第2話  私がご主人様にキスをした理由

冬風ふゆかぜ こおり



キス、キス、キス。


眠っているご主人様を見ていると、その言葉しか浮かばなくなります。同時に、過去にあった景色が頭の中で広がります。


星屑がよく見える、高い丘の公園。季節はちょうど今みたいな真冬。


私は自分の命を絶つ気でその場所に訪れていました。自分の真っ白な髪の毛と真っ赤な瞳が嫌いで、優しくしてくださった叔父さんに襲われたのが怖くて。


叔母さんに軽蔑の眼差しを向けられるのも、耐えられなくて。


だから、せめて最後にいい記憶が残っている場所に来て、あの瞬間とメロディーをゆっくり噛みしめたかったのです。苦痛と辛いことだらけの人生でしたが、最後は幸せに浸りながら死ねるように。


でも、そこには先客がいました。



「…………あなたは」

「……あれ、冬風?」



少し長めで、ゆるいパーマをかけたような茶色の髪。何を考えているのかよく分からない印象を持っていて、目鼻立ちがくっきりしている一人の少年。


夜に溶け込むような黒のコートとスラックスを着ている彼は、ゆっくりと私に目を向けてきます。


今みたいに、星屑がちりばめられている寒い空の下で、ギターを弾きながら私を慰めてくれた私のクラスメイト。


美空直みそらなお君がそこにいて、私は思わずため息をついてしまいます。よりにもよって、この人に会ってしまうなんて。



「こんばんは、冬風」

「……はい、こんばんはです」



美空君……いえ、今は私のご主人様になった彼は、珍しくギターを持っていませんでした。ただただぼんやりと街の風景を眺めながら、唇を引き結んでいるだけ。私はその横顔を見て嘆きます。


死にたいという願望を抱いてこの場所まで来たというのに、最後に会った人が……私に希望を与えてくれた人だなんて。


運命のいたずらというには、あまりにもできすぎている感じがしました。



「美空君は、どうしてここに?」

「…………………」

「美空君?」



しばし口をつぐんでいた彼は、苦笑を浮かべて私を見てきます。



「父が亡くなってね」

「………………………………」

「ちょうど今日葬式だったんだ。それが終わったらもうやることなくて、なんとなくここに来た感じ」

「……美空、博美ひろみさんでしたっけ」

「うん。人いっぱい来てたから、正直めっちゃ疲れたよ」



美空君は手すりにもたれかかりながら、まるで嘲るように言います。



「あの人、スポットライトに狂った人間だったからね」

「………………」



普段から音楽を少しでも聞いてる人なら、一度は美空裕美という名前を耳にしたことがあるしょう。


それほど、彼の音楽的な才能は多くの人々に認められていました。彼は日本のみならず海外でも知名度が高く、アルバムを出したり海外のロックスターたちと共同作業をしたりして、正に国を代表する国民的スターの地位を得た人なのです。


