第31話 俺のメイドの晩ご飯メニュー
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何だったんだろう、昨日は。
結局、昨日は音楽に集中できなかった。気づいたら明け方になっていて、夜には氷がしてきたキスとか、涙目とか、そういうことだけが頭に浮かんで………ああ、もう。
このむずむずした感覚の名前を、衝動の名前を俺は知っている。性欲だ。
間違いなく、氷に向けている性欲だ。
否定できない。だって、あんなに思い知らされたのだ。
あの時の俺はまるで何かに取り付かれたみたいに変なことばかり言って、衝動任せで氷を抱きしめてキスをしていた。
その結果、なにも頭に入らないままいつもより遅く寝てしまって、今の俺は全身が重くてコンディションも最悪な状態にいる。
だと言うのに、クラスメイト達は俺を放っておかなかった。
「なぁ、なぁ!!お前、昨日羽林さんに会ったんだろ!?どこ行ったんだよ!」
「美空君、もしかして本当に美空博美の息子だったの!?そんなこと言ってなかったじゃん!」
「羽林さんとどんな話したんだよ~~なぁ、美空!!」
……昨日、羽林に拉致られたことがよほどインパクトがあったのか、クラスメイト達はその話でずっと盛り上がっている。
「人違いだったんだ。羽林さん、どうやら俺が本当に美空博美の息子だと思い込んでいたらしくてな。事情を説明したらあっさり解放してくれたんだよ」
「ええ……本当か?てか、サインとかもらわなかったのかよ!」
「もらうわけねーだろ。俺、あの人にあんま興味ないし」
「ええ~~つまんねぇ」
「ていうか、美空君って本当に美空博美の息子じゃないんだ……?なんか雰囲気似てるのにな」
「本人があれだけ否定してるし、顔もあんま似てないからまあ違うんじゃない?」
一応、学校では俺がNoahだということも、美空博美の息子であることも秘密にしている。大騒ぎになることはないはずだ。
しかし、面倒なことが増えた事実に違いはない。俺はあくまで大人しく、静かに学校生活を送りたい。
有名になったところで、俺にはなんの得もないから。
……そんな風に質問攻めにあっている最中、俺は無意識に、隙あらばとある人の後姿を追いかけた。
氷は相変わらず、その真っ白な髪を綺麗になびかせながら前を向いている。
今朝から、氷の視線が俺に向けられることはなかった。
『……………おはようございます、ご主人様』
まるで、夜にあった出来事をすべてもみ消さんとばかりに事務的な対応を取ろうとする氷。
でも、彼女のそのぎこちない反応がよりはっきり実感をもたらしてきて、どうしようもなくなる。
一緒に朝ごはんを食べている時も会話はなかったし、氷は黙々と箸を進めるだけだった。
俺たちの間を繋いでいた繊細な橋が、衝動によって壊れかけていた。それがどの方向に転ぶか結果を知るのが怖くて、お互い見て見ぬふりをしている。
そんな状態だった。どうすればいいか分からないし、睡眠不足の頭も上手く動いてはくれない。
俺はHR時間になってからようやく解放されて、ぼうっとしながら前を向いた。
心なしか、みんなが去っていくのと同時に氷が一度だけ、こちらに振り向いたような気がした。
放課後、先に家に帰って来た俺はラフな部屋着に着替えて、さっそくソファーに横たわる。
さすがに今日は動く気力が湧かなかった。曲を作る気もしない。
このまま、氷が夕飯を作ってくれるまでゆっくり眠ろう。そう思っていた矢先に、スマホが鳴った。
「………うん?」
差出人は羽林紫亜。俺はふう、と深いため息をついてから電話に出る。
「もしもし」
『あ、もしもし~~おはようございます、Noahさん!ふふふっ』
「……あのね、君のせいで俺がどんな目に合ったか―――」
『まあまあ、いいじゃない。そういうちょっとしたスパイスがあってもさ~!でも、学校か~~そうだよね。ちょっとうらやましいかも。ほら、私は学校やめちゃったからさ』
「えっ……やめたって、本当に?」
『そうだよ~学校にいるより音楽やっている方がよっぽど楽しいじゃん』
「まあ……分からなくはないけど」
『でしょ、でしょ!?ていうか、あんたは学校辞めないんだ?どうしてやめないの?あんた、私と同い年でしょ?』
学校をやめるのが当たり前、と言わんばかりの口調に頭が痛くなる。でも、彼女の言っていることが間違っているとは思えない。
俺だって、学校の授業より音楽が大事なのだ。
