第25話 俺のメイドが部屋にいた理由
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たまに、音楽に呪われているんじゃないかと思う時がある。
俺にとって音楽は、隣にいるのが当たり前な概念だった。俺は色々なサウンドが溢れる家で生まれてきて、ピアニストだった母の影響で4歳からピアノを習った。
父にギターの弾き方を覚えて、様々な海外のアーティストたちの曲を楽しんで、家には当たり前に楽器やシンセが置かれていて、俺はどんどん音楽の世界に飲み込まれて行った。
それから母が亡くなって、父を軽蔑している俺は今も、機械のように音楽に身を揺らしながら頭の隅で分析をしている。
落ち着いた雰囲気にアコースティックなサウンドを入れて、サビにはEDMのドロップを入れることでウケを狙っている曲。
浮き沈みが激しいけどその違和感を声で塗りつぶして、徹底的な計算づくでできている音源だと…………まるで俯瞰するように曲を解剖しながら。
『………直』
そしてお母さんはいつも、こんな俺の姿を見るたびに悲しそうな表情をしていた。
外に出て、もっと色んな友達と遊びなさい。普通の人生を歩みなさい。あなたの気の向くままに生きてていいから。
今になって思えば、母さんは俺が音楽をやるのに複雑な思いを抱いていたのかもしれない。自分の夫が音楽狂いだったから、なおさらそう思ったのだろうか。
でも、これは俺にどうこうできる問題じゃなかった。
「…………………ふぅ」
もうキリキリに痛む胃の中にまたエナジードリンクを流し込んで、短い息をつく。
またピアノのサウンドをいじって、ドラムのサウンドを調整して聞いて、またいじって聞いて。執着と強迫的なほどに完成されたサウンドを追い求めながら、俺はただただ音に身を任せる。
俺には音楽しかいないと思う。
残っているのがこれしかいなかった。家族は全員亡くなって、俺には友達もいなくて好きな人もいない。
俺は母の死の悲しみから逃れるために曲を作って、父に対する軽蔑を表現したくてサウンドをこじらせて、俺の面倒を見てくれた恵奈さんと森住さんの役に立ちたくて夜更かし作業をした。
俺と世界を繋いでいる橋はすべて音符でできていて、今さらその橋から飛び降りようとは思わない。
だから、仕方がなかった。氷が心配してくれるのはありがたいけど、俺にはこれしかいないから。
再びサンプリング用のサウンドをいじって、それをスピーカーで流そうとしたところ。その瞬間に――――
「………え?」
「…………」
ふと、頬に柔らかい感触が走って、音楽の世界に浸かっていた意識が現実に戻ってくる。
振り返れば、パジャマ姿の氷が立ったまま、複雑な顔でこちらを見下ろしていた。俺は目を見開いた後につられるように時間を確認する。深夜の4時だった。
俺は驚いた顔を崩さずに、ジッと氷を見上げる。
「……どうして?」
「……ご主人様がちゃんと寝ているかどうか確認すると、申し上げた気がしますが」
「いや、でも3時からじゃなかったの?そもそも、本当に確認するとは思わなかっ―――」
「1時からこの部屋にいました」
………は?
「1時にノックをしても返事がなくて。でも、ドアの隙間から光が漏れていたから……だから失礼だと思いつつもこの部屋に入って来たのです。でも、ご主人様は私に全く気付いていませんでした」
「………」
「だから、気になったのです。いつまで作業を続けていらっしゃるのかが気になって、床に座ってずっと見守っていました。でも、3時間が経ってもご主人様は私に気付けずに没頭していて……これ以上はさすがにダメだと思って、こうしているのです」
………なんで?
