第二十二話 葛藤

 警視庁捜査三課課長みずぬまゆうは、夜遅くまで家に帰らずどこへ行くのか。

 真相を確かめるため、探偵あずまとしゆきは水沼を尾行する。

 二十二時四十五分、水沼は黄金区南西部の恵比寿通りを歩いていた。三十分以上も雨の中を歩き続けている。

 もちろん、水沼を尾行する東もまた雨に濡れていた。

 恵比寿通りは歓楽街である。あちらこちらから焼き鳥のタレが焼ける香りや残業が終わったばかりの会社員たちの騒ぎ声が聞こえてくる。

 そんな中、水沼は居酒屋や風俗店を無視し、どんどん歩いていく。恵比寿通りの端を示す赤い門が雨に霞みつつも見えてきた。

 このままでは黄金区すら出てしまう。東が水沼に対する心配を強めていた時、

(あれ? このあたりって確か)

東は見落としていた事実に気づいた。寿

 東はあの赤い門を何度も見たことがあった。それは彼が黄金区の住人だから、というわけではない。

 水沼がたった今入店したバー「トゥルー・エビス」が、過去に東が何度も通った店だからだ。

 東は水沼が入店したのを確認すると、とっさに物陰に隠れ用意していた着替えに着替える。黄金区一有名である東を黄金区一有名たらしめる黄色いジャージを脱げば、彼はただの一般人と化す。

 そのまま入店し、水沼がカウンター席に座っているのを確認すると、小さなテーブルに座る。

 「お客さん、注文は?」

と、東の数少ない「知り合い」であるマスターに訊かれる。マスターは今入店してきた客が東敏行とは気づいていないようだ。

 「シードル(リンゴの炭酸酒)」

 東は自分を見せないように答える。探偵として身分を偽る経験を重ねてきた東にとって造作もないことだ。


 東は水沼とマスターが話しているのを、レコーダーを起動させながら聞いていた。

 「最近はどうも、司法のほうも色々大変なようだね」

と、マスターが水沼に問いかける。

 「はい……この前も検察内部が腐敗していたことがよくわかりましたし、裁判では外国人や女性は日本人男性より軽い罪になったり、なんなら不起訴にもなることが時々ありますから。私も何のために逮捕したのかわからなくなるんです」

 「それはどうも、どうにもならないねぇ……でも、なんかそれだけじゃなさそうだけど」

 マスターは東に似て人の心を推し量る能力があった。

 「はい……実は、私を本庁に異動させようとする動きがあるらしく」

 その言葉を聞いた東はひどく動揺した。思わず口に含んだシードルを吐き出しそうになった。しかし、仮にも探偵なので表情を表に出さずに心の中でシードルを吐き出す。

 (はぁ!? みっちゃんが異動!!? それはつまり……)

 「へぇ! どうも、黄金警察署を離れるということかい!?」

 マスターが東の思ったことを代弁した。

 「はい……さっき言ったその事件で、私が指定暴力団谷口組傘下・伊藤組の構成員を十人ほど逮捕したのですが、その功績をが何故か重要視していまして、私を刑事部の部長に配置しようと……」

 「刑事部部長!? ノンキャリアの君がかい!!?」

 「あり得ないんですよ、部長は警視監の仕事だ。ノンキャリアの私は警視正までしかなれない。そもそもこの若さで課長をやっていることすら同僚にはよく思われてないのに、部長なんて!! できるわけないじゃないですか!!」

 水沼は酔いが回り、怒り上戸を発動しかけていた。

 (だからこんな遅くまで飲んでるっちゅうのか? まつさんがどれだけ心配してるかも知らずに!)

と、東が心の叫びを繰り出すと

「だからってここ数日、こんな遅くまで飲んでばかりじゃないか! どうも、奥さんや息子さんがいる身という自覚がないようにも見えるぞ!」

と、マスターが東の心の声を代弁してくれる。

 「……」

 マスターに詰められたのが効いたのか、水沼は暫く黙っていた。今日は他に客はいないため人の声が全く聞こえない気まずい沈黙が流れる。

 数十秒後、水沼が口を開いた。

 「私は、家族が大事です」

 マスターが答えた。

 「当然だ。家族を大事にしない奴はクズだ。そして君はどうも、クズでないことは間違いない」

 また数秒の沈黙が流れる。その後、水沼祐樹は初めて本音を漏らす。


 「……妻の茉莉は世界に誇るピアニストですから、私よりずっと稼いでいて、それでも拘束時間の長い私に代わって家事や育児を多く担当してくれて、正直、私は必要ないのではないかと思う時があるんです」

