第30話 私のご主人様から送られたキス
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心臓が跳ねて倒れそうになって、次にはわけの分からない嬉しさがこみ上がってきました。
私は、ご主人様に詰め寄ってメイドには決して許されない距離で、ご主人様を見上げます。本当のことを言ってくださいというお願いが放たれてからしばらく経っても、ご主人様は困った顔で私を見ているだけでした。
ご主人様が先に私の部屋に訪ねて来たのは、初めてかもしれません。
また、自分の鼓動がこんなにも早く鳴っている事実を完全に自覚したのも、初めてかもしれません。
眠気など吹っ飛んでしまいました。暗闇の中、お互いの息遣いが届く距離。私はパンパンに弾けそうな心を抱いたまま、一歩下がろうとします。
それとほぼ同時に、ご主人様の躊躇いがちな声が聞えてきました。
「……心配したのは本当だからね?ちゃんと眠っているかどうか、気になってたから」
「……それで、私の部屋に入ろうとしたのですか?」
「いや、さすがにこの時間帯に入るわけにはいかないから、大人しく引き下がろうとしたんだよ。でも、そのタイミングで氷が出て来たから」
「…………」
「……途中で起きると疲れるんじゃない?わざわざ俺を確認する必要はないから、ぐっすり寝てて」
「それは、命令ですか?」
「……場合によっては、命令になってしまうかな」
さっきより声が震えていないのですから、ご主人様の言葉にはたぶん本音が込められているのでしょう。
私はそれでも納得がいかないところがあって、ご主人様から目を離しませんでした。
私がちゃんと眠っているかどうかを確認すること以上に、大事な何かがあるんじゃないかと思ってしまいましたから。
言葉に上手く表現はできなくても、私への気遣い以上の感情が存在しているのではないかと、思いましたから。
「なら、命令してください」
「…………」
「私をいいようにこき使ってください。命令する資格、ご主人様にはちゃんとあるじゃないですか。私をどんな風に扱っても、ご主人様に非はないんですよ?」
「……なら、一つだけ質問に答えてもらおうかな」
「はい、どうぞ」
「氷はさ、俺に早く帰ってきて欲しかったんだよね?」
――思いもよらなかった質問がグッと刺して来て、私はつい唇を震わせます。
この質問はいささか、意地悪です。肯定したらご主人様を待っていたという本音がバレてしまうことになりますし、否定したらそれこそ辻妻が合わなくて午後の私がウソをついていたことになります。
どのみち、私はご主人様を待っていた、としか言いようがなくて、それは私の奥底にある何かを引き出そうとする質問でした。
ご主人様に抱いている思いが何なのかを言葉に規定することはできません。ですが、確かなものがあるとするなら。
それは決して、否定的な色を浴びているものではないということ。
「……そう、ですね」
「なんで早く帰ってきて欲しかったの?」
「……言ったじゃないですか。夕飯が冷めてしまうからと」
「本当のことを言って、氷」
「……………………………」
……何なのでしょうか、今日のご主人様は。
タクシーもそうですし、ドーナツもそうですし、作業をする前に私に許可を取るのもそうですし、今もそうです。
なんで、私の心臓に悪いことばかりして来ないんですか、なんで。
「め、メイドが主人のお帰りを待つなど、当たり前なことで―――」
「………………」
「………ふぅ」
私は結局顔を伏せて、でたらめを述べるのをやめて本当のことを口にしました。
「……会いたかったから、言いました。早く、帰ってきてと」
「………………会いたかったんだ?」
「はい、会いたかったです。それがなにか?」
「………い、いや、まさか本当に答えてくれるとは思わなかったから、その……」
ふと顔を上げると、ご主人様は気まずそうに目を背けていました。その姿にまたムッとなって、私は心に閉じ込めておくべき言葉を勝手に投げ始めます。
「ご主人様こそ、大変嬉しかったのでは?」
「え?なんで?」
「なんでって、羽林紫亜さんに会ってたじゃないですか。前に才能のあるアーティストだと言いましたし、音楽バカのご主人様はワクワクするのでは?」
「音楽バカって……あの、氷?もしかして怒ってるの?」
「いえ、極めて冷静ですが?」
「怒ってるじゃん。普段の氷ならこんな口調にはならないし」
「……私は怒り出すと、キスしちゃう女ですよ?お忘れですか?」
若干からかい気のご主人様の口調にまたムッとなって、私は普段は言わない早めの口調で次々とご主人様を攻撃しました。
自分でも怒っているという自覚はちゃんとあって、怒っている自分が恨めしくもあって、またこんな態度を取ってはいけないと思う冷静な自分がいます。
キス、なんて言葉にしてしまうなんて正気の沙汰じゃありません。私はやっぱりこじれていて歪な、変な人間です。
そして、私に負けず劣らずの変人であるご主人様もまた、とんでもない言葉を投げてきました。
「……………じゃ、キスしたら少しは落ち着いてくれる?」
「……………は、はい?」
「冗談じゃないよ。キスして氷が落ち着いてくれるなら、キスする気あるから」
「…………………」
「……どうかな?」
……自分の唇の価値を、こんなに安くしてしまう人間がいるなんて。
呆れていて、同時に心臓が痛いくらいに跳ねている私を目の前にして、ご主人様は身を屈めてきました。
それから私が何かを言うも前に、唇がふさがれます。
ご主人様から送られたキスで、目が見開かれて。
ご主人様の匂いと柔らかさがどんどん、体中に染みこんできました。
「…………………ご、しゅじんさ……んん、んぅ……」
「………………………………………」
……なんで?
