第10話  私のご主人様の、知り合い

冬風ふゆかぜ こおり



誰もいない家にインターフォンの音が鳴って、ついびくっと肩が跳ねてしまいます。


ソファーから立ち上がって画面を見ると、彫の深い顔をしている男が映っていました。肩まで伸びているらしい髪を結んで、鋭くて、いかにも芸術家みたいな恰好をしています。私は一目で、彼がご主人様の知り合いだということに気づきました。


通話ボタンを押すと、その見た目に相応しい低い声が聞えてきます。



『俺だ、直。話がある』

「……………」



どう答えるべきでしょう。そもそも、この人は私の存在を知っているのでしょうか。


そう思いながらも、私はこう聞き返しました。



「……すみません。どちら様でしょうか?」



いきなり女の子の声が聞えたからか、男はすぐに顔をしかめました。やがて、彼はため息をついてから呆れたように言います。



『すみません。直は家にいますか?』

「今はご不在ですが、間もなく帰っていらっしゃると思います。3時までは帰ってくると、おっしゃっていましたので」

『………?』



不慣れな敬語を聞いて男は少しだけ眉根を寄せます。それから自分の腕時計で時間を確かめた後に、私に言いかけました。



『なら、ちょっと上がってもらっていいでしょうか。大事な件なので』

「………」



どうしましょう。この見ず知らずの男を信じてこの家に上げてもいいのでしょうか。ご主人様のことを名前で呼んでおりましたし、どう見ても音楽の仕事をしている印象ではありますが、やはり疑問点はいくつか残ります。


どうするか悩んでいた、その瞬間。



『―――失礼します』



急に男がオートロックの番号を打つと思ったら、マンションのフロントの扉があっけなく開かれました。驚いてただぼうっとしていたら、間もなくして鍵が差し込まれる音が鳴り響きます。


ドアが開いて、さっき目にした男が現れました。金色に染めた長い前髪を一度かきあげて、彼は言います。



「さて、直は奥にいるのだろう?」

「………………あ、えっと」

「というか、メイド服とは……ずいぶんと変な性癖に目覚めたもんだな。失礼する」

「あ、あの!!」



状況の変化が激しすぎて頭が追い付きません。なんでこの人はオートロックの番号を知っていて、この家の合鍵を持っているのでしょう。その疑問に答えを出すも前に彼は家に上がって、さっそくご主人様の作業室の扉を開きました。


そして、少し眉根を寄せてからまたこちらを見てきます。



「本当にいなかったのか」

「……あ、あの」

「ああ、ごめんなさい。驚かせてしまったな……失礼、君の名前は?」

「……冬風、氷です」

「冬風氷、か」



男はなにかをジッと考えてから、再び私を見てきます。



「白髪に赤い目……もしかして、前に直と病院で会ったことがあるという例の人か?」

「……たぶん、そうだと思いますが」

「なるほど……ああ、自己紹介が遅れてすまない。森住誠一もりずみせいいちだ。直の父親……美空博美みそらひろみの元マネージャー兼プロデューサーで、今は直のマネージメントを担当している」



……やっぱり、ご主人様の知り合いだったのですね。


でも、あの国民的大スターのマネージャーだなんて……スケールが大きすぎる話に驚きながらも、私は精いっぱいの平静を保ちながら言いました。



「よろしければ、お茶でもいかがですか?ご主人様はもうすぐ帰っていらっしゃると思うので」

「じゃ、お願いする」

「はい、かしこまりました」



私が背を向けた途端にメイドか……という独り言ちりが聞こえてきます。私はあえてその言葉に反応せずにゆっくり紅茶と、自分が飲む用の麦茶を入れて彼に持っていきました。


これは、どんな状況なのでしょう。少なくとも40を超えているように見える男とメイド服を着た私が、リビングで向かい合いながらお茶をすすっているなんて。シュールだと思いつつも、私は彼の行動一つ一つを注意深く観察しました。


