第8話  私はご主人様に突き放されたいのに

冬風ふゆかぜ こおり



ぽたぽたと、広い浴槽の中で水滴が落ちる音が響きます。


広い食卓で一人すき焼きを食べながらも、洗い物をしながらも、そしてお風呂に入っている今も、私の思考はずっとご主人様に覆われていました。同時に、不器用で恩知らずな自分に対するもやもやで頭がいっぱいです。


言うに事を欠いて、別々に食べたいだなんて。優しくしないで……なんて。



「……………ふぅ」



ずっと何かが違うという違和感と後悔の念がぐつぐつと煮え立って、どうすればいいか分からなくなります。


どうするのが正解だったでしょう。もし、私が人の温もりや優しさをもっと素直に受け取れられる人間だったら。こんなこじれていて歪な人間じゃなかったら、少しは……。


……ご主人様は、叔父さんがいたあの地獄から私を救ってくださったのに。



「…………」



分かりません。この考えの渦は、灯台のない真っ暗な海を泳いでいる感覚に似ています。どっちに向かえばいいのかも分からずに、体はどんどん沈んで行って。私に残るのは自責の念とモヤモヤと、苦笑を浮かべているご主人様の姿だけです。


目をつぶって深く考えようとしても、段々と風呂場の暑さに頭がぼやけていきます。このままではいけないと思い、私は浴槽から出て体を拭きました。


大理石が使われている広い洗面所の中、私は鏡で自分の姿をジッと見つめます。やがて指が自分の瞳に行って、唇を少しだけ噛みしめました。


色彩の薄い自分の体の中で唯一、鮮明に燃えるような色をしているこの赤い瞳。


呪われているとしか思えません。やっぱり、私は自分の見た目が嫌いです。


周りの人はよく私のことを綺麗だとか美しいとか言いますけど、私はこの顔が嫌いです。こんな目に溜まるような見た目、ちっとも望んでいませんでした。


私はただ、クラスの他の子たちのように普通の人生を過ごしたいだけなのに。人の優しさに自然と甘えられる、そんな人間に……。



「………ふぅ」



……私は、普段から着ているメイド服の代わりにゆったりとした白いシャツと半パンを着て、洗面所から出ます。


部屋でメイド服に着替えるつもりで、まだ髪も乾いてない状態で外に出たその瞬間―――



「………あ」

「…………」



ぱったりと、冷蔵庫の前にいるご主人様と目が合って、私は立ち止まってしまいます。


ご主人様もまた目を見開きながら、私をジッと見つめていました。ああ……そういえば外向きの服でもなく、家で着るラフな姿を見せたのは今回が初めてかもしれませんね。


ご主人様の驚きはやがて笑顔に変わり、彼はエナジードリンクを手に取ったまま冷蔵庫から何かを取り出しました。



「プリン食べる?」

「……………」



―――謝罪しなければ。


私は本能的にそう思って、直ちに頭を下げようとします。ですが、プリンが私に飛ばされてきたのが先でした。


慌ててそのプリンを両手で取ると、ご主人様はエナジードリンクを取り出してからニヤッと笑い、冷蔵庫のドアを閉めます。



「髪乾かしてから食べなよ。そのままじゃ風邪引いちゃうかもしれないし」

「………………」

「あ、そうだ。明後日のお昼は作らなくていいからね?ちょっと約束ができちゃって」

「約束……ですか?」

「うん。もしかして、氷は水浦恵奈みずうらえなって人知ってる?」



水浦恵奈。


確かに、その名前を聞いた覚えがあるかもしれません。クラスの子たちが好きな歌手を挙げる時によく出ていた名前です。


頷くと、ご主人様はしれっととんでもないことを言ってきました。



「ちょっとその人の家に行くことになったんだ。あの人、俺の従姉なんだよ」

「えっ……そ、そうだったんですか」

「うん。ちなみに俺に作曲の仕方というか……俺に音楽の基礎を教えてくれた人なんだ。師匠と呼んだ方がいいかな」

「…………………」



顔のない天才作曲家、とネットで見た評判がふと頭の中に浮かびます。


それは、ご主人様に対するコメントでした。様々なアーティストたちに曲を提供し、そのアーティストたちの才能を極限まで引っ張り出す。複雑なサウンドを聞き手に突き付けることができる唯一無二の天才――――ご主人様について調べている途中で偶然見つけた、ある専門家のコラムみたいなものでしたが。


やっぱり、私とは住む世界が違うと再び感じてしまいます。ご主人様と私は何もかも遠すぎて、急に私のしてきたことがとんでもないことのように思えてきます。



「ていうか、早く髪乾かしなよ。本当に風邪引いちゃうよ?」

「……ご主人様」

「うん?」

「私の事、責めないのですか?」



だから、余計に疑問に思ってしまうのです。


なんで、それほどすごい人がこの家に私を迎え入れたのか。なんで信じてくれるのか。どうして何も言わないのか、躾けないのか。どうして私なんかに合わせるのか。


理由が気になって気になって、仕方がないのです。



「私、メイドとしてじゃなくて……人間としても最低なことをしていると思います。ご主人様が居眠りをしている際に唇を奪って、優しく接してもらったというのに明らかにご主人様を拒んで、ご飯も別々に食べて、あからさまに距離を置こうとして……なんで放っておくのですか?ご主人様には私を躾ける資格が、ちゃんとあるじゃないですか」

