第32話  私のご主人様は主人ではありません

冬風ふゆかぜ こおり


どんどん崩れています。


私たちの中を繋いでいた何かがどんどん切れかけて、得体の知れない何かになっていきます。


抗いがたいくらいに甘くて、むずがゆくて、また暖かい何かに。


私は、抵抗するべきだと思います。


この名前のない感情を受け入れてしまえば、きっととりとめのないことになってしまいますから。


ご主人様とキスしたことで私は自分自身の理性を信じられなくなりましたし、ご主人様だって……少しも、私を否定せずにすべて受け入れてくださいました。


これは、危ない状態だと思います。そうやって零れそうになるため息を呑み込んで、夕飯の買い出しのために街を歩いていた時。



「モデル、やってみませんか?」



そんな突拍子のない言葉を聞いて、私は目を丸くしてしまいます。


声をかけて来たのはお洒落なコートを羽織っている30代の女性で、彼女は私に名刺を差し出しながらやんわり笑っていました。


私はぼうっと立ちすくんだまま、彼女を見つめます。



「……モデル、ですか?」

「はい、冬風氷さんですよね?この辺りじゃけっこう噂になってるんですよ。綺麗な赤い目をしている別嬪さんがいると」

「は、はぁ……どうも」



……美人なんて、私は自分をそんな風に思ったことはありません。


私の目の色は化け物みたいで嫌ですし、顔立ちは不気味だとしか思ってなかったので。


可愛い、とお母さんにはたくさん言われてきましたが、学校で見物にされている状況を思い出すと、すんなりと頷くことができません。



「どうですか?もし興味が湧くようでしたら―――」

「すみません。他に、やっている仕事があるので」



きっぱりと断られたからでしょうか、目の前の方は驚きで目を丸くしました。


しかし、すぐに淡い笑みを浮かべて話を再開します。



「もしかして他のバイトでもされているんですか?お金のことなら問題ないですよ!モデルの仕事は基本的に割がよくて――」

「いえ、やらなきゃいけない仕事なので」



申し訳ないと思いつつ、私は名前も知らない方の言葉を再び遮って、ぺこりと頭を下げました。


私には、メイドという大事な仕事があります。


ご主人様の面倒を見ることは私の生活にも関わっていることですし、ご主人様の家から出て行ってしまったら私は、行く先がなくなります。


私をスカウトしてくれた方は苦笑を滲ませながら、言いました。



「そうですか……あ、もし後で気になるようでしたら、ぜひこちらの番号で連絡してくださいね!」

「あ………はい」

「失礼いたしました。それでは」



案外あっさりと身を引いてくれて、助かりました。


私は彼女の後姿を眺めながら、受け取った名刺を見つめます。そして、思い返しました。


昨日、私が家に入った時に聞こえて来たご主人様の声を。声に込められていたその活力を。



『ああ、構わないけど……まさか即席で曲作れとかは言わないよな?』

『そうか、分かったよ。じゃとりあえず今は切るわ。後で……そうだな。大体7時に俺から電話する』



一ヶ月も近く一緒に住んでいましたから、そして中学の時にも何度か会っていましたから分かります。


ご主人様は音楽の話題が出ると声が高くなって、なにかに取り付かれたようにウキウキとした様子を見せます。


そして、その姿を見るたびに、私はご主人様との距離を感じてしまいます。


ご主人様は天才作曲家で、羽林紫亜は天才アーティスト。


天才たちが集まっている世界に私が入り込む隙間はなくて、だから私は、昨日キスをしました。


ご主人様を現実に引き戻すために。少しでもその目を、私に向けさせるために。



「………………」



……醜いです。分かっています。キスをした時の感情に名前を付けようとは思いませんが、ご主人様が傍にいてくれることがどれだけ大事なのか、私は日々日々思い知らされます。


スーパーに入って、機械的に買い物かごに食材を入れながら、ぼうっと考えました。


もし、私が有名なモデルになれたら。誰もが振り向く綺麗な人になって、羽林紫亜みたいに人気になれたら。


……ご主人様と私は、ちゃんと肩を並べられるでしょうか。


その眩しい世界に私も、入れるのでしょうか。



「……………………ふぅ」



食材が詰まった袋を両手に提げ、私は横断歩道の信号を待ちながら考えます。


どのみち、私がモデルをやる未来は訪れません。


ご主人様に捨てられない限りずっとメイドをやり続ける予定ですし、ご主人様はたぶん、私を捨てることはないと思います。


だから、私はメイドの役割を全うするしかなくて、一生ご主人様の後ろ姿を眺めることしか…………っ。



「…………………はぁ」



……………何を考えているのでしょうか、本当に。後ろ姿を眺めるなど、当たり前なことなのに。


彼は主人で、私はメイド。


これは主従関係です。私が下で彼が上。私は尽くす側で、彼は尽くされる側。


なのに、どうしてこんなおこがましいことを思っているのでしょう。


自己嫌悪を抱きながら、私はマンションにたどり着きました。それからさっそく、ご主人様がいる家に入ります。



「あ、おかえり……って、買い物行くなら俺を呼べばいいのに。なんで一人で荷物抱えてるかな」

「………………」



……そう、この人が問題です。


私が惑わされる理由は私の弱さのせいではなく、この人のせいだと思います。この人がいつまでも主人として振る舞わないから。


私に都合のいい命令しかして来なくて、私に何もかも与える癖になにも望まなくて。


都合のいいようにこき使ってもくれないし、支配してもくれないし、ただ私を尊重するだけだから。


玄関で、私はそそくさと袋を持ってキッチンに向かおうとするご主人様に、言いました。



「スカウトされました」



びくっ、とご主人様の身動きが止まります。次に、驚きの視線が注がれます。



「スカウトって、どういうこと?」

「路上スカウトをされました。こちらが名刺です」



私は家に上がり、まだぼうっと立ちすくんでいるご主人様に名刺を渡しました。


ご主人様は、その名刺を受けとってジッと見下ろします。



「……モデル事務所か。氷は、どうしたいの?」

「……………」

「好きにしてもいいよ。氷が望むままに、生きてもいい」



…………なんで、そうあっさりと結論が下されるのでしょうか。


他の反応があるはずです。メイドをやっているくせになに変なことしようとしてるんだ、とか。怪しいからとりあえずやめておこう、とか。


そういう類の否定の言葉は何一つなくて、ご主人様はずっと受け身で、私が予想した反応を見せてはくれません。


私は、少しだけ恨みがましい気持ちを抱いたままご主人様に言います。



「……本当のことを言ってください」

「……え?」

「私がモデルをやっても、本当にいいんですか?私のためではない、ご主人様のための答えを出してください」

「……なにを言ってるの?氷の人生に干渉できる資格、俺にはないよ」

「あります。あなたは私の主人ですから」

「…………………」



ご主人様は沈黙を保ったまま、複雑な顔で名刺を見下ろした後………ふうとため息をつきました。



「……とりあえず、森住さんに聞いてみる。ここが本当にちゃんとしているとこなのか確かめなくちゃ」



それ以上は何も言わない、と釘を刺すようにご主人様は背を向けて。


私はほんの少し、悲しみと怒りを抱きながらその後を追いました。

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