無口な中野くんから逃げられません

安里紬(小鳥遊絢香)

本編

「おはよう」

日南子ひなこ、おはよう。今日も中野くんと一緒?」


 高校一年の秋。片想いをしていた中野大翔ひろとくんに、とんでもない告白をされて、私と中野くんはお付き合いをすることになった。


『中野の乱』


 そんな名称まで付いたあの告白は、私の中でも一生忘れられないものだ。


 あれから、三か月が経ち、いつの間にか冬真っ只中。息も白くなるこの季節、私は少々不満を抱いていた。不安ではない。不満だ。


「今日もなし?」

「聞かないで」


 廊下側の後ろから二番目が私の席だ。そこに座り、こちらを振り向いて楽しそうに話しかけてくる奈々の言葉に、口を尖らす。


「相手は、あの中野くんだよ。一体いつになるのやら」

「別に焦ってないもん。でも、憧れはあるでしょ?」

「そりゃ、誰でも憧れてるよ。手を繋いで登下校。そして、好きな人とのキ・ス!」

「やめて! 奈々、声が大きいんだから。彼に聞かれたらどうするの?」

「むしろ、聞かせてやりなさい。聞かせて、焦らせればいいのよ」

「いいの! 私は今でも幸せなんだから」


 そう。幸せだと胸を張って言える。


 だけど、やっぱり高校生になって、好きな人とお付き合いができて、次に期待するのは、そういうことだろう。焦ってはいないけど、不満ではある。


 もともと物静かで、クラスでも全く目立つことのなかった中野くん。前髪がかかった目はあまり力が入っていなくて、どことなく暗くも感じる。いつも窓際の一番後ろの席で、窓の外をぼんやりと眺めているのが、みんなの中で一番馴染んでいる中野くんの姿だ。


 人といることはなく、かっこよく言えば、一匹狼タイプ。そんな彼がしてくれた告白は、誰も予想できるものではなかった。これで、中野くんは変わるのだ。誰もがそう思った。あんなにかっこいいことをしたら、モテて大変になるのではないか、と。私なんて嬉しい反面、不安になったものだ。


 だけど、その日の帰りには普段の無口で、何事にも無関心な中野くんに戻っていて、みんな首を傾げたものである。


 ただ、誰にも内緒にしていることがある。中野くんは、私と二人きりの時だけ、視線を上げ、いつもは暗く見える表情を変えて、優しい笑顔を見せてくれるのだ。俯いていることが多くて、誰も気付いていなかったけど、中野くんはいわゆるイケメンという部類に入る。


 背の高い私よりも更に高い身長と、長くてバランスのいい手足。長い前髪に隠されたくっきり二重の大きな目。よくこれまで隠してこられたなと感心するほどの容姿をしている。隠している理由は分からないけど、心配性の私としては少しありがたい。




 ある日。私は偶然、中野くんが女の子に呼び出されたことを知った。その頃はまだ、『中野の乱』を引きずっていた頃で、何度も告白されているという噂は聞いていた。


「ちょっと! 日南子、後つけるよ」

「え、奈々!? 待って!」


 私は奈々に手を引かれて、強制的に中野くんと女の子の後をつけることになってしまった。


 向かったのは校舎裏。告白には打ってつけのシチュエーションだ。私の心臓はドクドクと嫌な音を立てる。中野くんが不誠実なことをするとは思っていないけど、やっぱりこんな場面は見たくない。


「中野くん、実は私」

「俺が好きなのは、日南子だから。日南子しか見てない。だから、こういうのやめてくれる?」


 それは、一瞬の出来事だった。女の子は気持ちを口にすることすらできなかった。私がいない時でも、こうして私のことを言ってくれている。そう思うと、不安な音を立てていた心臓が、今度はキュンキュンとかわいい音を立てる。


