第18話  私のご主人様の歪み

冬風ふゆかぜ こおり



クマのぬいぐるみなんて、いつの日以来でしょうか。


確か、私がまだ幼稚園に通っていた頃にお母さんが大きなぬいぐるみを買ってくれて、毎晩のようにそのクマさんと一緒に寝た記憶があります。茶色で、あまりふかふかではないけど抱き心地がよかった、ぬいぐるみ。



「…………」



今日、ご主人様が買ってくださったぬいぐるみはあの日のクマさんのようにとても柔らかくて、ふわふわして、真っ白です。まさか、この歳になってまたぬいぐるみを買うことになるとは思いませんでした。


ご主人様は、いつも私に新しい何かを教えてくれます。不安でむかむかしていた心を洗い流すような、冬の風音が混じったギターの音。メイドとしての役割。唇の温もり。人の体温。


ぬいぐるみに、外食の経験。まるで夢みたいに都合がよすぎる今の生活まで。



「ふぅ…………」



夜になって既にパジャマを着ている私は、大きく深呼吸をしながらベッドに横たわって、再びぬいぐるみを抱きしめます。心の中で固まっていた何かが解かれていく気分がして、落ち着きます。


来週になったら学校が始まって、私はまたみんなの見物にされてしまいます。そして、制服姿のご主人様を見ることができるようになります。


どんどん、ご主人様が……美空直という人間が大きくなっていきます。それを自覚した瞬間、私はパタッとベッドから立ち上がりました。



「…………ダメ」



たった2週間でここまで侵食されるなんて、チョロすぎじゃないですか、私。


邪念を振り払おうと、私は広い部屋を出てリビングの冷蔵庫に向かいます。そして、その時。



「あれ、寝てるんじゃなかったの?」

「……ご主人様」



私は、冷蔵庫の照明に照らされたご主人様の姿を目にしてしまいます。


ご主人様はぎこちない笑みを浮かべた後、冷蔵庫から何かを取り出しました。手に持っているそれはエナジードリンクです。



「ごめん、もしかしてうるさくて起きちゃったとか?」

「いえ、この家はちゃんとした防音対策ができているじゃないですか。ただ……なんとなく、眠れなかっただけで」

「もしかして、また悪夢を見たり―――」

「それは違いますから。本当に、なんとなく目が覚めていただけです」



……あなたが私に買ってくれたぬいぐるみのせいで、寝れなかったと言えば。


あなたは、どんな顔をするのでしょうか。



「あはっ、そっか……まあ、早く寝るに越したことはないからね。それじゃ」

「お待ちください、ご主人様」

「うん?」



珍しく、私はご主人様を呼び止めてからエナジードリンクをジッと見つめました。私は少しだけ目を細めてから、ご主人様を見上げます。



「深夜にそれを飲んでしまったら、眠れなくなりますよ?」

「……まあ、分かってるけどさ」

「睡眠不足は体調不良に繋がります。メイドとして、この場面を見過ごすわけにはいきません」



私はご主人様に近づいてから、そのエナジードリンクを奪おうとしました。ですが、ご主人様は私の手をかわしてから肩を竦めてみせます。



「今回だけ、見過ごしてくれないかな。これ飲みながら作業した方が効率いいんだよ」

「……今、深夜の1時ですよ?」

「うん、そして俺の作業時間でもあるね」

「もしかして、毎日のようにこのドリンクを飲んでいたんですか?」

「………………」

「……………ご主人様」



誤魔化すことはしてもウソはつかないご主人様は、まいったと言わんばかりの顔で後ずさります。私は、少しだけ怒りを感じながらも離れた距離を詰めました。



「早く、それをよこしてください。早く」

「……だから、氷」

「いくら作曲が大事だとしても、ご主人様の体より大事なものは―――」

「いっぱいあるよ?いっぱいあるじゃん。体より大事なこと」

「………………………………え?」



全く予想できなかった回答に、つい目が丸くなってしまいます。


ご主人様は苦笑を零しながら言葉を付け加えました。



「音楽はさ、今の俺にとっては人生のすべてなんだよ」

「……………………」

「人はいつ死ぬか分からないからさ。氷も知ってるでしょ?家族を失ったことがある君なら分かると思うけど、何も残らないんだよ。家族がいなくなったら、周りにはなにも残らなくなる。死んだ本人の影すらいなくなる……そうなると、人間は生きられないんだよ」

「……………何を、おっしゃっているのですか?」

「俺には音楽があったから、辛い時間を乗り越えることができたんだ」



ご主人様は、いつにも増して真摯な眼差しで私を見ていました。影が深く差しているその顔は暗闇に包まれていて、少し狂気さえも感じられるほど固まっています。



「ごめんね。なんか、わけわからないこといっぱい言っちゃった気がするけど、とにかく作業も残ってるし、試したいことも色々あるからさ」

「……………ご主人、様」

「それじゃ、おやすみ。氷」



軽く片手を振って、ご主人様はすぐに背を向けて部屋に入っていきます。私はその場に固まって、ただただご主人様が見せてくださった面影と言葉を、一つずつ噛みしめていました。


ふと、前に森住さんが言った言葉が、頭の中で反芻されます。



『まだ高校生のくせに、あいつは歳の割にあまりにも多くの芸術的な曲を出して、ヒット曲を出して、天才として褒め称えられている。他の追随を許さない圧倒的な何かがあいつの中にいる。このままでは、あいつもいつかは自分の父親のように人間の心を失うかもしれない』



初めて聞いた時には、その言葉の意味がよく理解できませんでした。


もちろん、私は中学の時からご主人様が作曲を始めたのを分かっておりましたし、ご主人様の父親が美空博美さんという事実も分かっていました。でも、人間の心を失うとか圧倒的な何かがいるとか、そういう言葉に対しては全く理解できていなかったのです。


でも、あの目つきとあの声色を聞いた今。


私は段々と、その言葉の輪郭が見えるようになっていました。



「……………………」



あれは、狂った人の目でした。


音楽に狂って、なにかに縛られて没頭して、そうなるのが当たり前だと思っている人間。ズレている人間の目。


初めて見たご主人様の姿に、唇がぶるぶると震えます。


美空博美。彼は天才でもありましたが、同時に完璧な曲を作るためにいつも自分自身を酷使させて、強迫的に作業に取り組んだ人だとも言われています。人間離れした人間だったと周りのアーティストたちに言われたのをインタビューで見た気がします。中学の時に。



『直は決して聞きたがらない言葉だと思うが、あいつは自分の父親にそっくりだ。あいつが作っている歌詞もサウンドの深さも、その作業方法でさえ……何もかも自分の父親に似ている。自分の人生を丸ごと燃やして綺麗な芸術を追い求めた挙句、死を迎えたあいつのように』



……ああ、そうですか。分かる気がします。


父親にそっくり。その言葉を聞いて私は分かってしまいます。森住さんが私にそんなことを言ってくださった理由が。


たぶん、私が思っている以上にご主人様は歪んでいて。


ご主人様はきっと、その歪みが当たり前で正しいものだと、認識しているのです。

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