なんで氷は、こんなにも複雑な顔で俺を見ているんだろう。まるで悲しむように、昔のお母さんみたいな表情で……。
「……ご主人様」
「うん」
「自分をもっと、大切にしてください」
その言葉を聞いて、俺はさらに目を丸くしてしまった。
……まさか、元自殺願望者であった氷にこんな言葉をいただくなんて。
そんな感想と同時に、氷からこんな優しい言葉を聞けたのが純粋に驚きだった。
「……お願いです。自分を大事にしてください」
「……氷がそんなことを言うんだ」
「私はいいんです。見た目も変で性格も陰険で、なんの才能もありませんから」
「………自分を大事にすべきなのは氷だと思うな、さすがに」
「自分も体調も気にせず、体にカフェインをぶち込んでいる人に言われたくはありません」
メイドにしてはかなり辛辣な言葉だなと思いつつも、嫌な気はしなかった。そもそも、俺は氷の上に立つつもりなんていないから。
そのせいか、こみ上がってきたのは愉快な笑顔だった。
「氷、俺より起きる時間も早いんでしょ?なんで深夜に起きているの?」
「主人の体調を気にするのはメイドの義務だと、何度も申し上げましたが」
「それにしても、3時間も待つ必要はなかった気がするけどな」
「まさか、3時間も気付けてもらえないなんて思ってなかったので」
「……ごめん、それは謝るよ」
「いえ、私の勝手な行動じゃないですか。ご主人様が悪いわけではありません」
そして、氷は当たり前のようにその場で跪いて、椅子に座っている俺をジッと見上げてくる。
「ですが、自分を大事にしないご主人様なんて、私は嫌いです」
「……俺も、自分のことをいつも否定するメイドは嫌いかな」
「……私の事なんてどうでもいいじゃないですか」
「その、どうでもいいっていう言葉も嫌いかも」
嫌い、という言葉はあまり舌触りがよくない。なるべく使いたくもないし、相手が氷ならなおさら放ちたくもない響きだ。でも、俺は本当に、自分を大事にしない氷が嫌いだった。
こんなにも綺麗なのに、こんなにも優しいのに自分自身を否定し続けるなんてもったいない。彼女の環境がそうさせたのか、もしくは自己否定が彼女の根っこに刻まれているのかは分からないけど、納得できない。
だから、俺は氷を捨てられない。
自分勝手で我がままで、なんの資格もないと思いつつも、俺は彼女が生きたいという願望を胸に抱いて欲しい。
いつの間にか俺の椅子の肘掛に両手を置いている氷と、そんな氷を見つめる俺の視線が空中で混ざり合う。
この空気と静寂はキスの合図で、俺たちはどんどんお互いにハマっていく。
「……私に、優しくしないでください。お願いですから」
「……氷が俺のことを放っておいたら、優しくしないように頑張れるかも」
「……ウソつき」
その言葉を放って、氷は俺に顔を近づける。
「あなたは優しい行動しか、できないくせに」
怒りが込められたキスを受け止めて、目を閉じる。
氷の香りと、柔らかい唇の感触が体中に染みこんできて溶けて、自分のものになっていく。キスをすればするたびに俺は諭される。
俺は間違いなく、氷とキスすることが好きになっていた。
彼女を大事にしない行動だと、キスは俺じゃなくて氷の大切な人とするべきだと思いつつも俺は氷を拒まない。氷が先にキスしてきたことが多いからという免罪符をつけて、意識が音楽の次に快感の世界に飛んで行こうとする。
こんなに優しくてきれいな氷を誰にも渡したくないと、そう思ってしまいそうになる。
キスは長く続いて、先に唇を離したのは氷だった。ずっと顔を伏せたまま聞こえないように深く呼吸を整えるけど、何の音も流れていないこの部屋では息遣いの音が鮮明に響く。
俺も氷に負けないくらい、息遣いが荒かった。
「………キスってカフェインより効果あるかもね。眠気飛んで行っちゃった」
「バカを言わないでください」
きっぱりと切り捨てて、氷はますますメイドの仮面を剥がして素を見せてくる。
そして、2年前に見たことがあるその素は間違いなく、可愛いものだった。
「……もう、私は自分の部屋に戻りますので」
「うん、おやすみ」
「……………………」
「………分かった。作業はここまでにする。どうせ集中できそうにないし」
「それはよかったですね」
立ち上がって背を向いて、彼女はドアの方に足を向ける。
部屋を出る前に、二つのモニターの光に照らされた彼女の耳は。
「……おやすみなさいませ、ご主人様」
暗い空間でもはっきり見えるほど、赤くなっていた。
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