彼もまた、私をじっと見てから言葉を投げてきます。



「君は……直の彼女、というわけではないんだろ?」

「…………………はい、そうです」

「失礼だが、なんで君がこの家にいるのか説明してもらっても大丈夫かね?俺は直になにも言われていないからさ」

「…………」



ややこしいなと思いつつも、私は次々と言葉を紡いでいきます。



「叔母さんたちの家から追い出された私を……ご主人様が拾って、この家でメイドとして雇ってもらったのです」

「メイド、か……あいつの趣味とは思えないが」

「はい、これは私が提案したものですので」



その答えのどこが愉快だったのか、彼はシニカルに笑いながらコップをソーサーに置きます。



「じゃ、あいつの仕事を君も分かっているだろうな」

「……はい、一応は」

「なるほど……あいつが君のどこが気に入ってるのかは分からないが、少なくとも信頼はしているのだろう。面白いな、この状況は」



信頼、という言葉に胃が重くなるのを感じます。


私なんかが、ご主人様に信頼されてもいいのでしょうか。



「ちなみにこれは僻みではなく単なる質問だが、君はいつまでこの家にいるつもりだ?重ねて言うが、これは単なる質問であって言葉の裏には何の意味もない。ただ、君がどれだけ直と一緒にいたいのかが気になるだけだ」

「………私は―――」



ご主人様に対する恩返しが全部できたら。ご主人様に要らないと言われたら。ご主人様の邪魔になるかもしれないと、少しでも感じたら。


色々な考えが浮かびますけど、どれも確かな言葉にはなってくれません。それと同時に、私は自分が思っていた以上にこの家にいたがっていることに気づき、なおさら驚きます。


この家から離れる理由全部に、ご主人様が絡まっていました。



「………私もよく、分かりません」

「……そうか」

「はい」

「君にも色々事情はあるだろう。誰も、自分なりの苦情を抱えながら生きている。君も、俺も、直も、あいつもな……」



そのあいつ、という言葉に少しだけ寂しさを感じてしまうのは、気のせいではないのでしょう。


たぶん、森住さんが思っている人はご主人様の父親……美空博美さんのはずです。



「冬風、と呼んでいいかな?」

「はい、大丈夫です」

「ありがとう。あの、冬風」

「はい」

「直は天才だけど、天才だから危なっかしい」

「…………」

「あいつの母親は優しい人だったが元々体が弱かった。結局、彼女はあまりにも早くあの世に逝ってしまって……直がもっとも憎んでいるあの博美も、その後を追うように死んだ。あの苦痛が直の音楽を芸術に昇華させてくれたが、だからこそ、あいつは愛をよく知らなくて、自分自身を部屋に閉じ込めて音楽だけを作り出している。まるで、すべてを投げ出して音楽だけに人生を捧げていた、自分の父親のようにな」

「…………」

「直は決して聞きたがらない言葉だと思うが、あいつは自分の父親にそっくりだ。あいつが作っている歌詞もサウンドの深さも、その作業方法でさえ……何もかも自分の父親に似ている。自分の人生を丸ごと燃やして綺麗な芸術を追い求めた挙句、死を迎えたあいつのように」



びくっと、背筋が強く震えるのが分かります。それと同時に、自分が見て来た色々な瞬間が頭の中で広がりました。


誰もが眠っている深夜に、強迫的に曲を作っていたご主人様。夜更かし作業をして、ソファーにもたれかかってぼうっと天井を見上げているご主人様。一日中部屋から出ないこともあるご主人様。


すべての点が繋がって線になり、なんとも言い難い感情になります。



「まだ高校生のくせに、あいつは歳の割にあまりにも音楽的に完成されていて、ヒット曲も出して、天才として褒め称えられている。他の追随を許さない圧倒的な何かがあいつの中にある。このままでは、あいつもいつかは自分の父親のように人間の心を失うかもしれない」

「……森住さんは、私になにを求めているのですか?」

「君がいつまで直と一緒にいるかは分からないが」



次の瞬間、森住さんは驚くほど柔らかい笑顔を湛えながら、体を前に乗り出しました。



「どうか、あいつが人間の心を保っていられるよう、幸せになれるよう……あいつを傍で見守って欲しい」

「…………」

「これは、単にあいつのマネージャーとしてのお願いではない。あいつの音楽を愛して、純粋に美空直という人間が好きな、単なるファンの願い事だ」



その切実な願いに、私はなんと答えればいいのでしょうか。


少しだけ俯いている間、まるで図ったかのように新たに鍵が差し込まれる音が聞こえてきました。

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