「はぁ……これは、なんか、ごちそうさま」


 奈々の呆れたような、でも、どことなく満足そうな言葉にふふっと笑う。こんな中野くんだから、私は余計な心配をしないで過ごしていられるのだ。





 ***


「おい、日南子。あれ貸せ」

「あれって、何よ」


 休み時間。私の席に来て、ぶっきらぼうに言ってきたのは、同じバレーボール部の加瀬くんだ。


 お互い、中学時代からバレーをやっていて、大会で顔を合わせたことがあったから、入学早々、自然とよく話す仲になっていた。たまたまクラスも一緒になり、中野くんを除けば、異性で一番仲がいいのは彼だろう。


「古語辞典貸してくれ」

「いいけど」

「今日、当たるのに、祐二に写させてもらうの忘れたんだよ」

「おかしいな。どうして、写すことが当然になってるのかな」

「そりゃ、頭のいい奴は利用するものだろ」

「ちょっと違う」

「いいよな、お前は勉強それなりにできるし、もういっそ、日南子のノートを写させてくれよ」

「お断りします!」


 ふざけながら、私の肩を抱いてくる加瀬くんの腕をパシパシ叩く。


 いつもこうだ。加瀬くんが私のことをからかって、それに私が抵抗する。この流れでスキンシップが多いということに無自覚だった私たちは、後に気付かされることになる。


「あ、あれ、中野くんじゃない?」


 奈々の言葉にふと後ろを向くと、中野くんが男の子の落としたプリントを拾ってあげているところだった。


「中野くんらしい」


 こういった気配りをみんなに気付かれないようにしている理由は、目立ちたくないから。


 人に邪魔されずに静かに過ごしていたいから。


 だから、誰にも気付かれたくないらしい。だったら、放っておけばいいのに、そうできないところが、私の好きなところであり、尊敬しているところでもある。


 あ、お礼を言われたのに、頷いただけでどこかに行っちゃった。残された男の子が苦笑しているのは、中野くんがそういう人だと、みんながわかっているからだ。


 そんな静かな中野くんが、大きな声を出して、目立つようなことをするとは思いもしなかった。


『中野の乱』


 まさかの再来である。





 ***


 ある日の昼下がり。今度は英和辞典を借りに来た加瀬くんと、私の席でふざけて遊んでいた時だった。


「加瀬! お前、何かわいい子と遊んでんの?」


 突然、私たちの間に降ってきた知らない男の子の声に、思わず肩がビクッと上がった。背の高いその人は、加瀬くんの肩と私の肩に手を置いて、馴れ馴れしく抱き寄せてくる。


佳樹よしき先輩……!」

「そう、俺、金井佳樹っていうの。加瀬と中学が同じだったんだよ。君の名前は何かな?」

「え、え……あの」


 体格も良くて、茶髪で、制服も着崩していて。こちらの反応も気にしないで、グイグイ攻めてくる金井先輩が、私にはとても怖くて、うまく言葉が出てこない。


「佳樹先輩、すみません。ちょっとふざけていただけなので、こいつのことは」

「別にいいじゃん! 減るもんでもないし。ねぇ、名前教えてよ。今日、カラオケ行かない?」

「やっ、あの」


 加瀬くんが必死に止めようとしてくれるけど、先輩の勢いはとどまることなく、私の手首を掴んで顔をのぞき込んできた。何かされたわけじゃないのに、怖くて、気持ち悪くて、体が震えてくる。


 誰か、誰か、助けて! 中野くん!


 私が心の中で叫んだと同時に、がたんと大きな音が教室に響き、ザワザワしていた教室内が一瞬で静まり返った。

 

「その手、離してもらえますか」

「中野くん!」


 久しぶりに聞く中野くんの凛とした声。それは教室内によく響いた。グループごとに集まって話していたクラスメイトは、一様に口を閉じ、中野くんと私を交互に見ている。そんな視線を物ともせず、中野くんはつかつかと私たちのところまで歩いてきた。


