第8話

 目の前に一瞬、真っ白な霧がかかった。チカチカする光に目が眩み、体重を後ろにある柱へ預ける。先週の土曜日、びしょ濡れになった俺は風邪を引いた。日曜日に熱は下がったが、それからずっと気だるい。

 実際には風邪は治っていないんだろうか。いや、原因はわかっている。渉のことだ。自分から拒絶した癖に、時間があれば考えてしまうのは彼のことばかり。

 とはいえ、渉と会う勇気も俺にはない。だから、いつもジムに練習へ行く金曜日の夜だというのに、こんなところにいる。

 目の前を通り過ぎる人々はみな楽しそうだ。仕事が終わり、帰りの電車に乗る人もいれば、これから夜遊びに出る人もいるのだろう。週末を迎えるターミナル駅のコンコースは、俺にとって異世界に見える。

 弱っている時にこんな人の多いところに来たから、その気配に酔ってしまったのかもしれない。俺はスマートフォンを確認する。

 そろそろ来る時間のハズだが。画面を眺めていると聞き慣れた声がした。山本だ。

「おう、高橋。お前、大丈夫か」

 彼は眉尻を下げて、こちらを見ている。俺はそんなに具合が悪そうなのか。何かを吹き飛ばすかのように、わざと大きな声を出す。

「へーき、へーき。ちょっと仕事が大変で。さあ、行こう。店はどこなんだ?」

 俺は山本に目的地へ行くように促す。ヤツはこちらの顔を見ながら、ゆっくりと歩き始める。着いたのは駅に隣接している店だ。

 店内はランプで照らされているくらいの明るさで、正装のウェイターが出迎えてくれた。山本が予約していることを告げると、窓側の席へ通される。

 基本的にデートで使う店じゃないだろうか。その証拠に周りのテーブルは、身なりの良い男女の二人組が多い。俺は山本に尋ねる。

「何で、この店にしたんだよ?」

「ん。いつも前を通っていて、良さそうだなと思ってたんだ。だから、偵察も兼ねてな」

「偵察? 誰かと、こんなところに来る予定があるのか」

「あろうがなかろうが関係ない。いつでもチャンスをものにできるように準備しておく。それが大切だろ」

 そういうものなのか。感心しているとウェイターが注文を取りに来た。山本が食べ物と飲み物を注文して、一息ついたところで、ヤツが俺に尋ねる。

「で、何があったんだ?」

 山本は察しが良い奴だ。俺からは「またメシでも食わないか」と誘っただけに過ぎない。しかし、連絡は取り続けているものの頻繁に会っている訳ではない俺からの誘いだ。しかも、二週間前に会っている。これからどんな話題なのかも、既に察しているかもしれない。だから、単刀直入に本題へ入ろう。

「前に話したキックボクシングジムのインストラクターの話なんだが」

「だろうな。で、どうなった?」

「やっぱり、俺とのことは遊びだったらしい」

「もう少しちゃんと説明しろよ。どうしてそう思ったんだ?」

「ネットで調べたら、出てきたんだ。そいつが前のジムで対戦相手やジムの会員に手を出していたって」

「ちょっと待て。対戦相手ってことは女だろ。どっちもいけるヤツだったのか」

 ん、何を言っているんだ。対戦相手も男に決まっている。そう答えようとして、ハッと息を飲む。

 山本は渉が男だということを知らない。俺の相手だから、女性だと思い込んでいるのだろう。だとしたら、ここは誤解させたままにしておこう。

「そうだ。で、あいつにそのウワサを確認したら認めた。好きな相手に冷たくされたから、その埋め合わせにいろんなヤツとやったって」

「ふぅん」

 山本は腕を組んで、深く息を吐く。その間にウェイターが、白ワインとスープを持ってきた。しかし、いきなりアルコールを身体に入れる気にはならない。俺は山本が頼んだコーンポタージュを口にした。

 黄みがかったクリーム色の液体はとろりとして、ほんのりとした甘味がある。温かいものを身体に入れたからだろうか。カサついた心が滑らかになったような気がする。続けて白ワインを飲むと、よく合った。

 恋人への気持ちが揺らいでいる時にこんな気遣いをされたら、恋に落ちてしまうかもしれない。山本め、油断のならないヤツだ。こいつから恋愛話はほとんど聞いたことがなかったが、なかなかの遊び人かもしれない。

 徐々に頬が熱くなってきた。アルコールのせいだろう。美味いメシと美味い酒が、じわじわと俺の心の穴に染み渡ってきた。

 もう終わったことをごちゃごちゃ言うのはやめるべきかもしれない。深入りする前に気が付けたのだから、不幸中の幸いなんじゃないだろうか。

 さっきは山本に任せて、ろくに見なかったが、他にも美味いものがありそうだ。俺がメニューに手を伸ばそうとしたら、山本が口を開いた。

「ひとつ質問なんだが。お前のところのジムはその子の悪いウワサは知っていたのか」

「ああ。インストラクターの話では、才能があるからって採用したらしい。他のジムは悪評を聞いて、受け入れなかったらしいんだが」

「そうか。だとしたら、高橋。お前が早とちりをしているかもしれない」

 一瞬、俺の周りにあった音が消えた。胸の奥で何かがざわめきはじめる。それを静めるために、俺は言葉を発した。

「どういうことだ?」

「その子は何故、自分のウワサを正直に認めたんだ?」

「事実だから、だろう」

「けど、前の職場はそれで辞めさせられたんだろ。他のジムもそれが理由で拒否されている」

「何が言いたいんだ?」

 そう言いながらも、耳を両手で塞ぎたい気持ちが沸き上がってくる。だが、聞かなくちゃいけない。俺は山本の言葉を待つ。

「その子はプロなんだろ。今のジムはそのために残された、最後の場所だ。それなのに、全てを台無しにする真似をするか」

「そういう、だらしないヤツなんじゃないか」

「けど、その子はお前にウワサが事実だって認めたんだろ。プロを続けたいなら、普通はウソを吐くんじゃないか」

 渉がバカだから、言い訳も考えつかなかったんじゃないか。心の中で思ったが、そんなことを考えた自分自身が嫌になった。短い期間しか接していないが、そんなヤツじゃないことを俺は知っている。俺は目をつぶり、声を絞り出す。

「そうだな。俺なら自分を守るためにそうする」

「だろ。なのに、その子はリスクを負って、正直に言った」

「つまり、俺に対しては本気だったと?」

「さてね。けど、お前がその子に対して思うところがあれば、聞く価値はあるんじゃないかな」

 そうだな。こいつの言う通りだ。俺の心は「確認したい」という方に傾いている。

 それにしても、山本は何で渉の気持ちを想像できたのだろうか。遊び人同士だから? だとしたら、こいつも本気で向き合いたい相手がいるのかもしれない。それはどんな人なのだろうか。

 いろいろ想像をしていると、ウェイターがテーブルへ皿を置いた。蒸し鶏に温野菜がたっぷり入ったサラダだ。柚子の香りを鼻が捉える。これまた美味そうだ。

 もし俺の誤解だったなら、渉に何かお詫びをしなきゃダメだろう。これを食わせたら、ちょっとは許してくれるだろうか。

 いや。山本が俺にしてくれたように、あいつに合わせたものを用意しなくちゃいけない気がする。そのためには味を確認しなくちゃいけない。俺はフォークでサラダを取り分けると、調査を始めた。

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