第9話
仕事が終わり、俺は満員の電車に乗り込む。ちょうど良いスペースに何とか身体を滑り込ませて、ひと息つく。
さて、今日は二週間ぶりのジムだ。渉は出勤しているだろうか。ジムのSNSで、誰が出勤しているかを書いてあれば助かるんだけどな。一応、アカウントはあるものの、更新頻度は微妙だ。
まあ、これまでも金曜日に行けば彼に会えていたので、大丈夫だろう。いなければ、来ているインストラクターに次の出勤予定を聞けば良い。
腹が栄養を求めて鳴く。そういえば、仕事が忙しくて、昼飯を抜いたんだった。運動前に食べるのはあまり良くないが、空腹では途中でスタミナ不足になってしまうかもしれない。何か軽く食べた方が良いだろう。
目的の駅に着き、ジムのある方へ向かって歩きはじめる。この辺りに良い店はなかったっけ。見回してはみたものの、あるのはファーストフード店や居酒屋ばかりだ。これはドラッグストアでゼリー飲料でも買うしかないかもしれない。
その時、見たことのある顔と目が合った。ヴァンさんの知り合いのタイ料理屋の店主のおばさんだ。食材がぎっしり詰まったビニール袋を持っている。俺のこと、覚えているんだろうか。どうしようかを考えていたら、彼女から話し掛けてきた。
「兄さん、この前はありがとうね。また食べに来てよ」
「はい。メシ、美味かったんで、行きます」
「これからムエタイの練習でしょ? 終わっても、うちの店はやってる。後で来ても良いよ」
おばさん、商魂たくましいな。けど、今日の最優先事項は渉と話をすることだ。後の予定がどうなるか、わからない。渉と一緒に歩いていても、彼女から声を掛けられないようにした方が良いだろう。
「今日は渉と約束してて」
「ワタルーー」
思ったことをそのまま口走ってしまったが、もしかしてミスった? この言い訳だと「だったら、一緒に来たら良い」って言われるかもしれないじゃないか。しかし、おばさんの表情が暗くなった。
「前にヴァンと三人で来た時の子だろ。先週来てくれたけど、元気なかった。何かあったか」
なんだって。それってやっぱり、俺が突然帰ったせいだろうか。いや、焦るな。もしかしたら別の事件があったのかもしれない。
「渉とは先々週から会ってないんでわからないですが、会ったら聞いておきますよ。で、連れてきます」
「わかった。その時はサービスするよ」
おばさんの顔に少し明るさが戻ったようだ。だがその時、間の抜けた音がした。俺の腹の音だ。
「ああ、すみません。食事の話をしてたから」
「戦士が空腹じゃいけない。これ、食え」
おばさんはスーパーの袋の中からバナナを一本取り出して、俺に差し出した。
「えっ、良いんですか」
「もちろん。その分、今度店に来た時、いっぱい注文してくれたら良いよ」
「ありがとうございます」
俺はバナナを受け取り、お辞儀をしておばさんと別れた。
バナナを食べながらエレベーターを上がり、ジムの扉を開けた。受付カウンターにいたのは林さんだ。
「こんにちは。二週間ぶりですか。高橋さんが休むのって珍しいですね」
「ちょっと友だちと約束があって。飲みに行ってました」
「おっ、良いですね。じゃあ、今日はその分もカロリーを消費しますか」
いたのが林さんで良かった。いきなり渉だったら、やっぱり緊張しただろう。日本語の怪しいヴァンさんだったら、上手く話を聞き出せるかわからない。後で渉が来るなら、理想的な展開だ。
俺は周囲を見て、人が少ないことを確認すると林さんに尋ねる。
「あの、黒田くんは来る予定ですか」
「大丈夫だよ。彼はこの曜日に来ないことになったから」
えっ。俺は頭が真っ白になりながらも、林さんに確認する。
「どういうことですか」
「彼から申し出があったんだ。高橋くんがあの件について気にしているみたいだから、来る日を極力被らないようにしたいって」
目の前でシャッターの降りていく音がした。これって、避けられているってことだよな。だとしたら、渉は本気だったのかもしれない。それなのに俺は自分から立ち去って、勝手に傷付いている。
もう諦めるしかないのだろうか。正直このまま帰りたいところだが、そういう訳にもいかない。とりあえず着替えよう。重い足を更衣室へ向けようとした時、後ろのドアが開いた。
「こんにちは」
入って来たのは俺と同じくらいの歳の女の子だった。ショートヘアで日本人形みたいなタイプだ。このジムで茶道か華道の講座を始めたのだろうか、なんてことが思わず頭に浮かんだ。林さんが明るい声で返事をする。
「津田さん、こんにちは。最近、がんばってますね」
「練習が楽しくなってきちゃって。これもお願いします」
彼女はリュックから取り出した紙を林さんに手渡す。
「夏合宿も来てくれるんだ。こりゃあ、僕たちも覚悟しなきゃダメですね」
合宿? 俺は二人の会話に割って入る。
「夏合宿って何ですか」
「再来週の土日、希望者で泊まり込みの練習をするんだ。休み時間に川遊びをしたり、バーベキューをしたり」
林さんが俺に一枚の紙をくれた。合宿の日程や費用、去年のものらしい写真が印刷されている。これまで目にした記憶のあるパンフレットだが、興味がなかったのでスルーしていた。だが、これに行けば、渉と話をするチャンスがあるんじゃないだろうか。俺は林さんに確認する。
「ジムの人も参加するんですか」
「もちろん。ヴァンさんに、僕も行くよ。あと、黒田くんも」
よし、完璧。あとはまだ申し込みが間に合うかだ。とはいえ、さっき彼女が申し込んでいたのだから、大丈夫だろう。
「俺も参加します。まだ間に合いますよね」
「うん。けど、良いの?」
林さんは戸惑っているようだ。俺が渉を避けていると思っているだろうから、当然の反応だろう。いっそのこと、渉と仲直りをしたいってことを伝えてしまうか。もしかしたら、間を取り持ってくれるかもしれない。
「はい、お願いします」
俺はハッキリとした声で答えた。
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