「何だよ」

「その子、返してもらいます」


 中野くんがそう言い切るが早いか、私の手首が解放されるが早いか。


「え?」


 中野くんが先輩の手首を持ったと思った瞬間、間の抜けた声を出した先輩はくるりと回って、床に倒れ込んでいた。


「げ、中野、合気道できんの?」


 近くにいた加瀬くんが言った言葉に、中野くんを見上げると、相変わらず涼しい顔をしてブレザーの僅かな乱れを直している。ふわりと空気を含んだ前髪が、サラサラと元の位置に戻っていく。一瞬見えた目は、ハッキリした力を宿し、静かな怒りが滲み出ていた。


「男は大切な人を守るために強くなるんですよ。人を怖がらせるためじゃない」


 静かな口調だったが、私には分かる。中野くんはすごく怒っているんだって。


「何だよ、お前!」


 苛立った声で叫んだ先輩を、中野くんは鋭い目で見下ろす。


「日南子の彼氏ですよ。厳しく育てられて、その理由が小さな頃はわからなかったけど、今ならわかります。俺は日南子を守るために強くなったんです。これからも、強くあり続けたい。先輩は、誰を守るために生まれてきたんですか?」


 その後、物音一つしない静寂が降りた。みんなの心に、中野くんの言葉の重みが沁みていったのだと思う。


 それから、先輩は舌打ちを残して、教室を出て行った。ホッと息を吐き、胸を撫で下ろす。だけど、今度は中野くんの大きな手に手首を捕らえられ、次の瞬間、私の体は温かいものに包まれていた。


「日南子に触っていいのは、俺だけだから」

「な、中野くん」

「日南子、俺の名前は?」

「……大翔くん」

「うん。日南子は気を抜くと、すぐに名前呼びを忘れる」


 それはごめん。だけど、この体勢は何事なのでしょう!?


 私の体は細身な中野くん、ううん、大翔くんの体にすっぽりと覆われ、目の前に見えるのはブレザーとネクタイだけ。


 すっぽりと、覆われ……?


 温かい?


 この初めての温もりは?


「なな、ひひ、ひろとくん!? これ、この」

「日南子、落ち着いて」

「おお、落ち着いてって……」


 この体勢で落ち着ける人。今すぐ、この場に整列してください!


「日南子は誰の彼女?」

「ひ、大翔くんの」

「そう、日南子は俺の大事な彼女。大事すぎて、なかなか触れることができないのに」

「え」

「俺はそんなに大人じゃない」

「大翔くん……」


 少しだけ拗ねたような声は幼く感じても不思議ではないのに、なんだかいつもより低くて、強くて、男らしい。


 体に直接響く振動が、抱き締められていることを実感させる。バクバクとうるさい心臓は痛いくらいだ。だけど……だけど。


 私の耳に聞こえてくるのは、大翔くんの速くなった鼓動。私だけじゃなくて、大翔くんもドキドキしてるんだ。


 先輩がいなくなって安心したはずなのに、心臓はまったく言うことを聞いてくれない。


「心が狭いって、呆れる?」

「ううん、呆れたりなんてしないよ」


 呆れるどころか、そんなふうに思っていてくれたなんて、嬉しい気持ちが勝つよ。


「それなら、他の男に触らせるのだけはやめてくれる?」

「うん、ごめんね」

「いや、俺が我慢できなかったことが、一番ダメだから。ごめん」


 ごめん、という言葉とともに、大翔くんの腕に力がこもり、私は大翔くんの胸に顔を埋めることになった。


「終わったか?」


 不意に聞こえた先生の声に我に返って、グイッと大翔くんの体を押した。何も言わずに私の体を開放した大翔くんは、私の心臓をなだめる様に背中を撫でて、自分の席に戻っていった。私なんて、顔も真っ赤で、手だって震えるくらいドキドキしているというのに。チラッと窓の方を見ると、涼しい顔をした大翔くんは、またいつものように窓の外を見てしまった。



