お金で買ったメイドが天才作曲家の俺にキスする理由

黒野マル

第1話  俺がメイドにキスをされた理由

美空みそら なお



――初めての感覚は、柔らかさだった。


次に押し寄せてくるのは温もりとシャンプーの香りと、目に映る長いまつ毛と真っ白な髪。飲み込まれそうなくらい燃えている真っ赤な瞳。


視線が混ざり合って、その赤が揺れて。それでも、しっとりとしたその唇が離れることはなかった。


息をするのが辛くなってからようやく、重なっていた唇が離れる。俺は問う。



「………どうして?」



簡単な質問に簡単な答えを導き出せず、俺のメイドさんは苦しそうに顔を歪ませていた。それから、決心したようにもう一度俺の頬に手を添えて、キスをしてくる。


人生2度目のキスは唐突だけど、暖かくて気持ちいい。夢だと思い込みたい感触に酔って互いの瞼が閉ざされていく。これは現実で、俺はこおりにキスをされていた。


二度目のキスは初めての時よりずっと長くて、息が絶え絶えになった頃にようやく唇が離れた。透明な糸が互いの唇を繋いで、体がぐっと熱くなる。


氷は、苦笑を浮かべながら言う。



「私は、ソファーで眠っている主人の唇を奪うような、悪いメイドです」

「……………………氷」

「だから、クビにしてください。私をこの家から……追い出してください」



震えている声を聞いて、ようやく俺はキスの理由を知る。


氷はたぶん、俺に捨てられるためにキスをした。


徹夜で曲を作って、一緒に映画を見ている間に寝落ちしてしまった俺にキスをしてきた理由なんてそれしか浮かばない。氷はメイドをやめたいからキスをしたのだ。俺のことが好きだから、俺の存在を確かめたいからではなく。



「追い出さないと言ったらどうなるの?」

「この先も、こういうことが起こるでしょう」



ほとんど即答をした氷は、今にもキスしそうな勢いで俺に顔を近づけている。胸がドクンと鳴って、唇が少しだけ震える。


俺は氷のことが好きだけどその好きは愛じゃないから、これからもキスをされるのは純粋に困る。でも、俺はこれ以外の言葉を口に出せなかった。



「ごめん。氷の願いには答えられない」

「……ご主人様は、そんなに私にキスされたいのですか?」

「それは違うけど……まあ」



俺は、自分の首筋を撫でていた白い髪を氷の耳にかけてから、ゆっくりと上半身を起こす。



「氷、ここで追い出されたら行くところなんてないでしょ?」

「…………………………」

「それが理由だよ。氷を追い出せない理由」



両親を亡くした彼女は、親戚の家でもトラブルがあって行き先がない。ここを出たらたぶん、間違いなく氷は自殺する。人の命より俺の唇に価値があるとは思えない。


冬休みの太陽は燦燦と輝いているのに、この広い家には日差しが降って来ない。部屋が4つもあるのに、そのすべての部屋に遮光カーテンが閉められているこの家は、俺たちの家だ。俺と氷が住んでいる家だ。



「……ご主人様は、やっぱり意地悪ですね」

「そっちほどじゃないから」



案外あっさり身を引いてくれた氷に感謝しながら、俺は肩を竦めて見せる。夕飯を食べるにはまだ早いし、今から新しい曲を作るには日々の疲れが溜まり過ぎたせいで集中できそうにない。


ぼうっとしていると、メイド服姿の氷が深くため息を零した。



「……こうなると知っていたら、あの丘には行かなかったのに」



その愚痴を聞いたら反射的に噴き出しそうになった。俺は氷と同じく深い息を零して、リモコンを手に取る。



「映画の続きでも見ようか?」

「……はい、そうですね」



俺は正直、俺のメイドさんについてあまり詳しくない。一応、彼女とは同じクラスで昔に何度か接点もあったけど、それっきりだ。冬風氷という人間を俺はよく知らない。


でも、確かなことが一つだけある。彼女はメイドの身分でありながらも、眠っている主人に平気でキスができる人間で。


そしてその事実は、彼女と一緒に暮らしたこの一週間の中で、一番の収穫な気がした。

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