1ラウンドでノックアウト

藤間 保典

第1話

 三分間、それがキックボクシングにおける一ラウンドの時間だ。だからなのだろう。このジムでは全ての練習が三分間で一セットになっている。

 金曜日の午後九時を過ぎて、雑居ビルのワンフロアにあるジムに残っている会員は僕だけだ。お陰で十人もいれば満員になってしまうスペースを自由に使って練習ができる。インストラクターも独占できるから、来るのはいつもこの時間だ。

 縄跳びにはじまり、サンドバッグへの前蹴り、今やっている膝蹴りがニセット終われば、次はシャドーボクシングだ。

 目の前に人がいるかのようにパンチやキックを繰り出して、真っ白な壁一面に張ってある全身鏡でフォームをチェックする。

「高橋さん、それじゃダメ。こうだよ、こう」

 コーチのヴァンさんが素振りをして、俺に見せてくれる。彼はタイで有名な選手で、日本でも格闘技の試合に出ている人らしい。確かに全身に鎧のような筋肉がついていて、サンドバッグを蹴ると骨が折れそうな音がする。

 いつも笑顔で親切な人だ。しかし、日本語が微妙なうえに、アドバイスが感覚的なので、どうしたら良いのかいまいちわからない。天性の才能を持っている人は、教えるのが苦手なのだろう。

 俺も本格的にキックボクシングを学びたくてこのジムに通っている訳ではないので、構わないのだが。

 仕事を初めて三年経った頃だ。気が付いたら、会社に入社した時よりも十キロも体重が増えていた。デスクワークでほとんど動かなくなったのに、飲み会が多くなってしまったのが原因だろう。

 当初はそのうち戻るだろうとたかをくくっていた。しかしある朝、会社の先輩を見た時、腹がベルトに乗っているのに気が付いた。俺の頭に「明日は我が身」という言葉が浮かんだ。

 とはいえ、最初は普通のスポーツジムを探していた。だが、大学時代の友だちの山本と話をしていた時にヤツが空手を始めたと聞いて気持ちが変わった。

 山本も俺と同じく運動はそれほど得意には見えないタイプだ。なのに格闘技をしていると聞いて、俺の心が刺激された。

 しかし、山本と同じ空手をするのは癪だ。せっかくだから、あいつが驚くような競技にしよう。そう思って、見つけたのがここだ。

 営業時間や家からの距離はちょうど良い。インストラクターもそこまで厳しくなく、ある程度自由に練習をさせてくれる。

 困るのはヴァンさんの話に時々タイ語らしき言葉が混じるのと、技術的な説明がほとんどないことくらいだ。一応、技術的なことを知りたい時は、たまに来る日本人インストラクターの林さんに聞けば教えてはくれる。

 体重は三ヶ月で入社時の数値に戻った。筋肉が増えたことを考えれば、むしろより良い状態になったと言えるだろう。勢いで決めたにしては、良い結果になっているんじゃないだろうか。

 ジムの中にアラームが鳴り響く。三分間経った。これから一分間の休憩だ。水分補給をしているとジムの入口が開き、高校生か大学生くらいに見えるパーカー姿の若い男が入って来た。

 新しい会員さんだろうか。しかし、このジムで見かけたことのある会員は年配の男性と女性ばかりだ。

 男はショートカットで髪を刈り上げている。よく見ると肩幅があり、身体も分厚いようだ。格闘技の経験者だろうか。目が合うとニカッと笑う。

「おはようございます。林さん、いますか?」

 林さんに用事ということは体験入学だろうか。けど、今日はまだ見ていない。どう答えようか。困っているとスタッフルームから、ヴァンさんが戻ってきた。

「黒田さん、良く来たね。入って、入って」

 男性は俺にお辞儀をすると、ヴァンさんの手招きに従って奥へ入っていく。どうやら知り合いだったらしい。もしかして新しいインストラクターだろうか。休憩時間が終わって、俺は再びシャドーを始める。

 この後は実際にインストラクターと模擬的な試合をするスパーリングだ。しかし、今はジムにいるインストラクターがヴァンさんだけ。彼が戻って来なければ、次の練習はできない。わかっているとは思うが、大丈夫だろうか。

 アラームが鳴ったので、俺はジムの壁にいくつも掛けられているグローブの中から、レンタル用のを選ぶ。手を守るためのインナーを着けていると、やっとスタッフルームからヴァンさんが戻ってきた。さっきの彼も一緒だ。