 その日、日直だった大翔くんの帰りに合わせて、私も教室に残ることにした。教室は人気ひとけがなくなり、今では二人きりだ。


 いろいろな仕事を終えた大翔くんが自分の席で日誌を書いているのを、その前の席に座って眺める。今日、初めて感じた大翔くんの温もりは熱いくらいで、私とは全然違うんだと実感させられた。


 バレーボールをやっている私の体は、他の女の子に比べると柔らかくないはずだ。だけど、それよりもずっと、大翔くんの体の方がしっかりしていて、たくましくて、普段の印象とはまったく違った。そんな自分との違いに、私の心臓はまた大きく高鳴る。


「日南子」

「なに?」

「今日はごめん」

「ううん、私が悪かったから」

「日南子はかわいい」

「えっ」

「日南子の優しいところも、明るくて元気なところも、誰とでも仲良くできるところも、笑った顔も、ちょっと拗ねた顔も。全部が好きだし、そのままでいてほしいと思ってる」

「う、うん」

「俺さ、前髪で目を隠してること気付いてる?」

「……うん、そんな気がしてた」


 やっぱり意図的に隠していたんだ。綺麗な瞳なのに。もっとみんなに見せないともったいないのに。そう思っていたけど、次に続いた大翔くんの言葉で撤回することになった。


「俺の目は好きなものしか映したくないらしい」

「どういうこと?」

「日南子をよく見られたら、俺は幸せだから。だから、普段は前髪の下でいいんだ」

「大翔くん……」


 どうしよう。もう倒れそう。そんな嬉しいこと言うなんて、ずるいよ。


「ああ、嫉妬なんて、初めてしたな」

「……ごめん」

「いや、こういうのも悪くない。でも」


 大翔くんは、言葉を途中で切ったかと思ったら、シャーペンを日誌の上に置いた。それを目で追っていると、大翔くんの大きな手が上がり、長い人差し指が私の髪を耳にかける。そのまま指が滑って、頬がすっぽりと覆われた。心臓が頬に移動して、そこがドクドクと脈打って熱い。


「日南子も、俺だけを見てろよ?」


 その言葉に茫然としていて、気付けば、大翔くんの顔がゆっくりと近づいてきていた。


「日南子に触れたい」


 真剣な表情。長い前髪から覗く、真っ直ぐで強い眼差し。私は無意識に視線を下げて、大翔くんの薄くて形の綺麗な唇を見てしまった。心臓がドクンと大きく跳ねて、私はそのまま弾け飛んでしまいそうだ。


「好きだよ」


 そう言って、私の唇に温かくて柔らかいものを押し当てた。


 窓の外は夕陽が沈みかけていて、藍色へと変化している。空の低いところには、柔らかそうな綿雲がいくつも浮かび、そこに去り際の太陽の光が名残惜しそうに当たっていた。


 ゆっくり離れていく顔と顔。ほんの少しだけできた距離は、いまだに呼吸を忘れさせる。


「日南子の初めては、俺だけのものだ」


 それから、私はどこか現実感がないまま、大翔くんが日誌を書き終わるのを待った。


 すっかり暗くなった通学路を並んで歩く。私の右側だけ酸素が薄くて、そこに沈んだはずの太陽があるみたいに熱くて、とてもじゃないけど平静でいられない。周りから見たら、何も変わらないのに、昨日までとは違ってしまった私たち。


 誰よ。中野くんがこういうことしてくれるのは、いつになるやら、なんて言ったのは。あっという間に初めてのキスをされちゃった。そんなことを考えていた私の右手が、何かに包まれた。


「今日からここが、日南子の手の居場所な」


 そう言われ、私の右手は大翔くんのコートのポケットの中に連れ去られてしまった。狭い中で指と指が絡められる。


 初めてキスをした日。


 私たちは初めて手を繋いで、通学路を歩いた。


 月の光に照らされた私たちの影。そこに、これまで二人の間にあった距離はなくなっている。私はこの素敵な人に心を捕らえられて、もう逃げることはできなくなった。






 *終*

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