なんで?なんでご主人様がキス?おかしい、おかしいです。ご主人様が先にキスする理由なんてないはずです。
ご主人様は私とのキスを嫌わなきゃいけないのに、なんで?私の気を静めるために?たったそれだけのために?
「…………な、なんで?」
「…………」
「…………何か、言ってください。なんでキスしたのですか?」
「……氷が怒っていたから」
「………………」
暗闇に視界が慣れて、顔の輪郭と表情がちゃんと見えるようになります。
その中で映ったご主人様の顔はまぎれもなく落ち着いていて、苦笑を滲ませていて……ほんの少し、ほんの少しだけ頬が赤く染まっていて。
それを見た瞬間、私の中で何かが弾けて、私はご主人様を襲いました。
「んうっ!?!?んん……!ちょっ、こお……んんん!!!」
後ろへ押し倒すような勢いで体重を預けて、ご主人様の首に両腕を巻いて、熱しかいないキスを交えます。
舌と舌を絡み合わせて、隅々まで相手を染めつくすような勢いの快感。理性なんかほったらかしにして、衝動にだけ身を任せたキス。
ご主人様は精いっぱい踏ん張りをつけ、どうにかして後ろの壁に背中を預けました。
それと同時に私の背中に両手を回して来て、私はその感覚にビクン、と体を跳ねさせてしまいます。
「んちゅっ、ふぁ……ご、ごしゅ……んん!?!?」
慌てた私が唇を離した途端に、キスの雨が降り注いできます。私はまたもや唇を塞がれて、もう私たちは衝動がいくままにお互いの体を抱きしめて、しがみついて、熱と熱を絡み合わせるしかなくなります。
お互いの存在を確かめ続けて、和やかな安心感が快楽に膨らむことを眺めるしかなくなります。
何度もきゅんと心臓が鳴って、ご主人様の熱を感じるたびに膝に力が入らなくて倒れそうになりました。そんな中でもご主人様は私を抱き留めて、無理やりに立たせてキスをしてきます。
やがて、息が詰まってお互いの唇が離れて唾液の糸が目に入るようになった時、私はようやく自分の状況に気付きます。
脳内は鮮烈な快楽と熱で完全に焼き尽くされていて、瞳はうるうるしていてすぐにでも涙をこぼしそうになっていて、頬は勝手に熱っぽくなって、体はぶるぶる震えていて。
それでも、自分でも驚くくらいの力でご主人様を抱きしめていて……はしたなくて、衝動的で、まるで動物みたいな私の姿に自覚して、私は顔を伏せました。
そのまま、私は顔を見られたくないと言う一心でご主人様の懐に顔を埋めます。ご主人様の顔はよく見えませんでしたが、私を抱き留める力によって拒否されてはいないと伝えてくれます。
絞り出すように、私は言いました。
「………嫌いです」
「……うん?」
「ご主人様なんか……嫌いです。嫌いですから……」
「………そっか」
「はい。嫌い、嫌いです。大嫌いです………嫌い、ですから」
「……………」
「……だから、これ以上私に嫌われたくないのなら―――」
自分が何を言っているのかもちゃんと自覚せずに。
私はただ赤黒い感情に塗りつぶされたまま、勝手に声を出してしまいます。
「これからも、家に早く帰ってきてください。何があっても、絶対に」
「……………」
「……絶対に、私を……この家で、一人にしないでください」
ご主人様は何も言わず、ただ私を抱きしめている腕に力を加えるだけでした。
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