その③

「いや、これでは何とも…」

 すると、さっきまで泣きそうだった昭三の声が、突然どすの利いた野太いものに変わった。

「天音の部屋の床に、穴が空いていた」

「…はあ」

「その下は、メイドの明美たん…じゃなくて、佐藤の部屋だった」

「…え? はあ」

「天音が消えたと同時に、佐藤も消えた」

「ほうほう」

「門番が、大きなキャリーバッグを提げて外に出て行くのを目撃した…」

「はあ…」

「タクシー会社に確認すると、ついさっき、堂々咲邸から、タクシーの手配があったらしい」

「…ふむ」

 従者たちは目を見合わせた。なるほど確かに、これはもう言い逃れができない。

 昭三は立ち上がり埃が付いたスーツを掃うと、目を細め、窓の外を見た。

「わしは悲しいよ。娘が生まれて十六年。あの子には真摯に接してきたつもりだった。洋服が欲しいと言われれば買い与えたし、勉強がしたいと言ったから、家庭教師も雇った。食うにも困らせなかった」

 眉間に皺が寄るのと同時に、目からぽろっと涙がこぼれる。

「裏切られた気分だよ。わしが何をしたってんだ」

 いや、外に出るのを禁止してきたからだろ。あと、部屋に盗聴器を仕掛けたからだろ。

 というツッコミを飲み込み、従者の一人が恐る恐る手を挙げた。

「ですが、行き先が分からないのでは、連れ戻しようがないのでは? こんなことを言うのは誠に恐縮ですが…、お嬢様は外の世界の興味があられたのだと。後から叱るとして、しばらくの間は自由にさせてみてはいかがでしょうか?」

 その言葉に、昭三が鷹のような眼光で振り返った。

 従者は言葉を引きつらせながら続けた。

「それに、状況から察するに、傍にいるのは佐藤です。彼女は、ここにきて二年ですが、誰よりも天音お嬢様と打ち解け合っています。大事には至らないと思うのですが…」

「いや、だったら尚更だ。おそらく、佐藤は天音の言うとおりにするはず…」

「それのどこがまずいので?」

「ああ、まずい。めちゃくちゃまずい。堂々咲製菓誕生八十年記念で開発した、マヨネーズソースケーキよりもまずい」

 その時、その場にいた誰もが、昭三が、お嬢様が外に出ることを禁止しているのが、単に我が子可愛さからではないのだと気づき始めていた。何か他の理由があるに違いない。だが、血色の悪い唇から洩れるのは、「まずい」という抽象的な言葉でしかなく、わかったのは、堂々咲製菓八十周年記念で開発したスイーツ(?)が工場三台閉鎖の間接的な要因になったことくらいだった。

 顎に手をやり、身体を小刻みに揺らしながら考えた昭三は、不意に歩き始めた。

「旦那様?」

「お前らは仕事に戻れ」

 そう言ってから、何処かに呼びかける。

「おい! 斎藤! 斎藤はおるか!」

 すると、前方の部屋の扉が開き、黒いスーツを身に纏った男が出てきた。

 一八〇センチはあろう身長に、スーツ越しにでもわかる逆三角形の肉体。丁寧に整えられた角刈りで、陽光を遮るサングラスは、その寡黙な印象をさらに際立たせている。

 一見、ヤクザ風の男が、昭三の前に立つと、恭しく頭を下げた。

「斎藤はここに」

戦前に操業し、一〇〇年以上の歴史を誇る堂々咲製菓。移り変わる当主らは、必ずしも素晴らしい手腕を持っていたわけじゃない。この昭三のようにマヨネーズソースを使ったケーキを開発し、会社の経営を九〇度傾けるような者だっている。それでもなお、この時代に生き残っているのは、やはりこの家に黒い部分があるからだ。

 世間様には言えない、あんなことやこんなことをして、会社を存続させた昭三には、やはり、その反動が返って来る。

 この斎藤は、その火の粉を払う、昭三専属のボディーガードだった。

「お嬢様の件ですね。旦那様」

「うむ、早いな。話を聞いとったのか?」

「はい。『あまねえええええ』のところから」

「わしの声色をマネするんじゃない!」

 とツッコミを入れつつ、昭三はスーツのネクタイを整えた。

「任せられるか?」

「もちろんでございます」

 サングラスの奥の、斎藤の目がギラリと光った。

「この斎藤、必ず、お嬢様を無事に連れて帰ってみせます」

「うむ、任せた」

 斎藤の広い肩をぽんっと叩いた昭三は、彼の耳に口を寄せて囁いた。

「天音はおそらく、病院に向かったはずだ」

「…はい」

「天音があそこにたどり着くまでに、必ず連れ戻せ」

「かしこまりました」

 斎藤から離れた昭三は、ふう…とため息を吐いて、哀愁漂う目で窓の外を見つめた。

「天音よ…、世の中にはな、知らない方が幸せなことだってあるんだ…」

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