その⑥
さっきの着物の少年だった。
彼は明美を立たせると、彼女の頬についた泥を拭った。
「もう一度言うぜ、オレを雇えば、お嬢様は無事に助けるぜ」
「だから…!」
明美は苛立ちに任せて、少年の手を払った。
「あなたに何ができるのですか? 車にはもう…」
「金は要らんよ」
明美の言葉を遮り、少年がにやりと笑って言った。
その言葉に、思わず拍子抜けする。
「お金は…要らない?」
「ああ、放浪するオレに大金なんて無用だからな」
少年はひらひらと手を振り、着物の裾を揺らしながら半歩下がった。その時、カツン…と乾いた足音が立つ。下駄を履いているのだと思った。
「あんたの家って、庭はあるかい?」
「庭…? ありますけど」
「芝生は、植えているか?」
「芝ですか…、植えています」
「よし来た」少年は嬉しそうに指を鳴らした。「オレに、その芝をくれ。三キロくらいで構わない。それを報酬にする」
「芝…だけですか」
少年が何を言っているのかわからず、ぎこちなく返事をした。
「それだけで、良いのですか?」
「ああ、もちろん」
少年は着物を揺らしながら明美に背を向ける。その時にもまた、カツン…カツン…と乾いた下駄の音が響いた。
「信用できないか? だったら、見せてやるよ」
そう言うと、彼は徒競走のスタート前のように、右脚を前に出し、左脚を下げ、腰を落とした。
「オレは今から、お嬢様を救ってくる」
「え…」
「その活躍を見てからでも、オレを雇うかどうか、決めてくれや」
「でも、車は…」
言いかけた時、地面を這うような風が吹いて、少年の袴の裾が少し捲れた。その下から覗いたものを見た時、明美は目を疑った。
「…あの、その脚は」
一瞬、見間違いかと思った。
着物の裾から見えたもの。本来なら、下駄を履いた人間の足が見えるはずだった。
違った。それは、杖のように細く、灰色で、そして、硬化した桜の花びらのような爪を持った足だった。人間じゃない。明らかに、人間の足ではない。
それはまるで、山羊の足。
「ああ、この脚かい?」
少年は前方を見据えながら言った。
キリキリキリ…と、筋肉と筋肉がこすれ合う音が辺りに響く。
「じゃ、改めて、自己紹介といこうじゃねえか」
少年は大きく息を吸い込み、言った。
「オレの名前は、『鈴白桂馬』…」
手を前に翳し、歌舞伎のように見栄を切る。
「そしてオレの脚は…」
桂馬…と名乗った少年が地面を蹴った瞬間、そのあまりにもの脚力に、空気が揺れ、アスファルトに蜘蛛の巣のような亀裂が入った。
「『山羊』の脚ッ!」
まるで弾丸のような勢いで走り始める桂馬。明美の「え…」という困惑の声を置き去りにして、交差点に飛び出すと、走り込んできた車にクラクションを鳴らされつつ、方向を転換し、車が走っていった方へと消えた。
取り残された明美は呆然と立ち尽くした。
半開きになった口から、疑問が洩れる。
「…山羊の、脚?」
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