私は美空君の言う通り、彼がスポットライトに狂っていたかどうかは分かりません。ですが、彼はスポットライトを浴びるのが当たり前な人間ではありました。


そして、私は知っています。その天才アーティストの一人息子である美空君は。


驚くほど、自分の父親を軽蔑していることを。



「冬風こそ、どうしてここに?」

「…………………」



今度は美空君が私を見つめて、私が街を眺めます。


煌びやかな照明と星が輝いている夜景は綺麗で、1年くらい前の記憶が引き起こされます。初めて美空君が、私にギターの音を聞かせてくれた日。


あの時もこんな夜で、こんな星で、この人でした。季節も同じ冬で、些細なことが気にならないくらい夜景がきれいです。


だから、別に言ってもいいと思いました。



「家から追い出されましたから」



それが何を意味するか分かっているはずの美空君は、一度口を閉じてからゆっくりと夜景に視線を戻します。


苦にならない沈黙が続き、それを先に破ったのは美空君でした。



「お互い、行く先が分からないな」

「ふふっ、そうですね」

「……やっぱ似てるよね。俺と冬風は」

「私には行く場所もなければ、帰る場所すらいないんですよ?あなたは少なくとも帰る場所くらいはあるじゃないですか」

「―――定義によるものだと思うけど」



私の言葉を遮るように、彼が言います。



「父も母も亡くした俺に、帰る場所なんてあるのかな」

「……美空君」

「もちろん、ちゃんと家はあるから物理的に帰る場所はあるよ。今の冬風にとっては贅沢な話なのかもしれないけど――今の俺に、本当の意味で帰る場所はいないんだ」

「………」



その宙に浮いたような話を、ほんの少しだけど理解できそうな気がします。


確かに、叔父さんと叔母さんがいる家は私が物理的に帰る場所でした。でも、心を休められる場所だったかと問われたら、違うと思います。


一度も、その家で心を休めたことなんてありません。私が家に来て無駄にお金を使うことになった叔母さんはストレス発散のために私に悪口を叩いて、いつの間にか姪じゃなくて女を見る目をしていた叔父さんは、最後に私で性欲を満たそうとしていました。


歪んでズレて、ぼろぼろになった私たちは今ここにいます。この丘の公園は私たちのためにあるみたいで、不思議な感覚に囚われます。



「美空君」

「はい」

「私は、ここに死ぬために来ました」

「……………………」

「ここから飛び降りたら、きっと楽になれるはずだから……ここに来たんです」

「……………………」



だから、言うべきではなかったくだらない話が、自然と口から出てしまって。


美空君は一度首を垂れてから、私を見てきました。



「なら、俺に買われるのはどう?」

「……はい?」

「幸い、お金ならいくらでもあるからね。心が休まる場所になるかどうかは分からないけど、物理的に帰れる家はちゃんとあるから……俺に、買われたら?」

「……何を言ってるんですか、美空君?」

「俺はこれ以上、周りの人の死にざまを見たくはないから―――」



彼はゆっくりと息を吐いて、こういい続けました。



「俺の家に来てよ、冬風。それじゃダメかな」





それから1週間が経ち、メイド服を着ている私の横にはソファーで横になって眠っているご主人様がいます。


さすがは美空博美の一人息子と言うべきでしょうか。彼は世に顔を出さない天才作曲家として業界で広く知れ渡っていて、昨日も頼まれた作業をするために徹夜をしていたと言っていました。


そんなご主人様は、私に何もかも与えてくれます。家も食事も、暖かくてふかふかなベッドも、優しさも、生きるために必要な熱も。


たった1週間しか経ってないのに彼の熱は恐ろしいほど私に染みこんでいて、心に決めた決定事項が徐々に色あせて行くのを感じます。


叔父さんに襲われる悪夢なんて、もう二度と見たくない。


道を歩くたびに、学校でただ席に座っているたびに注がれる好奇の視線もうんざりで、早くあの世にいる両親に会いたい。こんな苦痛だらけで、たらい回しにされる人生なんて嫌。


楽になりたい。早く楽になって、次はもっと……普通で、幸せな人生を送りたい。


その固まった願望と決心が、この家で溶かされていくのを感じて。私は。



「………………失礼します」



精いっぱいの抵抗をするために、意図的にご主人様の唇を奪いました。


楽になりたいという自分の思い込みを最後まで突き通すために。いつも優しさを与えてくるこの人のことが少しだけ、恐ろしいから。


後、1年前の冬にあの丘で聞いたギターの音があまりにも綺麗だったから。その音を引き出していたご主人様がほんの少しだけ、格好良く見えて。


キスをするなら、最初はこの人がいいから。


たったそれだけの理由。嫌な感情と少しの脈動がわだかまってできた理由を唇に押し付けて、キスをしたら完全に捨てられると思っておりました。


でも、この人は困っている表情をしながらもこう言います。



「ごめん。氷の願いには答えられない」



そして、メイドであるが故に自由意志を剝奪された私は、せめてこう言うしかなかったのです。こうなると知っていたら、あの丘には行かなかったと。


テレビの中で止まっていた映画はリモコンのボタン一つでまた動き出し、私はご主人様と並べて座りながらその画面を見つめます。


止まりかけていた私の時間も、また少しだけ動き始めました。

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