第19話 俺のメイドが心配してくる理由
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もうすぐで冬休みが終わる。
学校が始まったら作業に集中できる時間も減ってきて、音楽にだけ焦点を合わせられない。嫌でも俺は毎朝7時半に起きなければならないし、高校を卒業しなければならない。
それが、俺にとって唯一の家族であった母さんと交わした、最後の約束だった。
『ちゃんと高校は卒業して……いっぱいいっぱい、友達も作って、素敵な人とお付き合いもして、そうやって……普通に、幸せに生きるのよ?直……』
死に際、俺の頬を撫でながら涙を流していた母さんの遺言。
その母さんには申し訳ない話だが、俺には友達がいない。たまに教室で挨拶したり話したりするやつらはいるけど、友達かどうかと聞かれれば微妙なところだ。もちろん彼女もいないし、自分がこの先幸せに生きられるとも思えない。
普通って、幸せってなんなんだろう。その辺りの概念を俺は全く呑み込めない。何をすれば普通になれて、何をすれば幸せになれるのか。幼い頃から、俺には家に帰って来ない父親と体が弱かった母さんと、音楽しか残っていなかった。
クラスメイトたちが楽しそうに話しているところを見ても、どこか距離感を抱いてしまって。愛がどうとかテストの結果がどうとか、あまり理解できないものばかりで………そのたびに俺は、音楽に逃げて。
「…………もう朝か」
そして、今の俺は徹夜して作業をするのが一番好きな、どこかズレた人間になっている。閉まっているカーテンの隙間から朝の光が映るのを見て微笑む、そういう人間になっている。
頭では分かっていた。これは母さんが言っている普通ではなくて、また母さんが望んだ幸せでもない。母さんは昔から深夜に作業している俺を叱っていたし、いつもほどほどにという言葉を使って俺をたしなめていた。
でも、音楽の世界に入り込めばそういう普通も幸せも、どうでもよくなる。
スピーカーから流れてくるサウンドに身を任せるたびに幸せになる。何もかも忘れられて、自分が合わせたパズルのようなサウンドの組み合わせに満足しながら、気持ちよさに浸っていられる。
それは祝福で快感で、どうしても諦められないゲームのようなものでもある。それがたとえ、自分ではない他人のための曲だったとしても。
俺はもう一度エナジードリンクを飲み込んで、再び音符の海に身を任せようとした。デスクに空き缶が3本も並んでいるけど、知ったことじゃない。
そうやって、再び音源ファイルをダブルクリックしようとした時に。
「失礼いたします」
―――もう馴染んでしまったノックの音と誰かの声に、集中が途切れてしまう。
椅子を回してドアの方に視線を向けると、すぐにドアが開かれて我が家のメイドさんの姿が見えて来た。真っ白な髪と真っ赤な瞳は、やはりこの暗い部屋には全然似合わない。
氷はデスクに並んでいるエナジードリンクの空き缶と俺を交互に見た後、少しだけ眉根を寄せた。
「……おはようございます、ご主人様」
「……うん、おはよう。氷」
「朝ごはんがもうできておりますので、リビングまでお越しください」
「あ……朝ごはんか」
その時になってようやく、俺はパソコンのタスクバーで時間を確かめる。なるほど、7時半……確かに学校が始まったら、朝ごはんを食べなきゃいけない時間ではあるな。
でも、今日は冬休み中だ。明日も明後日も冬休みだから、今食べる必要はない。
「ごめんね。ご飯は大丈夫だから。あ、ちなみにお昼ご飯もたぶん要らないから、一人で食べてて」
「……理由をお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「たぶん、昼になっても寝ているだろうからね、俺」
俺もさすがに機械じゃないから、適当な睡眠は必要になる。それともう一つの理由を思い出して、俺は拍手を打ちながら言葉を付け加えた。
「あ、それと……今ちょっとお腹の調子が悪くて。たぶん、このドリンクのせいだと思うけど」
「……………………」
「せっかく作ってくれたのにごめんね。でも、夕食はちゃんと食べるからそれだけ準備してくれたら―――」
嬉しいな、と続けるつもりだった。
でも、その言葉の行く先は氷の唇に塞がれてしまって、俺は目を見開いてしまう。相変わらず氷のまつ毛は長くて、香りがよくて、唇は柔らかい……唇?
……なんで、キスされてるんだ?
「………ふぅ」
「………こ、氷?」
一気に俺に詰め寄ってキスをしてきた氷は、そのまま両手で僕の頬を包んで、少しだけ瞳を揺るがせながら口を開く。
「……目の下のクマが、酷いです」
「え?」
「肌は荒れていて、唇はカサカサで、部屋は真っ暗。お腹を空かしている状態でカフェインをぶち込んだんですから、お腹の調子がよくないのも当たり前のことでしょう。睡眠もちゃんと取っておりませんからね」
「……………氷?」
「私は、自分の体調に気を付けないご主人様なんて、嫌いです」
嫌い、という言葉に口がポカンと開いてしまう。氷に嫌い、と言われたのはこれが初めてかもしれない。
でも、いざ嫌いと言った氷は顔を歪ませて、唇を震わせながら苦しい顔をしていた。
そして俺は、なんでこんな顔をされているのかが分からない。
「お昼ご飯は午後の2時に準備しておきます」
「あ、ちょっ……」
「今すぐお眠りください。カフェインが回っていて眠れないのなら、子守歌でも歌って差し上げます。今すぐに、あそこのマットレスで横になってください」
「…………………」
俺は、珍しく必死になっている氷の表情を見上げながらぼうっと考える。
不思議な感覚だった。頬に添えられている温もりはさておいても、誰かに心配されている感覚自体が久しりで、驚くほど心が揺さぶられてしまう。そもそも、氷は俺に何かを要求できる立場でもないのに。
彼女はメイドで、俺はそんな彼女を雇っている主人だ。そして、さっきの氷の口調はお願いではなく命令に近いもので、俺は彼女の言葉に従う必要がない。
でも、全く拒む気にならないのが不思議で、俺は笑いながら彼女にそっと問いかけてみる。
「……もし、俺が寝なかったらどうなるの?」
「…………それは」
律儀な彼女は、決してメイドの枠を超える言葉を投げて来ない。
メイドの枠を超える行動はしてくるけど、言葉で伝えたりはしない。そして、俺はそんな彼女の一面が好きになっている。
ゆっくりと、自分の頬に添えられている氷の両手を離してから、俺は立ち上がった。
「冗談だよ。氷はいつでも俺に何かを要求してもいいし、なにかを頼んでもいい。表面上はメイドと主人だけど、俺は別に氷の上に立つつもりもないし、振り回したいわけでもないからね」
「………」
「あ、ちなみに音は漏れなかったよね?寝ている間にうるさかったりとか……」
「大丈夫でした」
氷は俺を見上げたまま深く息を零して、言う。
「とてもぐっすり眠られましたから……大丈夫です」
「……そっか、よかった」
どうやら、プレゼントした白いクマさんにはちゃんと効果があったようだ。
そのまま、俺たちはしばらく何も言わずにお互いの顔を見つめ合った。
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