第3話 そして朝を迎える
『さん。――さん』
「……ぅ……」
誰かが呼んでいる。
また、あの夢か。
何も見えない白い闇の中、届かぬと分かっていながら縋るように手を伸ばす。
何度もしてきたことだ。そして何時だって結果は変わらない。霧の中を掻き分けるように散々手を伸ばしたところで、何一つ掴めやしない。
そう、ただ虚しさだけが残るだけ。
むに。
そう、虚しさだけが………柔らかい……むにしさだけが。
「穂村さん」
「……ぁ゙?」
鳥が鳴き、雲一つ無い青空では燦々と太陽がその存在を主張する爽やかな朝。誰もが思うだろう。今日もいい日になりそうだ、と。
「…起きたのなら、離してください」
そんな日に、俺は昨日出会ったばかりの従妹の豊満な胸を触っていた。
鳥が鳴き、雲一つ無い青空では燦々と太陽がその存在を主張する爽やかな朝。俺は思う。
どうか俺を殺してください、と。
■
「美味しいです」
「あ、はい。良かったです。ごめんなさい」
「………」
土下座して、土下座して、また土下座して。散々に土下座をした俺に残されたのは、ありとあらゆる手段を駆使して従妹殿にご機嫌な朝食を提供することだった。
「あの」
「はいすみません」
「…魘されているところを間近で覗き込んでいた私も悪いのでもういいです」
「…はいすみません」
そう言われたところで己を許せるはずもなく。朝からこんな気持ちでちゃぶ台を囲んだのは生まれて初めてである。食事が喉を通らない、という感覚はこういうことなのかと、よ〜く分かった。
一体どの口が昨夜ラブコメがどうとか言ってやがったのか。実際、起きてみれば血の気が引くとかそんなレベルじゃない。終わりの始まりである。
「…大丈夫なんですか?」
「え」
「魘されていたことです」
「ああ…」
てっきり、ちびちびと味噌汁しか口にしない俺の頭のことなのかと思ったが違った。どうやら彼女は普通に罪人である俺を心配してくれているらしい。なんて良い子なんだろう。そんな良い子の胸を揉んだクソ野郎がいるらしいっすよ。殺せ。
「うん大丈夫。割といつものことだから」
「いつものこと…」
お気楽極まりない感じで言い放った俺の言葉に、心做しか水無月さんの眉間に皺が寄った気がした。俺が生意気にも夢を見ることが胸を揉まれた事よりも気に入らないというのか。などと馬鹿な事を考えて時計を見て
「…あの」
「あ、ごめん。もうこんな時間だ」
朝からすったもんだ…駄目だ言い換えようばたばたしてしまったものだから思ったよりも時間が過ぎていた。見れば、いつもならばとうに家を出て学校へと向かっている時間ではないか。
「水無月さん、先に」
「いえ」
「一緒に、行きます」
■
「大丈夫?」
「…はい」
家から学校までは徒歩約二十分、といったところ。急いだからまだ余裕はあるけれど、多少は。
少し早めに歩く俺。軽いペースのつもりであったが、それでも彼女には中々の重労働だったらしい。
僅かに肩を上下させて、それでも文句一つ言わず黙って俺について来るその姿はまるで雛鳥の様だ。小さい頃にこんな光景があった様な無かったような。
「あ」
慣れ親しんだ住宅街。近道としてたまに使う坂道に差し掛かり、それが目に入ってつい足を止める。
「……どうか、されましたか?」
遅れて追いついてきた水無月さんが俺の背に声をかけるのを束の間、俺は無意識に本来進むべき道から外れ歩みだし、
直ぐに静止する。
「…あの、水無月さん…」
「はい?」
「やっぱり先に行ってもらっていいかな」
「え」
何とも苦い心地で振振り返って、俺は恐る恐るそう口にする。
仲良く登校していた最中、急に心変わりした従兄に目を丸くした水無月さんが俺の横に並び、同じくそれに気付いた。
「あ」
少し急な坂の下、腰を曲げた老婆がこんな朝っぱらから重そうな荷物を持ってよろよろと歩いていた。
「…お知り合いですか?」
「うん」
近所に住むハツ婆さん。口こそ悪いが世話焼きで、何かとお世話になっている人だった。
母の呆れた顔がまた頭を過ぎる。けれども、小さな頃からよく知るその背中を放って先に行くことなんてどうしても出来なくて――
「ですか」
簡潔な相槌。そこに込められているのは、呆れかそれとも。どれであろうが窺えるほどの感情は感じ取れなかったけれど。
そして次の言葉を待つこと無く、俺は足を踏み出した。
重なるもう一つの足音を、その背に感じながら。
■
「えっと、大丈夫か?」
「………無論です」
先程よりも更に早足で歩く俺の後を、変わらず雛鳥のようにせっせとついてくる水無月さん。声音こそいつも通りだが既にその華奢な肩は大きめに上下しており、突発的な運動に疲れているのは明らかである。
「だから先に行っていいって言ったのに」
「…そういう訳には行きません…」
そう。俺がお婆さんの下へと駆け出した時、彼女もまた、何も言わずついてきた。
「でも助かったよ、ありがとう水無月さん」
「…何もしていませんが」
荷物は俺がさっさと運んだ。その間、彼女が何をしてくれていたのかと言うと。
「ハツ婆の憎まれ口を延々聞き続けてくれたから」
やいやい騒ぐ年寄りの口撃を一身に受け止めてもらうタンクの役割を担ってもらっていた。威力こそ無いが、彼女を知らぬ者にとってはメンタルがごりごり削られる厄介な代物である。
流石に悪いことをしたと思いはしたが、我が従妹御の顔は相変わらずの無表情。効いているのかいないのかの判別も出来やしない。
「…いい加減あの坂はキツイって言ってるんだけどなぁ」
「…中々に頑固な方でした」
時刻はもれなく遅刻寸前。二人仲良く早歩き、いや、もう走っている。当然、周囲に同じ制服姿は碌に見当たらない。
「…貴方は優しいですね」
「お?」
ポツリと呟かれたその言葉。もしかしなくても褒められたことに気を良くして彼女を振り向けば、そこには笑顔ではなく渋い顔。
「…ですが限度は有ります。昨日、何を言われたのかもう忘れましたか?」
「…あ、はい……」
思いの外、強い目で睨まれる。加えて彼女は元々怜悧な印象が強いので迫力も満点。思わず身がすくむ。
「…でも大したことじゃないって。実際すぐ目覚めたし、今はいたって元気だし」
「ですが倒れた」
「…まぁ、…はい……」
無論、何をどう言い訳したところで無かったことになるはずもなく。
…どうにも居心地が悪い。どうしてだか彼女の目を見ると、何か胸の内がざわつく様な、心の奥を覗かれている様な、そんな気がしてならないのだ。
あくまでさり気なさを装ってそっと顔を前方へと戻す。あの目を見つめ続けることは苦手だった。
「穂村さんは何故――」
そういった彼女の口は、しかしそれ以上の言葉を紡ぐことはなかった。眼の前に漸く見えてきた校舎から、よく聞き覚えのある鐘の音が聞こえてきたからだ。
「話はまた今度な。君も急がないと」
「………」
当然不服そうな彼女を横目に、逃げるように速度を上げる。
みるみる離れていく二人の距離。だけど今の俺は、その隙間を縮めようとは何故か思えなかった。
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