2章 迷子の季節

第20話 来る夏に向けて

葵と出会ったあの春の日からまた暫くの時が過ぎ、ぼちぼちと暑い夏が近づこうとしていた。

そして、毎年この時期になると、俺は決まって夢を見る。あの子の夢と似ている様で、間違いなく違う、そんな奇妙で、奇怪で、奇天烈で、けれど不思議と心地よい、そんな夢を。







「……」


真っ白な空間だった。


何もない白い、白い空間。そこに俺はただ一人座り込んでいた。


『やぁ、おはよう』

「………またか…」


いや、一人じゃなかった。気づけば目の前に大きく立派な、御大層な椅子が一つ現れていた。そしてその上には二桁にも満たないであろう年頃の小さな女の子。椅子の大きさに見合わぬその顔にどうも見覚えがある気がするのだが、いつも頭がぼーっとして働かないせいで思い出す事が出来ない。


『君に問おう。嘘偽りの無い真っ直ぐな気持ちで答えてほしい』


こちらの言葉も無視して、女の子がしゅばっと片脚を上げると、尊大に脚を組んで口を開く。


何だこいつ。


真白い空間が放つ荘厳な雰囲気の中、目の前の女の子が放つ迫力に飲まれ俺は口を噤む。それを肯定と受け取ったのか知らないが、女の子は薄くねちっこい笑みを浮かべるとゆっくりと口を開いた。











『幼い姉と大人っぽい妹、どっちが好き?』











何だこいつ。


『やっぱ今の時代尊ばれるべきは姉だと思うんだよね最近妹だとか名乗る子と仲良く暮らし始めたみたいだけど君にはずっとそばで見守ってくれる大切な存在がいる訳じゃんいるよねきみは一日たりともその子を忘れたことなんてない訳でおねえちゃ』

「妹かなぁ」

『ギルティ』


少女が指を鳴らすと、何も無かった筈の足元がガコンと音を立てて左右に大きく暗闇への道を開ける。反応することも出来ず、俺は為すすべもなく悲鳴を上げる間も無く、奈落に落ちていく。


そして俺の意識は、そのまま闇の中へと沈んでいくのだった。












学生にとって夏といえば何が思い浮かぶだろう。言うまでもなく夏休み。そりゃあもう遊ぶ季節なのだろう。え?遊ぶよね?

勿論、俺とて例外ではない。何たってこちとら現在進行系で花の男子高校生真っ盛りなのだから。

しかし、俺にとって夏休みとは遊ぶためのものではない。休みに入るやいなやあちらこちらから声をかけられ、若く瑞々しい身体を酷使させられる社畜の社畜による社畜のための40連勤の始まりである。俺学生なのに。退職代行は存在しない。だって俺が望んでるし。

しかししかし、今年の俺は己がいくら望んだところでれっつお仕事と洒落込むことは出来ない。それを許さない大変お厳しい目が横にあるからだ。

つまり、別に僕ドMでもないけれど、今年の夏はとても暇なものになるだろう。




そう思っていた。







「まさかバイト解禁されるだなんて」

「むぅ…」


月が変わり、まさかまさかの天啓。

流石に俺の体調も回復したであろうということで、ありがたいことに母親殿からハードなスケジュールにしないことを条件に少しくらいならとお許しが出たのだ。

諸手を上げて喜びを表現する俺を、呆れた目で見ていた母と、そして不満げな目で見ていた葵。


それから数日経ち、学校へと向かう通学路の最中であろうとその胡乱な目は変わることは無かった。感情が以前よりも見え隠れするようになったことは果たして良い事なのか悪いことなのか。


「…分かってると思いますが」

「しませんしません無理しません。あくまで大切なのは自分のお体」

「その通り。そしておばさんは言いました。『無理をしたらとどめを刺す』、と」

「心配してる人が出していい言ノ葉じゃない」


無表情でゆっくりと首を掻っ切るジェスチャーをする葵ちゃんから目を逸らす。全く、うちの可愛い従妹に悪い影響を与えないでほしいよね。いや、その前に可愛い息子を慮れよ。何で倒れた所に追い討ちかけようとしてんだよちゃんと反省してますからぁ。


「…というか兄さん、バイトしていたんですか?」

「バイトっていうか……まあ、お手伝いだよな」

「例えば?」

「カフェのマスターに頼まれてウェイターとか八百屋のおっちゃんに頼まれて客引き、婆さんの碁の相手お母さん達が井戸端会議してる間のちび達の子守りタケ爺が麻雀で全部スッてくるまでの店番御当地キャラの血で血を洗うゆるキャラバトルロイヤ「あ、もういいです」」


狭い町、困る人おらば、そこに総ちゃんあり。そしていつの間にやら、どこもかしこも顔見知り。去年のバトルロイヤル良いところまでいったんだけどなぁ…まさか着ぐるみでパロ・スペシャルかけてくる猛者がいるとは。もしかしてあの中身メカ超人?


