第20話 私のご主人様は私を捨ててはくれません
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「すぅ……すぅ……んん……」
……本当に、この人には警戒心というものがないのでしょうか。
そう思ってしまうほど、ご主人様は無防備にソファーで眠っていました。初めてキスをした時と同じように、ソファーで横になって片腕で目元を隠して。また、私と映画を見ている途中に寝落ちして。
既視感がありすぎるこの状況にさすがに呆れて、私はため息をついてしまいます。神経が隣で眠っているご主人様に注がれているせいで、映画の内容が全く頭に入ってきません。
特段と映画が好きなわけではありませんが、一度目にしたからにはしっかりエンドロールまで見届けたいものですから……困ってしまいます。結局、私は一時停止ボタンを押しました。
「すぅ……すぅ……」
「……………全く」
ある意味、ご主人様が寝てしまうのは当たり前だと思います。睡眠時間も不規則な上に普段あれだけエナジードリンクを飲んでいますから……気が緩んだ途端に眠くなってしまうのは仕方がないのでしょう。
明日からは学校が始まるので、また居眠りしないようにちゃんと寝て欲しいところですが。
……そういえば、ご主人様があんなに頻繁に遅刻をした理由は深夜作業のせいでしたね。授業中によく居眠りをするのも、深夜に曲を作っていたから……全く。
「……………ご主人様?」
「んん……すぅ……」
「……寝るなら、ふかふかなマットの上で寝た方がいいと思いますよ?」
起こさないようあえて小さな声を出しながら、私はご主人様に近づきます。広くて大きいソファーの上でも距離は一瞬で縮まって、私はご主人様の寝顔をジッと見下ろします。
最近、自分がキスをする理由が分からなくなりました。
約10日前、この場で初めてキスした時は捨てられたいからというちゃんとした理由がありました。我がままで身勝手ではありますけど、あの時はちゃんと理性を保ったままキスをしていました。ちゃんと、この家から追い出されるのを期待して。
でも、ご主人様がぬいぐるみを買ってくださったあの日。トイザらスで、ムカついて、ご主人様をもっとひどい目に会わせるためにしたあのキスから、なにかが変わりました。
その感情は捨てられたいという願望ではない、別の形をしています。自分が望んではいけないと思う形に……なっていきます。
私は何も分からなくなって、また迷ってしまいます。
「……起きてください」
「……………」
「……早く、起きてください」
段々と、ご主人様が大きくなっていきます。
不規則な生活にイラついて心配になってしまいます。危うくて目をそらさなきゃいけないと思ってしまいます。無機質なお金だけが介在している主従関係に、別の不純物が混ざり始めます。
私はこれを否定したくて、否定するには甘すぎる何かだとちゃんと分かっています。
キスは気持ちよくて、邪険に扱われるよりは優しくされるのが嬉しいから、嬉しいです。温もりの侵食は始まっていて、今でもこの家から出て行かなきゃと思ってしまいます。
私はもう、ご主人様とキスするのに抵抗を感じていません。きっとご主人様も、私と同じだと思います。キスでご主人様の嫌悪感を及ぼせないなら他の手段を取るべきだと、頭では分かっているのに。
それでも、私はまるで取りつかれたように身を屈んで、ご主人様の唇を奪いました。
「ん…………」
「……………」
カサカサだった唇が少しは柔らかくなったのに安心するべきでしょうか。それとも、とんでもないことをしている自分を責めるべきでしょうか。
本当に、何をやっているのでしょう。私は。
私とご主人様は恋人でもないし、平等な関係でもなく、単なる主従関係です。目的と理由があってもキスをしてはいけないのに……私は、唇を重ねています。
一度唇を離すと、ご主人様はゆっくりと目を開けて私を見上げました。垂れて来た私の髪に頬が触れてこそばゆいのか、ご主人様は苦笑を滲ませながら私に問いかけてきます。
「……案外、目覚まし代わりになるかもね。キスって」
「……おはようございます」
「何時間寝てたの?俺」
「そんなに時間は経っておりませんから、早くご自分の部屋にお戻りください。寝るなら明かりが付いているここより、作業室の方がいいと思いますよ」
