第26話  私のご主人様に送った誓いのキス

冬風ふゆかぜ こおり



中学の頃のご主人様は、今よりはもっと純粋な瞳をしていました。


母の病室にお見舞いに行った時、私は学校の制服に身を包んでいるある男の子に出会います。


その男の子は私を見るなり目を丸くさせて、私のお母さんに一度目を向けて、小さく目礼をしてきました。彼の隣には、とても暖かい印象を持っているおばさんが微笑んでいました。



『……こんにちは』

『はい、こんにちは』



それが、美空君……いえ、ご主人様との初めての出会いでした。


私は純粋に驚きました。彼が私と同じ中学校に通っている事実にも驚きましたし、まだ2人室の病室を使って三日も経ってないのに、既に仲良しになっている互いのお母さんたちの関係にも驚いたのです。


私のお母さんと美空君のお母さん……綾子あやこさんはいつも昔馴染みのように笑い合っていたました。


病室に行くたびに私は二人の仲の良さを見せつけられて、自然と私と美空君の間にも接点が増えていきました。


もちろん、お母さんたちにからかわれるのが嫌で病室では話さなかったのですが……お見舞いを終えて、病室から出てお互いの家に向かっている最中には少しずつ、会話を交えたのです。



『美空君、ギターも弾けるんですか?』

『まあ、ある程度は。プロのレベルにはまだ及びませんけどね』



歳相応ではない、敬語だけを使うその礼儀正しい彼が、私は嫌いではありませんでした。


私は昔から誰に対しても敬語だけを使っていて、それを変に思う人々に何度も会ってきました。でも、美空君はいつも敬語を返してくれて、決して線を越えずに私を尊重してくれることが感じられて。