「とりま、今年の夏祭りにはたこパやりまっせ」

「たこぱ……?」

「せやで」


そう、お肉屋のたこ焼き屋台。我らが住まうこの町はお祭りに謎に力を入れているのだ。あくまでお手伝いは軽めに済ませるつもりで、取り敢えず引き受けたのがそれだった。

今年はライバル店である八百屋にクラスメイトが参戦して焼きそば屋台をやるとか何とか。そして雇い主からは『奴にはどんな手を使ってもいいから勝て』、とのお言葉をいただいている。その時、笑顔で差し出された下剤はありがたく処分した。悪評広まったら全体のマイナスにしかならないだろうが。


「ま、夏休みにはまだ少しかかるけれど、も」

「たこぱ………たこ、ぱ……?………ターコイズ………パンツ……??」

「………」


顎に手を当て、何やらボソボソと呟いている葵を改めて眺める。暑くなるということはそれ即ち衣替えの季節でもあるわけで。


「堪らなく……神々しい……パセリ……?」


我が校の制服は黒。けれど今は打って変わって白い薄手のシャツ、今まで外では隠されていた細い腕を存分に露出したその姿。

脚はこれまでと変わらない膝上丈のニーソックスを履いているからいつも通りの絶対領域だが、上がすっきりしているだけでこんなにも爽やかな美しさを感じるものなのだろうか。それとも何か、そう思う要因がどこかに…?


「こほん。…その前にまた期末、つまりはお勉強だなぁ」

「…おべき…じゃないお勉強…?」


…何やら身体がむず痒い。そんな心中を押し隠すようにそう口にすると、漸く夢から覚めた葵がはっとした様に顔を上げる。


「そう。初めての兄妹二人で過ごす夏休み。気持ちよく迎えるためにも、少しでも良い点取らなきゃな」

「、…………ですか。まあ、向上心があることは素晴らしいことです」


珍しいと言えば珍しい、俺が進んでやる気を出していることをどう思っているのかは分からないが、葵が口元を僅かに緩めて俺を見つめている。だが、その温かい目といい、台詞といい、どちらかと言うと母親目線の様な気がしなくもないのは気の所為だろうか。

複雑な胸中に謎のもやもやを感じている俺を横目に、葵は何処か得意気に人差し指を立てると、俺の鼻に突きつけてくる。


「では兄さん、折角ですし勝負でもしましょうか?」

「は?勝負?」

「はい。どちらがより良い点数を取れるのか」


意外、というべきか。彼女がそんな悪戯めいた提案をするだなんて。

さっきも思ったが、何だか最近、少しずつ彼女が変わっていっている様な気がする。


「全く……」


だが、勉強を遊び気分で行うことは少々いただけない。

突然、何を言うかと思えば…情けない。勉学は学生の本分。いつから我が従妹はそんな俗物に育ってしまったのか。ここは心を鬼にして、彼女の道を正さなければなるまい。鬼にして。兄として。


「いいか葵。テストってのはお遊びじゃな「兄さんが勝ったら一つだけ、何でも言うことを聞いてあげます」仕方ないなあ!!」


仕方ないよね。


「……となると、また一緒に勉強会でしょうか………?」

「いや、それは無い」

「………ん?」

「敵と馴れ合う訳にはいかないからなー」

「敵」


そうと決まれば、早速この優秀な頭脳をより輝かせる為にスマートに勉学に励むとしようかな。いやー持つべきは頭の良いお友達だよね。もう頭下げすぎておでこ後退しちゃうよ。


「……………敵…………」


先生に献上する賄賂で頭をいっぱいにしながら、俺は学校へと歩を進める。

その後ろで、ぽつんと立ち止まった従妹が石化していることに気づかぬままに。

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