第2話
結局、俺たちは一時間半ほど飲んでタイ料理屋を出た。予告の通り、おばさんはかなりサービスをしてくれたようだ。料理の量がいつもより多かった気がする。上機嫌のヴァンさんを見送ると、黒田くんが俺に頭を下げた。
「高橋さん。遅い時間まで、ありがとうございました」
「いや。俺も楽しませてもらったよ」
「そうですか。それは良かったです」
答える彼の顔は真っ赤になっている。少々、足取りが危ない。彼、無事に帰れるのだろうか。
「黒田くん、家は近いの?」
「はい、ここから五分くらいなんで」
それくらいならば、何とかなるだろう。とはいえ、彼が指差した方は怪しげな雰囲気のお姉さんが街角に立っている区画だ。黒服のお兄さんもよく見かける。格闘家といえども、酔っ払っていて平気だろうか。
「ひとりで帰れる?」
黒田くんは首を傾げる。何を聞かれているかわからない、といった雰囲気だ。その姿はまるで学生のように見える。って、年齢的にはおかしくはないのだが。彼はこちらの言いたいことがようやくわかったとばかりに口を開く。
「高橋さん、良い人ですね。そうだ。オレの家で、もうちょっと飲みません? まだ時間ありますよね」
時計はまだ午後十一時前だ。十二時過ぎまで終電はあるので、ちょっとであれば時間はある。大体、俺の家もここから二駅のところだ。いざとなったら、歩いて帰れる。
「オッケー」
「やった。マンションの一階にコンビニがあるんで、寄って行きましょう」
黒田くんは鼻歌を歌いながら、歩き始める。人気の女性アイドルグループが歌っている曲だ。格闘家っていうからもっと男らしいものが好きなのだろうと思っていた。けど、それって偏見だよな。中身は俺とそう変わらない年相応の男子なのだろう。
マッサージの勧誘をしてくるお姉さんたちをかわして進んでいくと、徐々に派手な看板が減っていく。シャッターが降りた店の並ぶ商店街を通り過ぎた先は、さっきまでのにぎやかさがウソのように静まり返っている。
道を歩く人はほとんどいない。この辺りまで来たことはなかったが、普通の住宅街なんだな。黒田くんの進む先を見ると、薄暗い通りに一ヵ所だけ煌々と明るくなっているところがあった。コンビニだ。上には十階分くらいの部屋があるので、あれが黒田くんのマンションだろう。彼は光の方を指差す。
「あれがオレの家です」
やっぱりか。俺たちは予定通りコンビニに入り、酒と軽く食べられるおつまみを取る。レジに並んでいると、黒田くんが声を上げた。
「あっ。これ、美味いんですよ」
彼の目線を追うとコンビニスイーツの棚だった。指差した先にあるのはシュークリームのようなお菓子だ。
「黒田くん、甘いもの好きなんだ」
「はい。だから、減量しなくちゃいけない時は地獄なんですよ。どうしようかな。次の試合はまだ先だけど――」
「そんなに悩むほど美味いんだ。じゃあ、俺と、はんぶんこにする?」
「えっ、良いんですか」
「俺も食べたくなったから」
「やった。じゃあ、買いましょう」
黒田くんがお菓子を取って、買い物カゴに入れると俺たちの順番になった。支払いを済ませて、俺たちは彼の部屋へ向かう。
エレベーターを上がって、最上階に着くと目の前にキラキラ光る街が見えた。昼間であれば、ジムのあるビルも見えるんじゃないだろうか。マンションは決して新しくないが、清潔感はある。
黒田くんは一番奥まで行き、ポケットからカギを取り出した。ドアを開けて、俺を招き入れる。
部屋の中は殺風景だった。冷蔵庫とベッドくらいしかない。キッチンはピカピカだ。プロテインを飲むためであろう器だけが無造作に置かれている。全身鏡があるのは、家でもトレーニングをするためなのだろう。
黒田くんはワンルームの床にコンビニの袋を置くと床にそのまま腰を下ろした。
