第5話

 エレベーターの中で俺は身体を縮こまらせて、ジムがある階に着くのを待つ。室内はお香のようなにおいが充満している。発生源は隣にいる彫りの深い男からのようだ。後ろでは二人の女性が明らかに外国語とわかる言葉で騒いでいる。

 相変わらず多国籍なビルだ。エレベーターが目的階の数字になり、ドアが開いた。俺は声をあげる。

「降ります」

 他の乗客の間をすり抜け、外に出る。ガラス製の扉の奥から、タイ語らしき音楽と鈍い打撃音がする。誰かがサンドバッグを蹴っているのだろう。

 俺が扉を開くとカウンターでインストラクターの林さんが女性の会員と和やかに話をしていた。俺が頭を下げると、林さんが挨拶をしてくれる。

「高橋さん、こんばんは。今週もよろしくお願いします。これ、お土産です」

 彼が差し出した箱の中には、可愛い包装が並んでいる。どうやら、ちんすこうのようだ。俺は林さんに尋ねる。

「沖縄に行ってたんですか」

「うん。今度、うちもついに沖縄でジムを開くことになって。その関係で」

「おおっ、スゴいですね。ここの他のにもジムを作るなんて」

「ヴァンさん、けっこうやり手なんだよ」

「へぇ」

 俺は箱の中から袋をひとつ取って、カバンの中にしまう。今日、渉は来ていないんだろうか。ジムの中を見回してみたが、姿は見えない。勤務のスケジュールを確認するため、俺は何気ない振りをして林さんに聞く。

「先週、新しいインストラクターになるっていう黒田さんって人に会ったんですけど。今日は来てないんですか」

「ああ、黒田くん? もう会ったんだ。彼はこの後、来る予定だよ」

「そうなんですね。沖縄にも進出するから、人を増やしているんですか」

「あっ、うん。そんなところ」

 林さんの返事は妙に歯切れが悪い。何か隠しているようだ。だとしたら、簡単には話してくれないだろう。

 どうしたものだろうか。俺は据え置きのタブレット端末でチェックインの手続きを済ませ、更衣室へ行く。個室の扉に貼ってあったポスターに目が止まった。

 先週、渉のスマートフォンで見せてもらったものと同じものだ。こうやっていつも見ていたハズなのに、言われるまで彼の存在に気が付かなかった。興味を持って見ていなければ、何も見ていないのと同じだな。

 部屋へ入り、着替えるためにポケットに入っていたスマートフォンを取り出す。

 そうだ。もしかしたらネットで調べれば何かわかるかもしれない。俺はさっきのポスターに書かれていた渉のリングネームをスマートフォンで検索する。

 検索上位に出てきたのはさっきの試合に関連したページや公式の記録のようなものばかりだった。だが、画面をスクロールしていくうちに指が止まった。

 掲示板のようなサイトに書かれていたのは、渉が対戦相手やジムの生徒に手を出しているという書き込みだ。彼の勝利を「身体で取った」と茶化すようなことも書かれている。

 山本がこの前言った「お前以外にも手を出してそう」という言葉が頭に浮かぶ。

 俺とのことも遊びだったのだろうか。その言葉が頭に浮かぶと、胸の中に真っ黒なものがズシンとのしかかったような気がした。

 どうやら俺は自分が渉にとって特別な存在だって信じたかったようだ。けど、実際には違った。大勢の中のひとり。たまたま移籍したジムで初めて見つけた獲物に過ぎなかったのだろう。

 いや、ネットのウワサがどこまで正しいかはわからない。ただの誹謗中傷って可能性もある。

 俺は着替えを済ませると荷物を持って、カウンターで作業をしている林さんのところへ向かった。

「林さん、これ」

 俺は渉のことが書かれているサイトを林さんに見せる。彼は「あっ」と大きな声をあげた。かと思ったら、慌てて口を塞ぐ。つまり、林さんはこの件について知っていたということだ。俺は小声で彼に尋ねる。

「これって本当なんですか」

「ん、どうかな。僕は違うと思うよ。黒田くんって、この業界ではけっこう注目されてるからさ。やっかみでこういうことを書く人がいるんだ」

 俺はキックボクシング業界のことは詳しくないので、渉がそれほどの実力があるのかはわからない。しかし、有名人がやっかみから、ありもしないことを言いふらされてしまうというのはありそうなことだ。しかし、あまりにも突拍子のない話であれば誰も信じないだろう。

「けど、火のない所に煙は立たないって言いますよね」

「そう、だね。彼とそういう関係があった人はいたって聞いている。でも、高橋くんも話をしたんだったらわかると思うけど、年相応の子だろ」

 そこに異論はない。自分の目よりも、どこの誰とも知らないヤツの言葉を信じていたんだな、俺は。林さんは言葉を続ける。

「黒田くんは才能がある。けど、こんなウワサのせいで前のジムを追い出された。他のジムにも全部断られて。だから、ヴァンさんが声をかけたんだ」

「何故?」

「ヴァンさんのご家族にそういう人がいるらしい。それにあの人、細かいことを気にしないでしょ。『実力があるんだから良いじゃない』って言って」

 確かにヴァンさんは僕に指導をしてくれる時も通じているかどうかなんてお構いなしだ。思わず笑ってしまう。林さんは眉間のシワを緩めた。

「高橋くんが『心配だ』って言うなら、僕から彼にはきつく言っておく。だから、この件は内緒にしておいて欲しい」

 林さんはじっと俺の目を見つめる。実はもう手遅れだ。けど、もう少し黒田渉という人間を見極めたいという気持ちにはなった。俺はうなずく。

「わかりました。あと、俺がこの事を知っているのを黒田くんには言わないでください。彼も仕事をしにくくなると思うんで」

「ありがとう、そう言ってもらえると助かる」

 後ろで一ラウンドが終わったことを示すアラームが鳴った。さて、練習だ。まずは運動前のストレッチをしよう。俺は腕をおもいっきり伸ばす。

 一連のレッスンが終わると、先週と同じく生徒は俺だけになった。かかっている曲が海外のアーティストの歌うダンス調の曲に変わる。閉店の合図だ。

 俺もシャワーを浴びて帰り支度を済ませた。あとはチェックアウトをするだけだ。カウンターへ行くと、渉がいた。

「高橋さん、お疲れ様です」

 彼は練習をしている最中に来たが、先週のことなどまるで何もなかったかのような顔で対応してきた。

 とはいえ、仕事をする人間としては間違っていない態度だ。オレの男と言わんばかりに、ベタベタされても困る。

 一夜の過ちだったというのであれば、それはそれで良いのかもしれない。彼がウワサ通りの遊び人なら、深入りする前に縁が切れた方が傷も浅くて済む。

 俺が靴を探していると彼は声のボリュームを抑えて、言った。

「清吾。この後、良かったらまた家に来ない?」

 渉の言葉で先週の夜に感じた感覚が身体から呼び起こされる。心臓がバクバクなって、胸が苦しい。俺が何とかうなずくと、彼は満面の笑みを浮かべた。そして、辺りの様子を伺った後に言葉を続ける。

「じゃあ、先にマンションの入口まで行っててよ。オレも片付けが終わったら、追いかけるから」

「わかった」

 俺が答えた後に、カウンターの奥にあるスタッフルームから林さんが渉を呼ぶ声がする。彼は俺に「後でね」と手を振って、奥の部屋へ行った。

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