 「「……!」」

 「警視監・刑事部部長になれば今より給料が上がるでしょうが、家庭と向き合う時間も減ってしまう……かといっても今のままでも……私は、どうすればいいんでしょうか?」

 水沼の注文したギムレットに水滴が落ちる。

 「まあまあ、俺の家族じゃないからねえ。みっちゃんが決断しない限りはどうも……とにかく俺が言えることは、家族を一番に考えろってこった」

 マスターは優しく水沼の肩をたたいた。



 水沼はその後退店し、東とマスターだけが取り残された。

 「……で、?」

 店長が東を呼ぶ。

 「……はぁ、気づいてたんすか」

 素直に東はカウンター席に着く。

 「このバーでシードルを頼むのはあっちゃんくらいだからねぇ。聞いてたでしょ? あっちゃん、さっきの話」

 「ええ、一部始終聞いてたっすよ。あとその呼び方いい加減やめてくれないっすか?」

 「なーに言うかね! どうも、しばらく見ないうちに素直じゃなくなったねぇ」

 「僕はいつでも素直っすよ」

 「いや、違うね。その『口調』が何よりの証拠だよ!」


 「……はぁ、まったく、しょうがないだろ、最近は口調を崩す暇すらないんだから」


 「いったい何時まであの変な口調でしゃべり続ける気なんだい?」

 「……俺が自由になれる日まで」

 「自由、自由っていうけど、どうも、君が自分で勝手に縛っているだけだろう?」

 「違う!!」

 東が誰にも聞かせることのない、怒りと悔しさのこもった声。

 「……どう思う? さっきのみっちゃんの話」

 「さあ……俺には家族はいないし、みっちゃんの問題だから。おかわり!」

 「はいはい」

 手際よくシードルをグラスに注ぐマスター。

 「みっちゃんは、俺の様子に気づいてたか?」

 「うーんどうだろうね……どうも、気づいてないようだけど」

 「……そもそも、みっちゃんは黄金警察署にいるはずの人間じゃねーんだよ」

 「ん? どういうことだい?」

 「捜査三課の課長って言ったら、基本は本庁で仕事する。みっちゃんが一警察署に配属されているのは、俺の存在が大きい」

 「ああ、君と打ち解けられるのがあっちゃんだけだからって?」

 「そう……俺もみっちゃんにすごく助けられたし、俺がいろいろグレーなことやってんのに検挙されないのもみっちゃんの根回しがあってこそ。それなのにみっちゃんがいなくなったら、警察との連携がとりにくく……」

 「それは君の都合だろう? どうも、君はあまりみっちゃんのこと心配してないねぇ?」

 「そりゃあ……水沼祐樹は心配されるような人間じゃないからな」

 「そうかい、みっちゃんは幸せだねぇ、こんなに信頼されて」



 それからも懇々と話は続き、東が店を出たのは日付が変わる直前だった。いつの間にか雨は止み、街灯に照らされ輝く道がはっきりと見えた。

 事務所までは三十分かかるため、当然ながら到着するころには日付は変わっていた。

 「さんは……もう寝たかな」

 そう呟きながら自宅の扉を開ける。


 「あ、東さん! おかえりなさい!」

 東の予想を裏切り、香菜はまだ起きていた。眠そうに眼をこすってはいたが。

 「ただいま……起きてたんすか」

 「はい、その……帰りが遅くて心配になっちゃって、エヘヘ……あの、夜食作っておきました! いかがですか?」

 頭を掻きながら照れ笑いする香菜。テーブルには湯豆腐と七味唐辛子が置かれていた。

 「何を茉莉さんみたいなこと言ってんすか。夫婦でもないくせに」

 疲れや酒が残っていることもあり、不機嫌そうに返事をする東。その様子を見た香菜は不満そうに口を開いた。

 「確かに夫婦じゃありませんけど、私達はルームメイトですよ? それに私、東さんの助手ですよ?」

 香菜は東に歩み寄り、手を取って優しく握った。

 「東さん、いい加減自覚してください! 東さんは一人で何でも抱え込みすぎです! たまには私を頼ってください!!」

 香菜の真剣な目は上目遣いで東の姿をとらえていた。

 「うん……ありがとうっす」

 東は手をほどくと、無気力に部屋に入っていった。

 (……東さん、一体何を悩んでいるんですか?)

 香菜は今にも泣きそうな思いを抑えていた。


 東は机の引き出しから何かを取り出した。

 それは写真立てだった。

 写っていたのは、制服を着た少年と、その隣にはスーツを着た女性。桜の花が遠くにある。高校の入学式と捉えるべきだろう。

 東はその女性に思いを馳せていた。

 「……俺、みっちゃんと違って家族はいないってマスターに言ったけど、香菜さんは……」

 その女性は、ももやま香菜に瓜二つであった。

 「ねえ、香菜さんは俺のこと『家族』って思ってくれるかな……

 止んでいた雨がいつの間にか再び降りだしていた。



第二十三話 前例無き事例の裏側 に続く

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