第十八話 推定有罪の呪い

 「ハァ……しかしどうしたものか」

 こん容疑者との面会を終えたあずまは、ささしまと別れて一旦事務所に帰ってきた。

 今はため息をつきながら、過去の痴漢事件についてパソコンで調べているところだ。

 (警察は何も被害者の親告だけで逮捕に動いたりなんかしない……通常は。第三者の目撃証言や科学的な証拠が無きゃ逮捕には踏み切れないはず……一度捜査一課の人に聞いてみるか……?)

 机に肘をつき、今後の展開を決めようと悩む東。そこにからんころんとドアベルが鳴る。

「只今戻りました」

が帰ってきた。六時になったら戻るようにと、東が言い渡していたのだ。

 「……」

 東は香菜が帰ってきたことにも気づいてなかった。

 「って、東さん? おーい……大丈夫ですか?」

 香菜が東の頬を指でぷにぷにと突いたところで、ようやく東が我に返った。

 「あ、香菜さんおかえり……もうこんな時間っすか……」

 「元気なさそうですね」

 「どうやったら無罪の確定的な証拠が手に入るか悩んでるんすよ……」

 「無罪の確定的な証拠? そこまでする必要あるんですか? 日本の裁判は推定無罪の原則が……」

 「そんなもの、男が被疑者で女が被害者の、しかも性犯罪の事件に存在するわけないじゃないっすか。あるのは『推定有罪の呪い』っすよ。無罪を証明するまでは犯罪者扱い、それが今の日本っすよ。痴漢と間違われるかもしれないからわざわざ電車の中で万歳しなきゃいけない側の性別にしかわからないんだろうけど……」

 やけにネガティブな発言を繰り返す東に、香菜も少しムッときた。

 「そ、そんなことないと思いますよ!」

と、スマホを取り出した。

 「見てください、これ。今回の事件のニュース、Twitterでも『冤罪じゃないか』って声が沢山! ほら!!」

 東にスマホを見せながら画面をスクロールする香菜。

 「世間の言い分なんか知ったこっちゃないんすよ。だって女が『痴漢だ』って言ってんだから」

 東の言い草に、香菜は若干切れかけていた。

 「らしくないですよ東さん!! 何ですか!? もう諦めたんですか!!?」


 「……とある男性が公然わいせつで逮捕された」

 「え? 急に何を」

 「証拠は被害者の証言のみ。第三者の目撃証言は無し。容疑者の手や被害者の衣服を調べたが、服の繊維や指紋は検出されなかった……この事件、一審ではどんな判決が下ったと思うっすか?」

 「え、それだけデータがあるんだったら、無罪になるんじゃ」

 「有罪っすよ」

 「……え? なんで!?」

 「『被告人が痴漢を起こしてないとは言い切れない』からっす。尤も、この事件では最終的に懲役十二年が確定したのち、被害者の女性が虚偽の告訴であることを告白し再審、事件から六年後に無罪になってるっす」

 「そんなのおかしいじゃないですか!! たとえ無罪になっても、その人にとって六年は帰ってこないし、社会的に失うものも……!!」

 「……ま、そうはさせないんすけどね。なんとしても今野さんを解放する。どんな手段を使おうと……」

 東は立ち上がった。

 「……そろそろ夕飯にするっすか」



 東と香菜は、事務所の上階にある住居スペースへ移動した。

 「そうだ、今回の調査はどうだったっすか?」

 東が、香菜が持っていたビデオカメラを確認しながら聞いた。

 「あー……それが」

 香菜はエプロンを付けながら応対した。

 「笹島先生が新藤さんの事男性恐怖症だって言ってましたけど、あれ多分嘘ですよ。男と二人で車に乗るなんてできるはずありませんからね。だからきっと無罪の証拠も……!」

 「……この男、どこかで見覚えが」

 ビデオを見た東がスマホを触りだす。

 「お知り合いですか?」

と香菜が聞く。

 「いや……あ、見つけた! この男、無産党の幹部議員っす!」

 「え!? 議員って、国会議員ですか!?」

 「そう……なんとなく事件の全貌が分かってきたっす。無産党は過激派っすからね……特にこういう性犯罪は騒ぎ立てるっすよ」

 「じゃあ、その無産党と戦わなきゃいけないんですか?」

 無産党とは、国政政党の一つである。議席数が大したことないとはいえ、長く歴史を持ち多方面に影響力を持つ無産党が係わってくるとなると、政治に疎い香菜は何をすればよいかわからない。