「……色々あるんだよ。学校に通わなきゃいけない理由が、色々」
『ええ~~なにそれ、もしかして好きな人とか~?』
「……普通にいるわけねーだろ、そんなの」
『ええ、本当かな~~』
……くそ、あぁ。
なんで、好きな人って言われた瞬間に氷の顔が出てくるんだ。おかしいだろ、これ。
俺は、氷のことが好きではないのに。
昨日のキスだって、ちゃんとした建前と理由があったはずだ。氷が怒っているから、それを静めるためというちゃんとした理由が……。
………その理由が筋に通っているかいないかを考えるも前に、羽林の声が聞えてくる。
『まあ、どっちでもいいや。それで、曲のコンセプトだけど』
「ああ……うん」
『ちょっとピュアなラブソングに仕上げたいけど、どうかな?ラブソング、イケる?』
「……どうしてそれを俺に聞くんだ?」
『だってあなた、ラブソングはあんまり作らなかったから』
……返す言葉もない。実際、俺は自分でもラブソングには合わないという自覚を持っていた。
ラブソングに一番大事なのはサウンドの派手さと独特さより、歌い手の感情線とその感情を引き立たせるための単純なサウンドだ。
色々な楽器を混ぜてエフェクトを入れて、音楽で実験をする俺みたいな作曲家とラブソングは、純粋に相性が悪い。
だから、基本的に俺にラブソングを依頼する人はあんまりいなかった。
「なのに、頼むんだな。俺に」
『うん、当たり前じゃん。Noahのラブソングなんて超レアだし、私の声と組んだらどんな曲になるか楽しみだし。あと、私はあんたのサウンドに負けないくらい歌上手だから』
「………………はっ、そっか。大した自身だな、本当に」
『うちのママが言ってたよ?自分を信じることが一番って』
「そっか……分かったよ。まあ、ラブソングと言ってもコンセプトは色々あるだろ?どんな感覚で仕上げたいのか、どんな楽器使って欲しいのか、もっと細かく説明して欲しいんだが」
俺は体を起こして、ソファーにもたれかかったまま天井を見上げる。
間もなくして、羽林の明るい声に交えて玄関のドアが開かれる音がした。
『あ、もしかして今家にいる?だったら、通話じゃなくてディスコで話そうよ!』
「ああ、構わないけど……まさか即席で曲作れとか言わないよな?」
『さすがにそこまでは望んでないって!昨日の夜に色々と考えておいたからさ、それで話し合いたいなと思って』
そして、ウキウキしている羽林の声とは真逆に、少しだけ顔をこわばらせた氷がリビングに入ってきて、俺の前に立つ。
俺は手を振りながらも、器用に羽林に答えを返した。
「そうか、分かったよ。じゃとりあえず今は切るわ。後で……そうだな。大体7時に俺から電話する」
『分かった。じゃね~~』
「ああ」
それから電話を切って、すぐに氷におかえりなさいを言うも前に―――
「んん………んっ!?」
「んちゅっ、ちゅっ………………」
唇があまりにもあっけなく塞がれてしまって、俺はつい目を見開いて氷の顔を見据える。
閉ざされている瞳と、真っ白で長いまつ毛。氷は当たり前のように身を屈めて俺をキスをしていて、唇を何回かついばんでからようやく唇を離した。
「…………こおり?」
「………………」
そして、少しだけ不機嫌そうに見える口調で言う。
「……今日の晩ご飯はだいぶ時間がかかるので、作るのが遅くなるかもしれません」
「……え?」
「7時までは、間に合わないかもしれませんね」
……ウソを言っている、とさすがに分かってしまう。
今はまだ5時も過ぎていないし、氷の手際の良さを知っている俺としては、嘘にしか聞こえなかった。
何より、唇を引き結んでいる彼女の表情からその言葉の真意を感じ取れる。
俺は、座ったまま氷をジッと見上げる。氷は相変わらず俺の頬に手を添えたまま、私を見下ろしている。
沈黙の中で互いの視線が混ざり合って、俺は苦笑を浮かべながら頷く。
「分かった。羽林と連絡取るのは夜の8時にする」
「………………」
「その代わり、美味しく作ってくれると嬉しいかな。今日の夕飯のメニューがなんなのか、俺は知らないけど」
氷は俺の言葉に少しだけ顔を歪ませてから、再び距離を詰めてくる。
「……バカ」
メイドにあるまじきバカ、という言葉はやけに湿っていて、暖かくて。
俺たちはまた、お互いに吸い込まれるようにしてキスをした。
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