第22話 私のご主人様が怒った時
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誰かのために弁当を作るのはこれが初めてかもしれません。
不思議な感覚に浸りながら、私は自分用の弁当箱とご主人様用の弁当箱を眺めます。弁当のメニューは必然的に夕食のメニューの余り物になってしまいますが、明け方に起きて新しいおかずを二つくらい追加すれば問題はないでしょう。
時間は午後の6時50分。私は本格的に、料理に取り掛かります。今日の夕食は野菜、カレー、ポテト、カニクリームや肉など、様々な具を入れたコロッケ定食です。
もう馴染んでしまったキッチンで包丁を扱いながら、私は今日の出来事を頭の中で振り返りました。
『あ、美空君また一人だ』
『んん~~なんか浮世離れしてるよね、美空君。ま、でもいい感じじゃない?』
『それで、どうすんのさ?美空のこと好きでしょ?』
『しーっ!!し―――っ!!な、なんでそんなこと学校で言うかな!聞かれたらどうするつもり!?!?』
『あははっ、ごめんごめん。でも大丈夫だって。こんなうるさいし!』
……ご主人様のことが好きなそのクラスメイトは、私とは違っていつも明るく、クラスで一番目立つグループに属している子です。そう、陰険で可愛げのない私とは何もかもが違う、雲の上の人間。
そんな人がご主人様のことが好きだなんて、初めて聞いた時は驚きました。でも、すぐに納得してしまう自分がいて、複雑な気持ちになります。
私はご主人様に嫌われたいのですが、同時に私はご主人様のことが………嫌いではありません。
彼は、それなりに魅力的な男だと思います。いつも飄々としているけど話しかけたらちゃんと会話もできて、大人しくて、それなりに顔立ちも整っていて。彼は口を開くと優しい雰囲気が滲み出るタイプの人間なので、恋に落ちてしまう気持ちも分かります。ええ、私は落ちていませんが。
……なのに、なんでこんなに胸ねの辺りがもやもやするのでしょう。
「…………………」
別に、ご主人様を独り占めしているつもりではありません。
独り占めしたいとも思いません。そもそも、ご主人様は私が到底追いつけない雲の上にいる人間です。国民的なアーティストの一人息子で、高校1年生で既に天才作曲家として知れ渡っていて、水浦恵奈さんという有名な歌手さんとも親戚で………その事実を噛みしめるたびにどんどん、心の中でご主人様が遠くなっていきます。
正しくは身分の差、と表現した方がいいかもしれません。私は行く先もないまま彷徨って、運よくご主人様に拾われた怪物。
ご主人様は白馬の王子……みたいなタイプでは全然ないのですが、とにかく私を救ってくれた心優しい方であることは、確かです。
一緒に住んでいるとどんどんその辺りの感覚が薄まって行って、まずいと思います。私がご主人様のおもりになってはいないのかと。
「………………っ!」
そんな邪念に囲まれながら包丁を扱った罰でしょうか。
つい左の親指を切ってしまって、私は反射的に包丁を下ろして指を包みます。赤い血が滲み出て来て、深くはないけどそこそこ切ってしまったという事実が分かりました。
そして、まるでそのタイミングを見計らったように、ご主人様が姿を現せました。
「えっ、どうしたの?」
「あ………………」
「もしかして指切った?見せて」
………どうして、このタイミングで現れるんですか。
恨み言を述べたいところですが、私にそんな資格などありません。羞恥心を抱きながらも、私はご主人様に指を見せました。
ご主人様は本当にしれっと、私の手を自分の手で包んできます。
「けっこう血出てんじゃん……ちょっと待って。救急箱ってどこにあったっけ………」
「だ、大丈夫です。これくらい水で洗えば―――」
「………………氷?」
「っ……」
珍しく、不機嫌に眉根を寄せるご主人様にぐうの音も出なくなります。ご主人様はすぐに、今は使われていない大きい部屋に入ってガタガタと何かを探し始めました。
しばらくぼうっと立ちすくんで待っていると、ご主人様は片手に救急箱を持ったまま私の手首を掴んできます。
「ごめん、失礼」
「えっ……」
そのままシンクに誘導されて、傷口が流水を浴び始めます。
襲ってくる痛みに顔をしかめつつも、私は自分の手と手首を包んでいるご主人様の手に精神を奪われてしまいます。ご主人様はいたって真剣な顔で私の指を見た後、顔に目を向けてきました。
