第6話

 俺は靴を履いて、エレベーターで一階に降りる。きらめく街をタクシーが通り過ぎた。道行く人々も歓楽街へと吸い込まれていく。目的は違うが、俺もその一員だ。渉の家に向かって歩き始める。

 彼から誘われて、思わずうなずいてしまった。けど、これは恋愛感情というより、先週の饗宴を再び味わいたいという気持ちの方が強いんじゃないだろうか。その証拠に俺の身体は熱に支配されている。

 渉が遊び人ならば、割り切って快楽の海に溺れるのを楽しむというのもひとつの選択肢だろう。ある意味、お互いにとって都合の良い関係だ。

 しかし、彼が俺のことを恋人として好きだとしたらどうだろうか。その場合、こちらの気持ちが重要だ。だが、そこが自分でもわからない。男同士ということもそうだが、そもそも俺は渉のことをほとんど知らない。わかっているのは、彼がキックボクサーだということと、身体の相性が良いことくらいだ。

 物事というのはやはり順序が大切なのだろう。気持ちを確認していく段階をすっ飛ばしてしまったのが問題だ。だが、そんなことを今さら言っても仕方がない。できるのは、これからお互いに知り合っていくだけだ。

 今のところ渉と接点を持てるのはジムだけしかない。職場では周りに話を聞かれてしまう。万が一、何かを察知されてしまったら困る。とりあえず、個人的な連絡先の交換くらいはした方が良さそうだ。

 問題はこっちが好きになってしまったのに、相手はそうでもない時だろう。想像しただけで胸が苦しくなる。ってことは、もう俺はドツボにハマっているのだろうか。それとも――。

 その時、俺の身体に衝撃がはしった。考え事をしながら歩いていたので、何かにぶつかってしまったらしい。顔を上げて目に入ってきたのは、いかつい顔の男だった。

 刃物のような鋭い視線でこちらをにらんでいる。ヤバい。明らかに住む世界が違う人種だ。さっきまでの火照りが一瞬で引いてしまった。むしろ肌寒いくらいだ。

「あぁん。痛てぇじゃねぇか。兄ちゃん、俺にケンカ売ってんのか」

 突然、呼吸が苦しくなる。男に襟元を捕まれているようだ。アルコールの香りが鼻につく。

 俺は助けを求めて、周りを見渡す。だが、誰も彼もこちらのことなど存在しないかのように通り過ぎていく。派手な格好のお姉さんたちがこちらを見ているが、楽しそうにおしゃべりしているだけだ。

 目の端が自転車に乗った警察官を捉えた。なんという幸運。これで助かる。しかし、警察官はこちらを一瞥もせずに通り過ぎていってしまった。なんてことだ。まさか、この方は警察官も関わりたくない御仁なのかもしれない。

 謝れば、許してもらえるだろうか。しかし、口の中はカラカラだ。上手く言葉が出ない。ああ、もうダメだ。人間はどうしようもないと思ったら、目をつぶってしまうものらしい。一発で済めば良いけど。覚悟を決めたその時、若い男の声がした。

「お兄さん、オレの連れが何かしましたか」

 目を開けるとそこには渉がいた。彼は右手で男の腕を掴んでいる。口元こそ笑顔を作っているが、その視線は鋭い。

「こいつが俺にぶつかってきたんだよ。で、苦情を言ってたんだ」

「それはすみませんでした。オレからはよく言っておくんで、今日はこのくらいで許してやってくれませんかね」

 男は渉をにらむが、彼は笑顔を崩さない。しばらくして、男が舌打ちをする。

「ったく、仕方ねぇな。お前ぇがその情けねぇ兄ちゃんをちゃんと教育しとけよ」

 吐き捨てるように言うと、首への圧迫がなくなる。そのまま地面に座りこんでしまいそうになったのを渉が支えてくれた。彼は俺の顔を覗き込む。

「大丈夫?」

「ああ、助かった」

 俺は改めてお礼を言う。

「ありがとう。恥ずかしいところを見せたな。キックボクシングをやっている癖に、ビビって何もできなかった」

「仕方ないよ。人って経験がなきゃ、とっさに反応できないから」

 スパーリングの経験はあるが、あれは所詮練習だ。俺が初心者だから、ヴァンさんも林さんも手加減をしてくれている。だから、痛みを感じたことはほとんどない。しかし、今回は違った。突然の暴力だ。心が折れてしまった。本当の格闘家なら、違うのだろう。

「渉は試合をしてるんだもんな」

「オレもあの手の人を相手にしたのは初めてなんで、内心ビビってたけど。あれで許してくれて助かった」

 そうなのか。渉でもそうなら、俺がああなったのも仕方ないことなのだろう。にしても、格好良かった。俺が女なら惚れているところだ。っていうか、心臓の鼓動がどんどん早くなっていく。俺は慌てて、自分の足で立ち上がる。

「じゃあ、行くか」

「はい」

 俺たちは先週と同じ道を通り、一直線に渉のマンションへ向かった。エレベーターに乗り、彼の部屋に入るとさっきまで無口だった渉が耳許でつぶやく。

「知ってる? 人間って、生命の危機を感じると種を遺そうっていう本能が目覚めるらしいんだ」

「へぇ」

 彼の言葉が意味することは察しがつくものの、俺は敢えて聞き流す。だが、渉は言葉を続ける。

「オレ、今それを実感してる。清吾は? 」

「ま、待て。ここは玄関だから」

「うん。だから、誰も邪魔するヤツはいないよ」

 彼が後ろからのし掛かってくる。首元を熱く湿った感覚が遠慮なく上がっていく。

「まだ、靴も、脱いでない」

「そうだね。手伝うよ」

「違っ、それは靴じゃ――」

 野生に返った獣が、そこにはいた。俺も既に手遅れだ。

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