第29話 俺のメイドの笑顔
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静かな夜、俺は部屋の椅子にもたれかかったまま森住さんと電話をしていた。
森住さんはなんというか、少しだけ茶目っ気が混じった声で言っていた。
『それで、本当に作る気なのか?』
「ああ、仕方ないじゃん。学校まで押しかけて来たんだし」
『なるほど、これは面白くなりそうだな。天才作曲家と天才アーティストの組み合わせか、ははっ』
「お世辞どうもありがとう。それで、俺的にはミキシングとマスタリングはやっぱり森住さんに任せたいんだけど、時間空いてる?」
『それはもちろん、お前が作った曲だから俺がやるのは当たり前だが……レコーディングはどうするつもりだ?スタジオに直接来るのか?』
「……さすがに顔までバレてしまったから、立ち合うのが礼儀じゃないかな」
ちゃんとした音源を作るためには主に4つの過程が要求される。一つ目は作曲。曲の大黒柱であるメロディーとコード進行を考え、依頼主が望むコンセプトに合わせて曲を作ること。
そして二つ目がレコーディング。この段階でアーティストが直接声をぶつけて録音して、メロディーに声を載せる。
その次が、森住さんの特技のミキシングとマスタリングで、曲の音すべてを調律し、曲全体のバランスを取る作業だ。それから、最後に曲を世の中に公開するのだ。
俺は元々美空博美の息子だという事実をバレたくなくてレコーディングの現場には基本参加しなかったけれど、バレた以上は参加をしない理由もないのだろう。
あと、純粋に羽林紫亜というアーティストの力を近くで見たいという好奇心もあった。
『ふうん、なるほど。ちなみに、もう曲は作ってるのか?』
「いや、まだ具体的な指示をもらってなくて。今は羽林の声だけ聞いてる」
『ふうん、例の分析か?』
「ああ、どこまで歌えるかによって合わせるサウンドも変わってくるからね。羽林は基本ハスキーな声色だけど時々めっちゃくちゃパワフルになるから、予めに練っておかなきゃ」
『ふふっ……そうか。ああ、そういえば直』
「うん?どうした?」
『お前のメイドさんにはちゃんと許可を取ったのか?』
氷の話が出た途端に、喉がカラカラになっていく気がする。
俺は舌で自分の唇を濡らしてから答えた。
「ああ、ちゃんと取ったよ。大丈夫だって」
『ははっ、お前が最初に羽林の依頼を断った理由は彼女なのだろう?なんでいきなり気が変わったんだ?』
「……羽林がまさか俺とあの人の関係まで見抜くとは思わなかったから。それに対するリスペクトが一つで、残りは……」
『残りは?』
「……純粋に、彼女が俺のサウンドに乗ったらどんな風になるのか、知りたいだけ」
氷の存在がいなかったら、俺はきっと二つ返事で羽林の依頼を受けていたのだろう。それほど彼女は、俺にとって興味深い人だった。
彼女は、他の人たちと声の質が違う。時には花弁が舞い落ちるイメージで囁くように歌うこともあれば、目が見開かれるほどパワフルになる時もある。
そして、彼女はそんな自分の声をちゃんと理解していて、その声に合わせた曲で堂々と世界を揺らがせた。
森住さんが前に言った通り、彼女は才能に満ち溢れている人間だと思う。そして、俺の音楽と彼女の音楽がぶつかった時にどんな現象が起こるのかが知りたい。
これはお金や名誉なんかを狙うのではなく、純粋なアーティストとしての好奇心に近かった。
『お前やっぱり、音楽に狂ってるな』
「なんでそうなるのかな~別に狂ってないわ。好奇心が湧くだけだって」
『……お金やキャリアより好奇心が先に出る辺り、お前はまだまだだ』
「失敬な……まあ、氷も許可してくれたんだし、いいだろう」
『そういえば、例のあのメイドとはどうだ?上手くやってるか?』
「……うん、上手くやってると思う」
ドーナツを買って、タクシーに乗って家に入った矢先。氷が最初に見せてくれた反応はいらっしゃいませという形式だけの言葉じゃなく、笑顔だった。
安心したような、心から湧き上がってくるような微笑み。
そういう類の温もりが今日の彼女にはあって、それはカツカレーを一緒に食べる時も、食後にドーナツを一緒に食べる時もずっと続いていた。
いつの間にか、俺たちは一緒に何かを食べることが当たり前になっていた。