「テーブルもクッションもないですけど」
黒田くんが手で床を叩いたので、俺も彼の側に座った。彼はレジ袋の中を漁り、缶をひとつ取り出す。
「オレはこれにしよ」
黒田くんが手に取ったのはアルコール度数が高いヤツだ。俺は彼に確認する。
「黒田くん、大丈夫?」
「へーきです。っていうか、オレの方が年下なんだから渉で良いですよ」
「わかった」
「そういえば、高橋さんは、なんて名前なんですか」
「清吾」
「清吾さん、良い名前じゃないですか」
自分だけ敬語を使われるのは、なんだか嫌だ。せっかくだから、もっと気楽に話をしたい。俺は渉に提案する。
「サンキュ。けど、ここはタメ語でいこう」
「オッケーっす。じゃあ、飲みましょ」
渉が缶を掲げたので、俺も袋の中からひとつ選んで乾杯をした。乾きものを摘まみながら、渉が俺に尋ねる。
「清吾はいつからあのジムに通ってんの?」
「半年くらいかな」
「へぇ。他の会員さんって、どんな人がいる?」
「中年のおじさんと女性がほとんど。俺、あんまり別の会員さんと話したことがないんだよね」
「こういう教室って、会員さん同士で付き合うことってよくあるじゃん。清吾は狙ってる人とかいないの?」
渉のヤツ、もしかして俺のことを助けてくれようとでもしてくれているんだろうか。
「俺、雑談とか苦手でさ。知らない人に何を話し掛けて良いのかわかんないんだよね」
「でも、オレとはこうやって話せているじゃん」
「それは渉が話を振ってくれてるから。ちなみに、お前はどうなんだよ」
「何が?」
「とぼけんな。恋愛だよ」
「オレ? まあ、たしなむ程度ってところかな」
これは遊び人の発言に違いない。
「体育会系のヤツって、性欲強そうだよな」
「それは偏見ってもんじゃない? それにオレはコミュニケーションを大切にする方だから」
「コミュニケーション?」
「どこが気持ちいいとか、あるでしょ」
ストレートな下ネタだったらしい。その時、耳に息が吹き掛けられる。突然の不意打ちで、身体に甘い刺激が走った。思わず上げそうになった声をなんとか堪えて、俺は渉に抗議する。
「急に何するんだよ」
「たとえば、こんな風に相手の反応からいろいろと推察するんだ。清吾、耳弱いんだね」
「ただ、びっくりしただけだって」
「へぇ。そうなんだ」
渉はすかさず反対側の耳を狙ってきたので、手でガードする。
「そうはいかない」
「おっ、やりますね。けど、それもフェイントだったらどうするんですか」
渉の手が俺の脇腹を触る。彼はまるで触手のように指を動かし、的確にポイントをついてくる。くすぐったくて、笑い声が止まらない。何とかその攻勢から逃れようと身をよじるが、渉の指は俺を翻弄する。
くすぐったさが、次第に別のものに変わっていくような感覚が走った。ヤバい。俺は身体をじたばたさせて、何とかその魔の手から逃れた。
だが、渉はこちらの隙を伺うようなポーズで構えている。油断したら、またやられる。しかし、脇腹さえ守れれば良い。俺は彼の手を封じることに意識を集中させた。
渉が手を伸ばしてくる。させるか。彼の腕を掴む。すると急に引っ張られた。うぉっ、バランスが崩される。とっさに重心を下げて足を踏み込む。
腕を掴むのは危険だ。渉が続いて伸ばしてきた手を俺は払いのける。彼がニヤリと笑った。何を企んでいるのだろう。
その時、床の下から何かが突き上げるような音がした。俺はゆっくりと口を開く。
「下の人、怒ってるぞ」
夜遅い時間にこんなにドタバタしていたら、当然だろう。渉は構えを解いて、床に腰を下ろした。
「だね。とりあえず、一時休戦といこうか」
「一時休戦って、またやる気か。今度は隣の部屋の人も殴り込んで来るぞ」