「…………」

「……なにか、言ってください。ご主人様は私のために金を払っているんですよ?なにもかも命令する権利、あるじゃないですか。少しは自分勝手に私をこき使うべきなのでは?」

「……今も十分こき使ってるつもりだけどな。家事とか任せっきりだし」

「それも、私が申し出て仕方なくやらせていることじゃないですか」

「……………」



初めてこの家に着いた時、私は当たり前のように掃除をして料理を作ろうとしていました。でも、ご主人様は驚愕してただ楽にしててもいいって言ってくださったのです。


その発言に私は納得ができなくて、お金で買われた以上私には義務があると、何時間もかけた言い合いになって……結局、ご主人様がしぶしぶ頷いて、この歪な主従関係が出来上がったのです。


そう、主従関係。私が望むのは義務で、せめてものの恩返しです。自由になりたいとも思いませんし、ご主人様と対等な関係を築きたいとも思いません。


なのに、あなたは私を道具じゃなくて同じ人間としか見てくれない。少しも私の上に立とうと……しない。



「氷」

「……はい」

「俺が氷をこき使うためにこの家に呼んだんじゃないよ。君をこの世に生かしておきたくてこの家に招き入れたんだ。根本的に俺は氷のご主人様になりたいとも思わないし、なってもいけないと思う」

「……なら、ご主人様にとってこの主従関係は単なるごっこ遊びってことですか?」

「……………」



自分の手に持っていたプリンが床に落ちて、転がります。


私は部屋に戻る気にもなれないまま、ただご主人様をジッと見つめました。



「少なくとも私にとっては、このメイドという肩書きはごっこ遊びなんかじゃありません」

「……………氷」

「感覚が残る形で、私をいいように使ってください。間違った行動をしたら、ご主人様の意にそぐわなかったら叱りつけて、躾けてください。お願いですから」



無償の優しさなんて概念を受け入れるには、私はまだまだ幼くて傷だらけの臆病者ですから。


私はゆっくりとご主人様に近づき、整ったその顔を見上げました。



「……いいんですか?躾けないと私は、どんどん羽目を外すことになりますよ?」



少しだけ震えている声で、そんな言葉を発します。


心から、突き離されたいと願いました。もしくは荒々しく私の上着を脱がせて、ご主人様の気の向くままに体が弄ばれるのもいいかもしれません。ご主人様にも性欲はあるはずでしょうし、私の体もそれなりに女ですので。


お願い、私に酷いことをして。


そうすれば私は少しの希望も見れずに、あなたのことどんどん嫌いになって、死ぬ理由がどんどん増えていくから。綺麗に諦めがつくから。


なのに、あなたは。



「………うん、どんどん羽目を外してもいいよ」

「………………………………はい?」

「私は氷を……昔に見た君の優しい本質を、ちゃんと信じてるから」



一度も、私が望むような言葉は言ってくれなません。


無償の愛という幻想をどんどん浮き彫りにさせて、どんどんそれを信じたくなる自分が頭をもたげ始めます。急に、怒りが湧いてきます。


だから、私はムッとした感情をこめて、彼の首元に腕を交差します。



「…………」

「…………」



数秒間見つめ合ってから、当たり前のように唇が重なりました。


こんなの、おかしいです。唇から伝わってくる柔らかい熱に浸りながらも、私は違和感を抱いていました。


私はご主人様に恩返しをしなきゃいけないのに、感情と自分の我執に流されてキスをしていて。なのに、この人は当たり前のように目をつぶってそれを受け入れていて。


唇が重なるたび、彼の匂いが私の中で濃くなるたびに、なにかが変わっていきます。私が決して変わって欲しくない方向に……死にたくないという願望に繋がって、その先には光が差し込んでいて。


それを気づいて慌てて唇を離したら、ご主人様は苦笑を浮かべながらこう言ってきました。



「……氷」

「…………」

「前に氷が言った言葉だけど、キスはもっと大切な人としなよ。未来に、氷のことを本気で愛してくれる人と」

「…………………」

「その方が絶対に幸せで、価値もあるよ。きっと」



間近で言われたせいか心臓がドクンと鳴って、自分の唇がぶるぶる震えているのが分かります。


こんな私を、体目当てではなく本当に愛してくれる人が現れるとは思いません。そして、私にとって大事な人たちはもうあの世に逝ってしまいました。


それでも、キスは大切な人とするべきだと分かっていながらも、私はご主人様にキスすることを選んでいます。それがなにを意味するのか………私には分かりません。


……私は一体、なにをしているのでしょう。



「……ドライヤー、かけてあげようか?」

「………………………………………いえ、自分で乾かします」



ご主人様が大事になってきてるから、キスしたんじゃないかって。


そんなの、真夏の夢物語みたいな戯言に過ぎないのに。

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