ギクシャクするよりはいいけど、少しだけ違和感を抱いてしまう。心の中で、氷に対する心の壁が急速に崩れて行ってるような気がして、落ち着かない。
……あの言葉のせいだ。
早く帰ってきてください、なんて。メイドだから家から勝手に出て行くことはないなんて。そんな言葉ばかり浴びせられたからか、無意味な思考が止まらない。
『ふふっ、そっか。ならよかったな。というか、羽林紫亜のアルバムに載せる曲か……アルバムのコンセプトが気になるな。メールも交換したと言うし、別に俺が介入する必要はないだろうな?』
「ああ、羽林と直接打ち合わせするからそこは大丈夫。なにか変動があったら教えるから。あ、後デモ版も出来上がり次第に送るから、よろしく」
『ああ、分かった。じゃな』
「うん」
電話を切って、俺はさっきからずっと目を向けていた作曲ソフトを再びジッと見据えた。
様々な楽器のトラックと数々のエフェクトたち。波のように視界から情報が入ってくるのに、俺の頭の中はさっきから一人の声に囚われて、動かない。
『……ゆ、夕飯が冷めてしまいますから。別に、他の意味があるわけではありません』
あの時の氷の声には明らかに戸惑いが見えて、自分も驚いているようにしか捉えられなかった。
一つの言葉を気にしすぎている自覚もあるけど、これはどうしようもない。
今日、俺に見せてくれた氷の顔はそれほど優しく、かつては見せなかったものだったから。
「………ふぅ、ダメだ」
さすがに森住さんと電話する前まではずっとソフトをいじっていたし、ちょっと休むか。
そう思って立ち上がって、俺はエナジードリンクを補充するために冷蔵庫に向かった。冷蔵庫のドアを開けて、俺は奥の方に隠しておいたエナジードリンクを取り出す。
……そういえば、これも氷がほどほどに飲めと言っていた気がする。本当、いつの間にこんなに染み込んできたんだろう。
しばらく立ち竦んでエナジードリンクを見下ろして、自然と視線が閉ざされている奥の部屋に向けられる。
去年はただの物置部屋でしか存在していなかった空間は、俺のメイドのためのものになっている。
……俺は、エナジードリンクをテーブルに置いてゆっくり、その部屋のドアに近づいて行った。
「……………………ふぅ」
釣られるように、俺は片手を上げてノックをしようとする。その時、俺はハッと息を呑んで自分の行動を顧みた。
何をしているんだろう、俺は。なんで氷の部屋に入ろうとした?
そもそも今なら彼女は寝ているはずだし、そんな深夜に女の子の部屋に入るなんて誤解を招きかねないし、入る理由すらないというのに。なのに……なんで?
そして、そんな風に俺がドアの前で突っ立っていた瞬間。
キィーとドアが開く音がして、最悪のタイミングで俺たちは目が合ってしまった。
「ひゃっ!?!?ご……ご主人様!?」
「うわっ!?あ………………」
氷にしては珍しく大きな声。
よほど驚いたのか、彼女は床に倒れそうなほどの勢いで後ずさっていた。さすがに倒れてはなかったけど啞然とした表情に変わりはなくて、俺は言い訳を考えるために必死に頭を捻る。
「あ………その、あの!そ、そう!悪夢、見てるかどうかが気になって………それで」
「…………………」
「そ、そもそも氷こそなんで起きたの?」
「………………っ」
暗闇の中、氷は少しだけ顔を伏せてから震える口調で言ってきた。
「……ご主人様がまた無理をなさらないよう、注意をするために起きたんです」
「……本当に?」
「あ、当たり前です。ご主人様、ちょうどこれくらいの時間になるとエナジードリンクを飲むじゃないですか。ちょうど、深夜の1時に」
「…………………………」
なんで全部把握されているんだ。いや、これはもう怖いくらいだけど。
「……ご主人様こそ、なんで私の部屋に?」
「えっ?い、いや。さっきも言ったじゃん。氷がちゃんと眠っているか確認するために―――」
「本当のことを言ってください」
俺のちっぽけなウソを塞ぐように、氷の声が響き渡る。
「本当のことを、言ってください」
そのまま、氷は俺に一歩近づいて。二歩近づいて、俺を見上げてきて。
俺が少しだけ身を屈めたらキスができそうな近い距離で、俺にそう言って来た。
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