第28話 私のご主人様がタクシーに乗る理由
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「……ゆ、夕飯が冷めてしまいますから。別に、他の意味があるわけではありませんから……』
『……分かった、早く行くね』
「……はい」
電話を切って、リビングの壁掛け時計を一度見てからようやく、私は深いため息をつきます。ソファーにもたれかかって、私は一人でいる家の中を目で見渡しました。
部屋が4つもあるこの広々とした家は、一人で過ごすには不気味なほど静寂に包まれていて、いたたまれないです。
だからと言って、露骨に早く帰ってきて欲しいというなんて……本当に私はバカで、愚かで、感情のコントロールが全くできない人間だと思います。
……私は、曇り空みたいな心を抱えたままスマホで何かを検索し始めました。
「羽林紫亜……」
さすがは、森住さんとご主人様が高く評価した人物だからでしょうか。
彼女は既に人気アーティストと言っても遜色がないくらいの実績を出していて、彼女が出した曲の中では、音楽に興味のない私ですら聞いたことのある曲がありました。
そういえば、校門の前でみんながざわつきながら羽林紫亜が現れたと言っていましたよね。
その人たちの中にはサインももらっていた人もいて、彼女がご主人様を連れて行ったという事実も、自然と耳にすることができました。
間違いなく、音楽の話なのでしょう。私の手の届かないところで、私がどう背伸びしたって決して入ることのできない世界で、二人は今も音楽の話をしているはずです。
そのことを悟った瞬間、心の中に浮かんでいた雲が段々と黒ずんで行って、私を侵食していきます。
「…………………………可愛いな」
彼女はどんな人が見ても美人としか言いようがないくらい可愛く、目鼻立ちが整っていて、明るい印象を持っていました。
目が真っ赤で陰険な私とは何もかもが真逆で、きっと周りの人から多く愛される人間なのでしょう。ポジティブ、自信という言葉を具現化にしたような人。
彼女がインタビューしている映像を見ながら、また彼女の明るい音楽を聞きながら、私はずっと思います。
なんで、こんなに落ち込んでいるのでしょうか。
なんで?本当になんで?彼女が私より可愛いからって私になにか影響があるわけでもないのに。
彼女がどんな人間であれ、どんなにすごいアーティストであれ、私には全く関係のないはずなのに…………………………いや、違います。
……分かっています。はい、もう認めざるを得ません。
私は、嫉妬しているのです。
ご主人様と同じ世界に住んでいる彼女のことが妬ましすぎて、羨ましすぎて……彼女に向けるはずの矛先を、自分自身の醜さに向けているのです。
「………クマさん」
私はスマホをソファーに置き、自分の部屋に行ってベッドに横たわっているクマさんを取り上げました。そのままリビングに戻って、抱きしめて、顔を埋めてため息をつきます。
これは、ご主人様がくれたものです。私のためにご主人様が悩んでプレゼントしてくれた………ふぅ。
本当に惨めで、無様で、なにをしているのかよく分かりません。
嫌です、こんな弱ったらしい自分なんて嫌。なんで心が揺らぐの、なんで。ご主人様はいるべき世界にいるだけ。会うべき人間に会っているだけ。
私は……私はご主人様の会うべき人間ではないから。
「………………」
ぼうっとしたまま、ただただクマさんをぎゅっと抱きしめながら天井を見上げます。
こんなにも空虚で憂鬱になったのは、この家に来てから初めてかもしれません。
私はジッと目をつぶって、再びクマさんの首筋に顔を埋めました。そして、正にその瞬間。
スマホの振動の音が、私の意識を引き上げてきます。
「……!」
差出人はご主人様で、私はただちに通話ボタンをクリックしました。
「はい、ご主人様。私です」
『えっ、あ………うん。いや、こんなに早く出るとは思わなかったな、ははっ』
「………どうされましたか?なんでお電話を?」
『あ、せっかく外に出たんだからなんか美味しい物でも買いに行こうかなと思ってね。食べたいデザートとかはない?』
「……いえ、特にありませんが」
『そう言わずに。パンケーキとかドーナツとか、もしくはイチゴショートとか。氷、甘い物好きなんでしょ?』
「……なんで、それを?」
『一緒に住んでると何となく分かるんだよ。プリンを食べてるときの氷、地味に幸せそうにしてるからさ』
「…………………」
……ウソ、こんなのウソです。
なんで、なんであなたはそんなにも細かに私を見ていたのですか。羞恥心と嬉しさが入り混じって、言葉が上手く喉を通りません。
『要望がないならドーナツ買って行くね。あ、ちなみに夕飯のメニューなにか教えてもらえるかな?』
「……カツカレーにしようと思いますが、他にご要望がありましたらぜひ」
『ううん、カツカレーか……まあ、氷が作ってくれるなら美味しいはずだし、不満はないよ』
「………」
こんなにもべたな台詞が自然と喉から出てくるあたり、やっぱりこの人は罪深い人間だと思います。
しばらくたって興奮がおさまると、ふと私の頭の中にある事実がよぎりました。私は少し目を見開いてから聞きます。
「そういえばご主人様、羽林紫亜さんと一緒にいるんじゃないんですか?どうして今電話を……」
『あ、さっき別れたんだ。とりあえず何曲か送ると言質取られて、コンセプトは後にメールで送ると言ってたからさ。向こうもこの後に仕事あるみたいだったし』
「……そうですか」
『うん、じゃドーナツ買って行くね』
「……………………ご主人様」
『うん?』
「その……いつ帰っていらっしゃるのか、時間を教えていただいてもよろしいでしょうか」
『あ、確か電車だと一時間くらいはかかりそうだけど……どうしたの?』
「………いえ、なんでもありません」
『…………』
1時間、1時間ですか……そうですね。長いと言えば長いですが、その間に料理の準備をしていたらきっと、間に合うでしょう。
大丈夫です。仕事だけしていれば、嫌なことは忘れられるから。
そうやって自分の心をなだめて、私はそろそろ電話を切って立ち上がろうとします。
ですが、ご主人様は私の行動を遮るように言ってきました。
『タクシーで行く』
「………………………………はい?」
『ドーナツ買えばもっと時間かかるだろうし、タクシーで行くね。その方が俺も早く休められるし』
「い、いえ!でも、お金が……」
『さっき依頼を受けたから、そのお金でなんとか埋め合わせできるんじゃない?』
「……………」
わざとです。
絶対に、ご主人様はわざとタクシーを乗ろうとしています。一緒に住んでいると自然と分かってしまいますから。
ご主人様は普段からあまりお金を使わずに、節約する習慣がもう身についていることを。持っているお金の割にはケチと言ってもいいほど、自分自身にお金を使わないということを。
この人はいつも、私のためにお金を使おうとします。
それは、私にとっては毒に近い優しさで、背筋がゾッとするくらいのあどけなさで。
それでも、私はクマさんをもう一度抱きしめたまま、言うしかなくなります。
「かしこまりました。では、私は今から食事の準備をしておりますので」
『うん、いつもありがとう。氷』
「………………………はい」
泣きたくなるほどの感謝と優しさを注いでくるこの人の名前は、美空直。
私を昔に一度救ってくれた、私のご主人様。たぶん、今の私の居場所。
死んでも認めたくない思いがどんどん溢れて来て、私はそれに蓋をするように立ち上がって、キッチンに向かいました。
ご主人様が買ってくださったクマさんを、大事に抱えながら。
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