それで、私は少しずつ美空君に心を開いたのです。互いのお母さんたちに余命宣告が下されても、二人だから乗り越えられたんだと思います。


唯一の家族であるお母さんを失う怖さに泣きたくなっても、美空君を見てると少しは心が楽になりました。


私と似たような人間が傍にいることに、私は強い安心感を覚えていました。動質感を、抱きました。


それから半年くらいが経ち、美空君と綾子さんに出会った夏が過ぎて、秋のもみじが姿を消して、完全な冬になったある日。



『………心の準備を、しておいてください』



お母さんが喀血かっけつをし、結局集中治療室に運ばれたその瞬間。


その時の私は文字通り崩れて壊れて、病院の隅っこで跪いてただただ泣いていました。


死、という文字が心に強く影を差して来て、小さな希望はお母さんのどす黒くて赤い血に塗りつぶされて、私は再起不能になっていました。


美空君はずっと、そんな私の傍を守ってくれました。



『…………どっか行って』

『…………』

『どっか行ってよ!!目の前から消えてよ、お願いだから……ああ、ああぁ…………』

『…………』



酷い言葉をかけられても、胸元を叩かれても美空君はずっと、私を見守ってくれました。


結局、ある程度理性を取り戻した私はその次の日に学校で彼に正式に謝罪をして、夜にあの丘に行ったのです。


幻想的なほどに星屑が散りばめられている、お見舞いが終わった時にいつも二人で行っていた、あの二人だけの丘に。



『先生曰く、俺の母さんももうすぐだって。まあ、あれくらいやつれていたら嫌でも分かるけど』

『………………………美空君』

『……どうすればいいのかな』



あの時、美空君は初めて弱音を吐いていました。



『……ずっと、覚悟してたはずなのに。頭の隅でいつも、考えてたのに……あはっ、できない。できないや。なんで、なんで…………………なんで死ぬんだよ、なんで………』

『………………』



唯一の家族を失って、一人になった少年と少女。


私たちに頼れるものなんてありませんでした。理不尽な人生は私たちに何もかも奪って、嘲笑うかのように私たちを孤立させます。


いくら涙を流しても何も変わらなくて、理不尽さに対するもやもやも解消されないまま、朽ちて行くだけの人生。


その無力感に打ちのめされて、私たちは何時間も泣きました。互いの目元がはれ上がって喉が痛くなって声が掠れても何度も、何度も、私たちはあの丘で泣いたのです。


それでも、傍で誰かが一緒に泣いてくれることが嬉しくて、私は。



『……あの、美空君』

『……うん?』

『ギター、弾いてくれませんか?前に病室で弾いてくれたあの曲を、もう一度聞きたいです』



つい、そんな突飛な言葉を発してしまったのです。


我ながら、言った傍からバカな願いごとをしだと感じておりました。でも、私は病室で美空君の歌を聞くのがとても好きだったのです。


カーテンが風に揺らされている中、広い2人病室の中央でギターを弾きながら歌っている美空君の姿も。母さんも綾子さんも笑いながら拍手を打っていた、その瞬間も。


美空君は、ぷふっと噴き出しながら一度顔を伏せた後に、空を見上げながら言いました。



『ギター、いつも持ち歩いててよかった』



アダム・レヴィーンのLost Stars。


道に迷っている私たちにはとってもお似合いな、感性的な旋律が悲しみを切り裂いていきます。


私は涙に塗れた顔で、歌っている美空君の横で笑いながら、星空を見上げました。


その日から三日も経たずに、私の母は死にました。その後を追うように1週間も経たないうちに、綾子さんも亡くなりました。


病室の旋律は思い出の1ページになって、埃を被った古い文庫本のように忘れられて行きます。綾子さんの葬式で出会ったのを最後に、私たちは学校でも会話を交えず互いの人生を歩んでいました。


あの丘での夜は綺麗な装飾で飾られていて、私が辛かった時にいつも素敵な慰めになってくれました。


だから、死ぬ前にあの丘で飛び降りたかったのです。でも、その時に私は美空君に出会ってしまい、お金で買われてしまって、美空君という呼び方からご主人様という呼び方をしなきゃいけなくなりました。


その主人の、少しの狂気に満ちた瞳と後姿を見ながら、私は思います。


この人も、私のように絶望していたかもしれないと。


一人だけの世界、この部屋に閉じこもって体を酷使させながら魂を枯れさせて、徐々に死んで行ったのかもしれないと。そんな風になってしまう人間だと、私は3時間も主人の後姿だけを見つめながら結論を出したのです。


私には、分かりません。


ご主人様がなんで私を救ってくれたのか、なんでキスまでしたのに私を追い出さないのか。なんで、外に目を向けずにこの部屋に閉じこもっているのか。


でも、この部屋で3時間も眠らずにいる内に、ほのぼのとした概念がちゃんと輪郭を得て、確かなものになっていき。


私の中で、ある炎を灯しました。



「…………え?」



気づけば私はご主人様の頬に両手を添えていて、音楽に狂って焦点がなくなっていたご主人様の目は徐々に色を取り戻して、私に向けられます。


そして、私は言います。自分を大事にしてくださいと。自分を大事にしないご主人様は嫌いだと。この先、この人のことが嫌いになるはずはないと心ではちゃんと分かっていながらも、くだらないウソをつきながら。


そして、ご主人様も言います。自分を否定するメイドは嫌いだと。私は優しくしなででと言い、ご主人様は私が心配することをやめたら善処すると、言いました。


本当に、バカな人です。


こんなにも危なっかしいくせに心配するなと言うなんて、バカとしか思えません。私はこの先ずっと、この人を心配し続けることになると確信しました。


だから、私はキスをします。長く長く、誓いのキスを送ります。


あなたが私を捨てない限り、私はあなたをずっと見守りながら心配すると。


あなたが一人の世界に飛んで行かないよう、私があなたと現実を繋ぐ架け橋になると。


何があっても、どんなことが起きてもあなたを幸せにすると。



「カフェインより効果あるかもね。眠気飛んで行っちゃった」



こんなにも多くの感情を込めて送ったキスなのに、彼はこんなしれっとした反応を見せます。


だから、私は少しだけムキになって言いました。



「バカを言わないでください」



それから自分の部屋に戻り、私はドアを背にして、文字通り崩れ堕ちました。



「ふぅ、ふぅ……ふぅ……………」



自分でも分かるくらい顔は熱くて、心臓は激しく鳴っていて、片手で胸元をどれだけ強く抑えても鼓動が鳴り止みません。


キスは気持ちがよくて、唇が包まれる感覚が何度も勝手に反芻されて、体が熱を浴びてどんどん、私は堕ちていきます。



「美空、君………ご主人様ぁ……」



メイドとして抱いてはいけない感情が頭をもたげ、私は何度も呼吸を重ねました。


この時、私は確実に悟ったのです。私は、たぶん………いえ、間違いなく。


本当の意味で、ご主人様の所有物メイドになって行ってるのだと。


あの人の傍からは離れられないと、確信したのです。

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