第17話 俺のメイドとの、初めての外食
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外でするキスは初めてだった。
結局、そのキスの後には一言も言わずに氷は白いクマのぬいぐるみを選んで、大きな紙バッグを手に提げながら隣を歩いている。でも、真っ白なその顔には少しだけ赤みがかかっていて、氷もさっきのキスを意識していることがよく分かった。
そして俺もまた、唐突にされたキスに囚われて頭をよく動かせないでいる。
「………」
「………」
繁華街、周りの人々が楽しそうにじゃれ合っているその空気の中に俺たちは混ざっていない。気まずくて湿っていて、むずがゆい……適当な表現が見つからない、そんな感覚。
初めてウサギのぬいぐるみを手に取った時、確かに俺はそのぬいぐるみが氷に似ていると思った。
無表情で、何を考えているのか分からないけど綺麗で、赤が鮮烈で、感触はふわふわしていて。だからあくまで軽いノリで冗談をしたつもりなのに、氷はキレて俺にキスをしてきた。
そして俺は、そのキスに対する違和感がどんどんなくなってきている。
『ヤバいな……これは』
氷のことが異性として好きかどうかは分からない。
確かなのは氷ともっと一緒にいたいと自分が思い始めていることで、異性的な好感があるかどうかは考えたこともなかった。でも、氷とするキスは気持ちよくて刺激的で、ハマりそうになる。それがまともな思考だとは思えない。
キスは好きな人同士がする行為なのに、氷は自分の怒りとわだかまりを解消するために俺の唇を奪う。
そして、その行動にちっとも嫌悪感を抱かない俺はきっと、ズレているのだろう。
「氷」
「…………」
「……氷?」
「はい、なんでしょうか」
相変わらず、なにを考えているのかよく分からない無表情で、氷は俺を見上げてくる。
俺は舌で唇を濡らしてから、横断歩道の向こう側にいる店を指さした。
「せっかくここまで来たんだし、なにか食べて行かない?毎日料理作るのも大変でしょ?」
「いえ、お気持ちはありがたいですが、大丈夫です。食事を作るのはメイドとしての当たり前の義務なので」
「でも、たまには―――」
「心配してくださり、ありがとうございます」
一緒に住んでからなんとなく分かったことだけど、氷は義務という言葉を非常に好む。
彼女はまるで、その義務によって自分の存在価値が認められているような言動をする。よく言えば真面目で、悪く言えばロボットみたいだ。そんな氷に対して、俺はどのように振る舞ってどのように距離感を測ればいいか、未だに分からない。
でも、俺が雇ったのは……俺と一緒に住んでいるのはロボットじゃなくて、人間だ。
「じゃ、主人に勝手にキスしたお仕置き」
「…………」
「あのうどん屋さん、この前にできたとこだからずっと気になってたんだ。今日のお昼はあれにしよう」
明らかに困惑した顔で氷が俺を見上げてくる。それと同時に、横断歩道の信号が変わって俺はしらを切って道を渡る。
仕方なく俺についてきた氷は、戸惑いから恨めしさに変った眼差しを送っていた。
「なに?どうしたの?」
「…………なんで、今更?」
「うん?」
「今までお仕置きしたことなんて、一度もなかったじゃないですか」
「今までなかったとしても、お仕置きはお仕置きでしょ?メイドが主人にキスしてはいけない、というのはもう常識だし」
「………」
「ほら、入ろう?」
俺たち二人とも知っている。
キスに対するお仕置きというのは単なる建前に過ぎなくて、俺はただ氷の仕事量を減らしたいだけだ。最近できたうどん屋さんっていうのも都合のいい口実に過ぎず、たまたま目に見えて言っただけ。そもそも、俺はあまりうどんが好きじゃない。
こういうのは優しさの押し付けで、きっと氷が望まない行動であることは確かだ。お仕置きという強い言葉を使った俺自身にも、少しだけ驚いている。
でも、たまにはいいんじゃないかと思う。たまには義務から解放されてもいいし、美味しいものを食べてもいい。自分にそんな資格あると思った方が、絶対にいい。
この少女には、そういう概念が全くないから。
「いらっしゃいませ~~~」
店に入った途端、氷の瞳を見て店員の目が分かりやすく丸くなる。客の中でもそういう客が何人かいて、俺はそこですぐに後悔した。もっと人混みのない店に来るべきだった。
でも、いざ入って来たんだから仕方がない。テーブル座席に座ってタブレットを操作していたら、氷は目を伏せてから言ってきた。
「……こんな感じなんですね、うどん屋は」
「うん?」
まるで今まで来たことがないような言い草だから、俺はビックリして氷を見た。
「まさか、来たことないの?」
「はい。私は目がこんなですし……他人からの視線は、あまり好きじゃありませんので」
「………っ」
その言葉を聞いて、ようやく俺は自分がうぬぼれていたことを自覚する。そっか、氷が外食を好まない理由は単に俺に甘えたくないからではなく。
純粋に、他人から見られるのが嫌だから……。
「……ごめん、そこまでは考えなかった」
急に恥ずかしくなると同時に、氷を全く尊重しなかった自分に腹が立つ。
唇を噛みしめていると、氷は淡く笑みを浮かべてから首を振った。
「……いえ、大丈夫です」
「いや、大丈夫じゃないでしょ?今もちょっと見られてる気がするし、もし帰りたければ―――」
「本当に、大丈夫です」
彼女は俺の手元からタブレットを何度かクリックして、また笑顔を向けてくる。
「母じゃない誰かと一緒に外食したのは、これが初めてですので」
「…………………」
「あまり、気にしないでください」
その言葉をどんな風に返せばいいのか。
俺は結局その答えを見つけられずに、注文を終えた。
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