第五章『彼の脚は、山羊の脚』
十四年前、マッドサイエンティスト島田博士によって行われた「キメラ製造実験」。
それは、ある動物の遺伝子を抽出して、人間の体の一部に組み込むというもの。遺伝子を組み込まれた人間の体の一部には、その動物の特徴が発現してしまう…。
鈴白桂馬は、島田博士の実験の最初の被験者であり、被害者だった。
「逃がすかよ! 臭いは覚えたんだ! 俺の山羊の力を舐めんなよ!」
山羊とは、ウシ科ヤギ属の総称である。
家畜としての山羊は穏やかな印象を抱くが、本来は山岳地帯を好んで生息している。
その一番の特徴は、標高が高く、足場の悪い場所で暮らす中で強靭に発達した脚力である。
この脚があれば、山岳地帯の岩場を悠々と駆け抜け、断崖絶壁であっても爪を立てれば上ることができる。
そして、この脚で蹴られれば、人はひとたまりも無いだろう。
鈴白桂馬の下半身は、この山羊の脚を有していた。
「よっしゃ! 一気に終わらせてやるぜ!」
下半身より生えた山羊の脚で地面を蹴った桂馬は、人通りの少ない路地を駆けぬけていた。地面を蹴るたびに、カンッ! と蹄がアスファルトをはじく音が響き、さらに加速する。
着物をはためかせつつ、桂馬は何処かに向かって叫んだ。
「おい! オヤジ! いるか?」
すると、彼と重なり、何か、別の蹄の足音が近づいてきた。
白い影が、桂馬の横に並ぶ。
「よし、オヤジ、追いついたな!」
それは、桂馬の身の丈の二倍はあろう、雌のシバヤギだった。
桂馬に「オヤジ」と呼ばれた山羊は、その穏やかな目で彼を一瞥しつつ、「めえ!」と鳴いた。
「オヤジ、今から、誘拐された堂々咲家のご令嬢を助けに行くぜ!」
「めえっ!」
「報酬は、堂々咲邸の庭に生えている芝だ!」
「めえっ!」
「ったく、たぎるよなあ!」
そう唇の端を舐めた桂馬は、次の瞬間飛び上がり、民家の屋根の上に着地した。勢いを殺すことなく走り出し、対象が逃げた方向へと進む。
「金持ちの家の庭に生えている芝生なんだ。さぞかし美味いだろうよ!」
「めえっ!」
「絶対に任務を遂行して、高級芝にありつくぜ!」
そう宣言した瞬間、山羊のオヤジの足音と、桂馬の足音が重なる。
「最短距離で行くぜ!」
「めえっ!」
オヤジの鳴き声を合図に、彼は走りながら身を屈めた。
その強靭な脚力を使って、屋根から屋根、屋根から電柱、電柱から電線へと飛び移る。走る速度は決して弱まることはなく、むしろ加速していく一方だった。
「いまだ!」
再び屋根に飛び降りた彼は、そう叫んだ。
と同時に、桂馬とオヤジ、二人同時に、斜め三十度方向へと跳び上がる。
空中で身を捩った桂馬は、並行して飛ぶオヤジの前に出た。
「行くぜ! オヤジ!」
「めえっ!」
オヤジも同時に身を捩り、桂馬の方へと後脚を伸ばした。
「オレの脚は…」
桂馬とオヤジの足が重なる。次の瞬間…。
「『山羊』の脚ッ!」
ゴンッ! と、蹄と蹄が激突する音が響いたかと思うと、桂馬の身体は弾丸のような勢いで空中を横断していた。その速度、実に時速一〇〇キロ。
風を切り、スズメの群れを貫き、道行く者たちに「UFOだ!」と後ろ指を指されつつ飛んだ彼の視界三十メートル先に、見覚えのある黒い車。
「見つけた!」
獲物に追いついたことを確信した桂馬は、着地するために身を捩る。その瞬間、腹に向かい風を一心に受けてしまい、飛ぶ勢いが一瞬にして弱まった。
「ちっ!」
今減速すれば、車には追いつけない。
一瞬考えた末、彼はさらに身を捩り、回転しつつ、向かいにあった電線に着地した。その衝撃が伝わり、電線が弓の弦のように大きくしなる。メリメリ…と、嫌な音さえもした。
「耐えろよ!」
そう言って蹴り出す。バチン! と電撃が電線に走ると同時に、桂馬の身体は再びパチンコ玉のように空中に放たれていた。
今度は十分すぎる加速。そして、距離。
「よっしゃ!」
羽織をモモンガのように広げて勢いを調整しつつ、走る車を先行すると、手ごろな位置にあった民家の壁に着地した。
間髪入れず、壁を蹴って跳び出す。
「オレの脚は…」
一直線に車に近づく。
「『山羊』の脚!」
己を鼓舞するように叫んだ彼は、走る車のサイドドアに蹴りを入れていた。
ボコンッ! と鈍い音とともに、車のボディが凹む。雷に打たれたかのような衝撃に、一瞬にして制御不能になる。
中の運転手が慌ててブレーキを踏むと、車は横滑りをしながら、端の塀に激突した。
ガッシャーンッ! と激しく破損する音。
「やべっ! 中のお嬢様大丈夫かな?」
車が通った後には真っ黒なタイヤ痕が残り、焦げ臭さが充満していた。
離れた場所に着地した桂馬は、慌てて駆け寄った。
「おーい、大丈夫か?」
と言った傍から扉が開いて、天音を誘拐した男が這い出てきた。
「な、なんなんだ急に!」
突然、空から飛来してきた桂馬に、男は困惑を隠せていなかった。
「どうも!」
桂馬は爽やかな笑みを浮かべると、地面を蹴った。
バコンッ! と音がして、彼が立っていたアスファルトに蜘蛛の巣状の亀裂が入る。
姿勢を低く、地面を這うように、そして、人間の知覚が反応できないほどの速さで男に接近した桂馬は、その鳩尾に拳を叩き込んだ。
「ぐへえ!」
内臓が破裂するかのような痛みに、男は白目を剥く。そして、背中から倒れ込み、気絶してしまった。
「はい、一丁あがり」
先ほどの失態を一瞬にして取り戻した桂馬は、肩の力を抜き、得意げに笑った。
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