 「……いや、戦わずして勝つ方法はあるはずっす。とにかく香菜さんは、明日の新藤さんとの面会でしっかり情報を集めてくるっすよ。僕は黄金署の人間に話を聞いてくるっす」

 「そうですか……そうだ、東さんって牡蛎はお嫌いですか?」

 「この前言ったっしょ。僕は好き嫌いないから、何でも作ってもらっていいっすよ」

 その日の献立はカキフライであった。



 翌朝。

 「じゃあ、私は新藤さんの所に行ってきます」

 香菜が一足先に事務所を出ようとしていた。

 「うっす……」

 東はまだ元気が無いようだった。

 顔に影を落とす東を見るに堪えなかった香菜は、東に近づくと、なんと東の頭を撫で始めた。

 「大丈夫ですよ。きっと上手く行きますから」

 「なっ……!」

 予想外の行動に顔を赤くした東は、思わず香菜の手を叩いてしまった。

 「何するんすか!? 恥ずかしいっすよ!」

 ……数秒間時が止まった。

 「……プフッ」

 途端に吹き出した。そして一度決壊した笑いは、次々に氾濫を起こす。

 「あっはははははははは!!」

 「ちょ……香菜さん! 朝っぱらから迷惑っすよ!」

 「だって……ヒヒヒヒヒ……! 東さんがそんな表情するなんてっ……クフフフ」

 「もう!! 早く任務に行くっす!!」

 東は半ば無理やり香菜を外に追い出した。

 「ハァ……ハァ……」

 (全く、香菜さんが来てから何かと表情を崩してしまう……このままだと知られたくないことまで……いや、そのことを考えるのはよそう)



 探偵事務所から自転車で二十五分、香菜は昨日と同じく新藤の自宅までやってきた。二〇二三年六月一日の事であった。

 香菜が呼び鈴を鳴らす。

 『どちら様ですか?』

 「あのっ、私、ももやま香菜です。本日は例の事件についてお話をお伺いに……」

 『ああ、桃山さん。どうぞお入りください』

 新藤の声と同時に門の鍵が自動的に開く。

 香菜は門を押し開けて中に入ると、ふと立ち止まった。

 「……広っ」

 広いのだ。新藤の自宅があまりにも。

 黄金区においてはこのような邸宅は珍しいものではないが、八王子出身の香菜にとっては未体験エリアである。戸惑いながらも扉まで移動する。

 香菜が扉にたどり着く前に住人が出てきた。

 「は、初めまして! あず、いや武蔵法律事務所のももやまです」

と、法律事務所内には存在しない名義の名刺を出す香菜。

 『東探偵事務所の人間と名乗るよりも、笹島先生の事務所の人間って名乗った方が、多分不信感を抱かれにくいっすよ! 多分!』

 『曖昧でいいんですか? それ……』

というやり取りが昨日の時点で存在していた。

 「初めまして、新藤あゆです。どうぞお入りください」

 香奈は新藤の身体をじっくりと観察する。

 (寝不足ではなさそうね……食事もちゃんととれてそうだし、とても痴漢にあった後の人間とは思えない)

 「……あの、桃山さん? どうかしましたか?」

 「あ、いえ、なんでもありません。失礼します」



 一方、東は黄金警察署に到着していた。

 「捜査一課課長・すぎもと警視正はどちらにいらっしゃるっすか?」

 「杉本警視正ですね、少々お待ちください」

 受付の警官が内線で杉本警視正を呼ぶ。

 三十秒後、彼は現れた。

 「久しぶりだね東君、今日は何の用かな?」

 「うっす、スギちゃん! わざわざ本部からご足労ありがとうっす!」

 杉本警視正は四十七歳。かつてのみずぬまの上司でもある。ちなみに杉本に対してこのような口を利ける者は東のほかにはいない。

 「それで、今日僕がスギちゃんを呼び出したのは、先日黄金駅で起こった痴漢事件の詳細を知りたくてっすね」

 「痴漢事件……そこまで細かいことはあまり把握できてないんだ」

 「顔がめっちゃブッサイクな奴が被疑者の……」

 「ああ! あの事件か! 実はもう身柄送致まで進んでいてね」

 「なんですって!!?」

 思わず東はスギちゃんの両肩をつかんだ。

 「なんで送致しちゃったんすか!! 有罪の証拠は揃ってんしょーね!!?」

 「いやぁ……実は」

と、歯切れの悪い話し方をする杉本。東の圧力にたじろいで視線を外す。

 「あまり確定的な証拠がそろっているわけではなかったんだがね、すでに四十八時間も過ぎちゃったわけだし、検察の方からも『身柄送致しろ』って圧力がかかったもんだから……」

 「……はぁ? 今なんて? ものすごいこと言わなかったっすか?」

 「いやだから、……」

 東はその言葉を聞くと、杉本の首根っこを鷲掴みにして警察署の外に連れ出した。

 「今の話録音させてくださいっす」

 「は、はあ。まあいいけど……」

 その時、杉本は数年ぶりに見た。東の目が完全に闇に染まっているのを。



 杉本から話を聞いた東は、その足ですぐにとある場所へ向かった。

 (検察が警察に圧力をかけた……!!? そんなの普通あり得ない! 逆ならまだしも、ていうかそもそもなんで検察が事件を把握してんだ!! これは……相当面倒なことになるな)

 自転車のハンドルを握る東の手がさらに強張った。



第十九話 札束で殴るべし に続く



【お詫び】

 作品を書いている最中に現実の警察機構について調べたんですが……

 普通、各地の警察署には捜査一課とか捜査三課の組み分けはなくて「刑事課」というくくりになってるそうです。

 つまり、捜査三課の課長である水沼は、本来黄金警察署を職場としないことになります。現実と乖離した設定を出してしまい、警視庁の皆様には申し訳ありません。

 今後もし「なぜ水沼ゆうが一警察署で働いているのか」と質問されたら、「彼しか東が協力的にならないから特例措置として黄金署勤務になっている」ということにします。

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