「……眠気吹っ飛んだけどね、誰かさんのおかげで」
「それは………」
ドクン、ドクンと心臓が早鐘を打つのが分かります。
至近距離で見つめ合って、顔を離そうとしたらご主人様が私の髪を耳にかけてくださって、ぴたりと動きが止まります。意地悪な言葉を言った本人は、メイドにキスをされたというのに子供みたいな笑みをこぼしています。
「明日から学校だね、氷」
「……そうですね」
「睡眠時間足りなかったら朝ごはん作らなくていいからね?あ、ちなみに弁当も大丈夫だよ。俺、昼休みには大体寝てるし」
「……分かっております」
「そりゃそうか。同じクラスだし」
この人は一体、何を思っているのでしょう。
私のキスをあっさりと受け入れて、もうそれが当たり前だという顔をして。ねちっこく追及されるよりはいいのですが、釈然としません。
私は、私がされたようにご主人様の前髪を少しかきあげてから言います。
「キス、嫌じゃないんですか?」
「……うん?」
「私、もうとっくの前から線を越えていると思いますが……なんで、何も言わないんですか?」
「……………」
ご主人様は何も言わずに私をジッと見つめます。私も口を開かずに、自分の真っ白な髪を耳にかけてからご主人様を見つめました。
私はたぶん、ご主人様と見つめ合うこの時間が好きで、ドキドキしていると思います。引き寄せられるように私はまた唇を近づけて、ご主人様はまた何も言わずに目を閉じて、距離がなくなります。
互いの息遣いと匂いと、熱が混ざり合って体に流れ込んできます。私もご主人様もどうにかなっていると思いつつも、私は唇を離しません。もっともっと触れ合いたい欲望を押さえつけて顔を離したら、ご主人様の優しい声が響きます。
「……昨日は、よく眠れた?」
「………………………」
ご主人様に悪夢を見ていることをバレたあの日から。ぬいぐるみを買ってくださったあの日から一日も欠かさずにいただくこの質問に、言葉が詰まります。
私はこの人に嫌われたいのに、嫌われたくないと思っています。
拒否されたくもないと思っています。人に嫌われるよりは好かれたいと思うのが当たり前かもですが、私の感情はそういう一般的な概念とはちょっと違う気がします。
これはたぶん、願望です。もちろん、そんな願望を抱いていながらもキスをしてしまうところが、頭がいかれてる部分だと思いますが。
「ご主人様こそ、ちゃんと深夜の3時前に眠られましたか?」
「……質問に質問を返さない」
「……ちゃんと、寝られました。ぐっすり」
「ウソじゃないよね?」
「当たり前じゃないですか。主人の命令にウソをつくメイドなんてあり得ないので」
「信頼ならないからね、うちのメイドさんは」
「………………………じゃ、今でも私を捨ててくださいますか?」
胸が締め付けられる感覚に陥りながらも、私はその言葉を口にしてみます。そして、ご主人様はほとんど間を置かずに返事をくださいました。
「ううん、そんな事態は起きないよ。絶対に」
「……そうですか」
「……さっきの質問の答えだけど、ちゃんと3時前に寝た」
「そうですか」
捨てないという言葉に安心してしまう自分なんて浅ましくて、脆い人間だと思います。
そして、そんな脆い私はまたキスの感触に逃げようとして、目を閉じて主人の唇を奪います。
「ん……ちゅっ」
「…………」
背中にご主人様の両手が回されるのを感じて、心臓がドクンと鳴り出します。それを嫌だと感じられないあたり、私も大概狂っていると思います。
優しくハグされて、唇をついばんでついばまれた後、私はなにかを話すために唇を離しました。
「……お弁当は、ちゃんと毎日作りますので」
「……俺、昼休みには寝てると言ったのに?」
「栄養バランスを取るのも、睡眠ほど大事なことですからね」
ご主人様はいつものように、困った顔で笑っていました。そして、その姿を見ている私は言いようのない高揚感に包まれて、目をつぶってしまいます。
捨てることは絶対にないと断言されて、心の奥で喜んでしまう私なんて。
本当に、くだらなくて惨めだと思いました。
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