「痛くてもちょっとだけ我慢してね」
「……はい」
水で洗っていた傷口はすぐに軟膏と絆創膏に塞がれて、私は不思議な感覚で自分の親指を見つめました。
治療を終えて、後片付けまで全部終えたご主人様はテーブルの上に並んでいる食材を見た後に、言ってきました。
「今日は宅配ピザでも食べようか」
「……………いえ、大丈夫です」
「でも、何気に不便でしょ?まだ切るものたくさん残ってるし」
「今日のうちにコロッケの下ごしらえをしておかないと、明日の弁当のおかずが無くなってしまいますが」
「それでもいいよ?俺元々昼休みは寝てるか、購買のパン食べるかの二択だし……ああ、氷自身の弁当のためなら仕方ないけど」
「…………………」
今度は私が不機嫌なように目を細めてから、ご主人様を見上げました。何か可笑しいのか、ご主人様は肩を竦めたまま苦笑を浮かべるだけです。
……この人はきっと、分かっているんだと思います。
私が料理することに執着している理由を。もちろん、今日の夕飯も大事ですし明日の弁当も大事ですけど、私が自ら何かをする行為にはそれなりの意味が込められています。
義務を果たすために。
メイドとして、お金で買われた身としてちゃんとそれに見合った行動をするために、私は料理をしています。洗濯も掃除も、他の雑用もすべて。
でも、この人は本当にしれっとその義務を私から奪おうとします。それが当たり前だと、思っています。自分が主人なのに。
「……分かった。分かったからそんな怖い目しないで。大人しく部屋で待っているから」
「……………不愉快でしたなら、申し訳ございません」
「ううん、いいよ。そういえばさっきけっこう絆創膏見てたけど、どうしたの?もしかして俺に巻かれて不思議だったとか?」
「あ…………………そうじゃなくて」
茶目っ気たっぷりに投げられた質問に、昔のある場面が呼び起こされます。
叔母さんの家にいた時のことです。あの時も今みたいな冬でしたけど、もっと寒かったような気がします。家の中も、外も。
「前に、ミスして指を切ったことがあるんです。叔母さんのお家で」
「………………」
「その時は、家に絆創膏がないって言われてコンビニまで行って、自分で絆創膏を貼っていましたから。それをなんとなく、思い出して」
今も鮮明に思い出せます。私が指を切った時に見せた、叔母さんのあからさまにめんどくさがる顔。次に飛んでくる僻みとため息と、絆創膏なんて家にないから外で買って来なさいという言葉まで。
コンビニのガラスに映った、やつれている自分の顔さえも。
「………………………………絆創膏もいない家なんて、あるんだ?」
その声を聞いた瞬間、私は目を見開いてご主人様を見つめました。さっきまで軽くて愉快だった笑顔はどこに行ったのか、恐ろしいほど凝り固まって冷たい表情が、視界に入ってきます。
「……その、私は大丈夫ですので」
「………………」
「……本当に、大丈夫ですから。余計なことを話してしまって申し訳ございません」
「……………………」
……この家に来た以来、沈黙がこんなにも怖かったことなんてなかったかもしれません。
それほどご主人様は怒っていて、何度も深く息をつきながら精いっぱい気持ちをコントロールしようとしていました。やがて、ご主人様は顔を伏せたまま言います。
「……君のせいじゃないよ」
「はい?」
「君のせいじゃないから。君の人生で起きたこと……すべて」
言葉の意味をすぐに掴めずに呆けていると、ご主人様はようやく顔を上げてさっきよりは柔らかくなった顔で、言いました。
「ごめん、俺が怒る場面じゃなかったね。部屋に戻ってるから、出来上がったら呼んで」
「……はい」
「それじゃ」
ご主人様はすぐに背を向けて、私から去っていきます。リビングに一人取り残された私は自分の親指に貼られた絆創膏を見下ろしながら、自分の胸元に手を添えて見ます。
「……………………ふぅう……」
……息で吐かないといけないくらい、心の奥から何かがこみ上がってきます。
知りたくもない感情に、名付けたもない気持ちです。なるべく、ずっとそっぽを向いていたい衝動です。
勘違いしないために、うぬぼれないために、私はもう一度呼吸を整えてから包丁を掴みました。
この厄介で暖かい何かを、ずっと無視するために。
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