「高橋さん、紹介します。彼は黒田さん。新しいインストラクター」

 やっぱり新人だったらしい。彼が頭を下げたので、こちらも挨拶を返しているとヴァンさんが言った。

「この後、黒田さんの歓迎会をするよ。高橋さんも来る?」

 練習の後は帰って寝るだけだ。明日は土曜日だから、ちょっとくらい遅くなっても大丈夫だろう。山本と飯を食う約束があるが、あれは日曜日だ。

「はい」

「オッケー。じゃあ、さっさとスパーリングを終わらせて、飲みに行くよ」

 ヴァンさんがミットを身に付けると、ラウンドの始まりを告げるアラームが鳴る。

 終わったら飲み会だからなのか、ヴァンさんのスパーリングは激しかった。終わった後はマットの上に倒れこんでしまった。

 とはいえ、汗だくのまま飲み会へ行く訳にはいかない。ジムでシャワーを浴びてさっぱりすると、ヴァンさんが予約をしたお店を教えてくれた。

 前にも行ったことがあるタイ料理屋だ。ヴァンさんはジムを閉めるための後片付けがあると言うので、俺が黒田くんを連れていく。

 店はジムから歩いて一分くらいのところだ。ドアを開けると、店主のおばさんがいつもの個室に通してくれた。エスニック柄の絨毯やクッションが置かれていて、寝そべっても平気な部屋だ。

 黒田くんは、部屋に置かれた仏像や観葉植物を物珍しそうに眺めている。おばさんが部屋に来て、ビール瓶と海老せんをテーブルに置いていく。

「ヴァンは『ちょっと時間かかるから、先にはじめてくれ』って」

「わかりました」

 黒田くんが答えるとおばさんは彼の顔をまじまじと見つめた。

「あんた、良い男だね」

「ありがとうございます。このお店、良いところですね。オレ、これからヴァンさんのところで働くんで、また来ますよ」

 彼はおばさんに、にっこりと微笑む。

「ああ、来てくれ。あんたなら、サービスするよ」

「オレ、貧乏なんで助かります」

「そうか。ムエタイ選手は身体が大事。今日もたくさん食べて行きな」

 おばさんは軽くうなずくと、部屋を出ていった。僕は黒田くんをひやかす。

「黒田くん、モテるね」

「ははは。オレ、よく年上のお姉さんに気に入られるんですよ」

 言われて見れば、彼は愛嬌のある犬顔だ。年上に可愛がられるタイプだろう。ウブそうに見えて、けっこうお盛んなのだろうか。黒田くんは俺を見て、笑顔になる。

「先にはじめてろ、ってことですから、ちょっと口を付けておきましょうか。高橋さん、どうぞ」

 黒田くんの勧めに甘えて、俺がグラスを差し出すと、彼は瓶を傾けてビールを注いでいく。泡とビールがちょうど良いバランスだ。

「おぉ、上手いね」

「先輩に鍛えられましたから」

「そっか。キックボクシングってやっぱり体育会系なんだな」

「強けりゃ年齢は関係ないのが建前ですけど、愛想良くしておいた方が無難なんで」

「ってことは、黒田くんは強いの?」

「ほどほどですね。って、キックボクシングは詳しいですか」

「いや、全然。俺は運動不足解消のためにやっている程度だから」

「けど、それにしては身体がガッシリしてますよね」

 黒田くんは筋肉を確認するように俺の身体を触ってくる。いかにも体育会系っぽいノリだ。

「一応、学生時代にスポーツはしてたから。けど、腕とかは全然細いでしょ」

「確かに。草食動物のように、しなやかな筋肉ですね」

「ははは、情けない」

「いや、褒めているんですよ。柔軟性のある筋肉の方が、ケガはしにくいですから」

「黒田くんはどうなの?」

「言葉で説明するよりも、触ってもらった方が良いと思います」

 彼が腕を出してきたので、俺は服の上から触らせてもらう。岩のような硬さだ。ジムのインストラクターをするくらいの実力があるのだから、当たり前なんだろうが。

「流石だね。どうやったら、こんな筋肉が付くの?」

「その辺りはレッスンで教えますよ」

「サンキュ。じゃあ、一杯。って飲んで平気な年?」

「二十一なんで、もう大丈夫です」

 やっぱり年下だったのか。肩の力が抜けた俺は、黒田くんのグラスにビールを注ぐ。二人とも準備ができたので、一足先に予行練習をはじめる。

 おばさんが追加で持ってきた空芯菜の炒め物に箸を付けながら、俺は黒田くんに尋ねる。

「黒田くんはキックボクシングで食っていくつもりなの?」

「はい。一応、プロデビューもさせてもらったんで。この前も試合に出たんですよ」

 黒田くんはスマートフォンを操作して、俺に画面を見せてくれた。ジムにも貼ってあったポスターだ。一番目立つところにヴァンさんが載っている。

 彼が指差した先に黒田くんらしきリングネームと小さい顔写真があった。だが、ジム名が違う。この場は彼の歓迎会だとヴァンさんが言っていた。つまり、前に所属していたところなのだろう。俺はキックボクシング業界には詳しくないが、移籍したってことは何か事情があるのだろうか。考えていると、ヴァンさんが個室に入ってきた。

「お待たせ。じゃあ、はじめましょう」

「はい」

 黒田くんがハキハキした声で答えて、ヴァンさんが持ったグラスになみなみとビールを注いだ。

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