「大丈夫、隣は住んでないから」
「そういう問題じゃないだろ」
渉の空気を読まない回答に、俺の足の力が抜けた。床へ座り込み、彼を諭す。
「俺はここに住んでいる訳じゃないから良いけど、渉は近所の人と揉めたら困るんじゃないか」
「まあね。とりあえず何か言われたら、格闘技の練習って言っとくわ」
確かに組み手の練習っぽかったな。階下の住人もうるさくしていたのが格闘家だとわかったら、ビビるかもしれない。けど、それで良いのか。一応、年上として忠告するべきじゃないだろうか。
そんなこちらの気も知らず、コンビニの袋を漁っている渉は声を上げた。
「あっ、そうだ。これ食べよ」
渉が手に持っているのは、さっきコンビニで買ったシュークリームのような菓子だ。彼はベリベリと袋を破り、かぶりつく。
「美味っ」
続いてもう一口。顔には満面の笑みを浮かべている。まるで子どもみたいだ。気が付いたら、一人で全部食べ尽くそうとしている。全く、しょうがねぇな。俺は鼻を鳴らした。
「渉。それ、俺と、はんぶんこって言ってなかったか」
渉は食べるのを止めて、こちらを向いた。手元にあるのは空の包装だけだ。全部、食っちまったのか。とはいえ、別に俺が食べたかった訳じゃない。彼が迷っていたから、分け合うことを提案しただけだ。
「別に良いよ」と答えようとしたら、渉が俺の方に身を乗り出してきた。口の中にクリームの甘味が広がる。続いて、酸味だ。ストロベリーとヨーグルトだろうか。濃厚な口当たりで確かに美味い。
ってどうなっているんだ。俺の口の中で何かがうごめいている。それは俺の舌にクリームを味あわせたかと思ったら、吸い上げる。その度にクリームとは違う甘い刺激が、俺の身体に走った。
気が付くとクリームの甘味はなくなって、俺の唇は渉の舌で丁寧に拭われる。
「うまかったでしょ。おかわり、欲しそうな顔してる」
そう言うと彼は再び顔を近付けてきた。今度は手が加勢するように俺の首筋を上がっていく。指が触れた場所から力が抜けて、蕩けるような感覚が沸き上がってくる。思わず息が漏れた。渉が耳元でささやく。
「こっちも遊んで欲しそうだ。よだれが出てますよ」
彼の右手が首元から離れ、ジーンズのボタンが外された。ジッパーの金属音がして、布地の上を指がなぞると反射的に声が出てしまう。渉は気遣うように言った。
「清吾、苦しいでしょ。オレが手伝うんで、スッキリしよっか」
俺は酔っ払って、介抱されていたんだったっけ。何か言おうとすると彼は俺の唇に立てた人差し指を押し付ける。
「オレに任せて」
次の瞬間、俺の身体を強い刺激が襲った。初めての感覚に翻弄されて、何もできない。呼吸が乱れ、心臓がバクバクする。快感が頭を貫き、何も考えられない。
下を見ると渉と目が合った。彼は視線に気が付くと上目遣いでいたずらっ子のような微笑みを浮かべる。その顔は何故か美しく、淫らだ。
最後の瞬間が訪れつつある。俺は渉にそれを告げると、ラストスパートと言わんばかりに攻勢の手が更に激しくなった。そして――。
エネルギーを搾り取られて脱力状態になった俺の耳に、渉の唇が触れた。彼の少し乱れた吐息は、敏感になった身体を煽る。
「まだ元気みたいだね」
えっ、何を言っているんだ? 渉の言葉の意味がわからない。だが、彼は俺の上に跨がり、着ていたパーカーとTシャツを脱ぎ捨てる。発達した胸筋だ。腹筋も六つに割れている。男として羨ましい。見惚れていると渉は舌で自分の唇をなぞるように舐めた。
「じゃあ、次のラウンドに行こっか」
頭の中で、いつもジムで聞くアラームが鳴ったような気がした。
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