その⑤
ゴンッ! と鈍い音がして、明美に馬乗りになっていた男の首が右にのけ反った。
音は空に吸い込まれ、一瞬の静寂が舞い降りる。
男の口から「くふ…」と、だらしない声が洩れたかと思うと、そのまま倒れ込んでしまった。
「え…」
男の拘束から解放された明美は、恐る恐る身体を起こす。
顔を上げて見ると、そこには若い男が立っていた。
「え、ええ?」
その男を見た途端、変な声が洩れた。
明美に覆いかぶさっている男の後頭部に衝撃を与え、気絶させるという超人的な業を見せた彼は、灰色の着物に、黒い羽織を纏っていた。顔は、人を挑発するかのような淡白眼に、通った鼻筋。へらっと笑った口元では八重歯が光っている。頭は天然パーマなのか、羊のようにぼさぼさで、頬の輪郭は丸かった。
容姿から判断するに、少年。
明らかに、十四、五歳の顔立ちを彼はしていた。
大人じゃない。明らかに、子ども。
「…あ、あの…」
どう反応すればいいかわからず、放心していると、少年が口を開いた。
「お困りかい? おねえさん」
「え…、おねえさん?」
明美のショートしかけた脳に、「おねえさん」という甘美な言葉がねじ込まれる。
ポンッ! 頭のネジが一つはじけ飛ぶ。
明美は顔を真っ赤にして、自分の頬を抑えた。
「ちょっと! やだ、おねえさんって! 私がおねえさんに見えるの? まだ若く見えるの? やだ、まだまだ私も…」
「ああ、困ってなさそうだな」
少年は白々しく言い放つと、踵を返して立ち去ろうとした。
「待って待って!」正気を取り戻した明美が慌てて引き止める。「困っています! 思いっきり困っています!」
「だろうな」
少年は向き直ると、自身の淡白眼を指した。
「さっきこの目で見たから」
「なんでさっき助けてくれなかったんですか?」
この少年がそこそこ武術に長けていることは、傍らで気絶している男を見ればなんとなくわかる。ならば、自分よりも天音を優先して助けてほしかった…と思うのが本音だった。
「まあまあ」少年は身振り手振りで言った。「あんた、口調と身なりから察するに、名家の従者だろう」
「…そう、ですけど。それが、何か?」
「だったら、このオレを雇ってみないか?」
少年が自身の胸を指す。
「このオレなら、さっきさらわれたお嬢様を助け出すことができるぜ」
「雇う?」
唐突は提案に、思わず声が裏返る。そして、嫌な予感がした。
「ほら、見ろよ。地面で伸びているこの男…こいつは、オレがやったんだ。わかるだろ?」
生意気な笑みが明美の方を向く。
「つまりだな、オレは、『強い』ってこと」
「…はあ」彼が言おうとしていることを察して、明美は失望のこもったため息をついた。「なるほど、その力でお嬢様を助けに行く代わりに、相当な金を要求するつもりですね」
首を横に振る。
「そんな集るような真似に、この堂々咲家の女は従いません」
ぺこりと頭を下げると、少年の横を通り過ぎた。
「それに、犯人はお嬢様を車で誘拐しました。例え、あなたが強くとも、もう追いつけませんから」
それでは…と言って走り始める。
もうこれは自分の力では解決ができない問題だ。クビになるだろうが、警察に報告して、旦那様にも伝えなければならないと思った。
いや…、もし相手が身代金目的だとしたら、警察に連絡するのは逆効果ではないか?
走り始めたものの、すぐに足に力が入らなくなる。
「…どうする?」
思考がまとまらず、思わず口に手を当てた。
「…どうしよう…、どうしよう」
だが、警察に連絡しないことには、この状況を打破できるとも思えない。
緊張で足元がおぼつかなくなる。
次の瞬間、アスファルトの亀裂につま先が引っ掛かり、つんのめった。
「あ…」
転ぼうとする寸前、誰かが明美の首根っこを掴んで支えた。
「ほら、大丈夫か?」
さっきの着物の少年だった。
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