瞬だけ激しく揺れる。
それから、すぐに観念したように目を伏せて言ってくる。
「……さようですか。なら、森住さんの連絡先を、頂いても?」
「……………」
……なんなんだ。
本当に、なんなんだ。このしょんぼりした反応は。自分が望んでいた答えではないと言わんばかりに俯いて、拳もぎゅっと握って。
何を望んでいるんだよ、氷。もしかして、俺に引き留めて欲しかったのか?
そんなことやらなくてもいいと、この家にいろってずっと……そう言われて欲しかったのか?
冗談じゃない。俺が雇っているのは機械じゃなくて人間で、人間は自由になって色んな経験をする権利がある。
俺はそもそも氷の主人になってはいけないと思うし、彼女とは同等な関係を築きたいと思ってきた。今も、そうしているつもりだ。
………………でも、俺は。
「……嫌だと言ったら?」
そんな、子供じみて幼稚な感情に勝てずに、意地悪な言葉を口走ってしまう。
「…………………はい?」
「森住さんの連絡先あげるのが嫌だと言ったら、どうなるの?」
その言葉を聞いた氷は、怒るべきだと思う。なんで私の未来をあなたが勝手に変えるのか。なんで私に訪れた機会をあなたが勝手に吹っ飛ばすのか。
怒って蔑んで、目を剥いて俺に悪態をつくべきだと思う。
なのに、氷の表情には驚きの次に、安心と喜びという感情しか浮かばなかった。
「………変な事務所かもしれないので、さすがにモデルの仕事をやるのは難しくなります」
「…………………そっか」
「はい、そうです」
「……………」
どうして笑うんだよ。
笑うべきじゃないだろ。なんで嬉しそうに目を伏せて微笑んでいるんだ。普段はあんなに無表情なヤツが、なんでこんな場面で。
頭がぐちゃぐちゃになって、心の奥底から何かがせり上がってきて、とりとめのない何かが溢れてくる。
それは衝動になって、割れやすいガラスを粉々にするような言葉が聞こえてくる。
「……目、つぶってください」
「……………」
「ご主人様、目を」
なんで、こんな時にそんなお願いをするのだろうと思うけど。
気づけば俺は自然と目をつぶっていて、氷は当たり前のように唇を重ねてきた。
持っていたエナジードリンクが床に落ちる音がして、俺は身を屈めて、氷がキスしやすいように動く。
氷は俺の首に両腕を巻いて、ぎゅっと瞳を閉じたまま何度も優しいキスを送る。
いつの間にか、俺たちがキスするのは当たり前になっていた。
そして、その当たり前を否定しなきゃいけない理由を、俺たちは見つけていない。
長い間唇が繋がって、俺は氷を抱きしめたいと言う衝動を我慢しながら目をつぶる。氷はもう、俺に体を密着させて何度も俺の唇をついばんでくる。
このままじゃ、まずい。
そうなる前に俺は素早く氷の肩を掴んで、体を離させて、荒く息を吐いた。氷も頬を真っ赤に染めたまま、俺と同じように息遣いをしている。
「……………………」
「……………………これは、没収です」
彼女は床に落ちているエナジードリンクを拾い上げて、俺に渡すことなく懐に持ったまま背を向ける。
「おやすみなさいませ、ご主人様」
耳まで真っ赤になった後姿を最後に、彼女は缶を冷蔵庫の中に入れて自分の部屋に戻る。
ドリンクも氷も失くした俺は、彼女がやったみたいに深く息を吐いて、自分の心臓に手を置いてみた。
バカみたいに跳ねている。
それが氷にとっていい兆しかどうかが怖くて、俺はこの鼓動を認めずにいる。
確かなのは、今日もあまり作業に集中できそうにないということだった。
氷がこの家に来てから、音楽に流されない日が多くなった気がする。それをいいことだとは思わないけど、悪いと言い切れるものでもない気がした。
「……………………………ラブソング、か」
……もっと、計算とかせずに一点張りで、衝動に任せてもいいんじゃないかな。
そう思いながら、俺は自分の部屋に戻った。
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